五十円玉二十枚の惨劇

小野ニシン

第一章 五十円玉二十枚の謎

 谷本の目の前には黄金色の衣に包まれた海老や烏賊、キス、大葉が一つの皿から溢れんばかりに並んでいた。品の良い天ぷら油の匂いが鼻腔を刺激する。谷本は、一際存在感のある海老に向かって箸を伸ばした。


 海老の天ぷらを口に入れた瞬間、谷本の顎には快い感触が伝わった。ふんわりとした衣と歯ごたえの良い海老。口内には仄かに海鮮の風味が広がり、天ぷら油が全体を調和させてくれる。


「本当に美味しいですね」


 谷本は、心の底から湧いた感想を伝えた。単純な言葉だが、真に味わい深いものを食べた瞬間とはそういうものだ。グルメ番組のレポーターのように上手い言い回しがすぐに出てくるものではない。


 机を挟んだ向かいの席に座っている四十代後半の恰幅が良い男は、そんな谷本の様子を見て満面の笑みを浮かべていた。


「そうでしょうとも。この食材は全部この村で採られたものなんだよね。海老は沖の方で底引き網を使って採ってるのかな。烏賊は夜中に照明を使って採ってるやつで、鱚はもり突きで採れたもの。たまにクエが採れたりもするんだよ。大葉はもちろん裏の山で採ってきた山菜だからね」


「羨ましいです。こんなに美味しいものがいつでも食べられるなんて。本当は私が美味しいお店を紹介するべきなんでしょうけど」


「いやいや、そんなことは良いんだよ。この町の美味しいものをたらふく食べて、東京に帰ったときに皆に言い触らしてくれれば良いからさ。あっはっはっは」


 先ほどからずっと機嫌の良い男は豪快に笑った。



 谷本は、小さな港村の浜波村に来ていた。目の前に座っているのは、浜波村および周辺の地域で十店舗を展開するスーパーマーケット「スパルタカス」のチーフバイヤーを務めている金宮利光だった。


 谷本は東京に本社を構える食品メーカーの営業として、その日の午前中は金宮と商談をしていた。それから、どうしても連れていきたい店があると言われた谷本は、金宮に連れられて日本料理亭「はま」に来たのだった。


 大満足の食事が終わると、カウンターにいる女将のもとに向かった。財布を出して会計をしようとすると、女将は言った。


「お代は結構です」


 谷本は財布に入れていた手を止めた。これまでの会食では、商談相手が会計をしようとしたことはあったが、店側から会計がいらないと言われたことはない。


 顔を上げると、女将は谷本の後ろにいる金宮の顔を窺っているようだった。谷本は訊いた。


「なぜでしょうか?」


「金宮さんのお父様には大変お世話になっておりますから」


 女将は金宮利光に向けて何度かお辞儀をした。表向きにはとても丁寧な仕草だが、何かを恐れているような印象もにじみ出ている。谷本が後ろを振り返ると、金宮も気まずそうな顔をしていた。


 それから、今度は金宮が自分で払うと言い出したものの、谷本はそれを許すわけにはいかず現金を財布から取り出した。それでも女将はどうしても受け取ってくれず、続いて金宮もお札をほとんど押し付けるようにして渡そうとしたが、これも受け取ろうとはしない。結局、二人はお金を払わずにお店を出ることになった。


 店の前で二人は別れた。谷本は帰るまでにはまだ時間に余裕があったので、少しだけ浜波村を散策していくことにした。これは、辺鄙な街に出張に行く機会がしばしばある谷本の習慣だった。


 海辺の道路を歩いていると、磯の匂いが非常に濃く感じられた。雲一つない青空と波の少ない海の色がよくマッチしている。立ち止まって眺めれば心の休まる光景である。しかし、谷本はまっすぐ歩く先を見つめるばかりで、海の景色はほとんど目に入っているようではなかった。


 谷本の頭の中では先ほどの料亭でのもやもやする出来事が尾を引いていた。あの出来事の裏側にある事情には、谷本としても全く心当たりがないわけでもなかった。金宮利光の父親は「スパルタカス」の創業者であり現在は会長を務めている。浜波村出身の金宮利明は、おそらく村随一の有力者なのであろう。あの料亭と何か関係があるとしてもおかしくはない。


 でも、それは一体どのような関係なのだろう? 常連客なのかもしれないが、それにしては女将の笑顔はあまりにもぎこちなかった。それに常連だとしても、息子の会計までタダになる道理はない。


 すっきりしない出来事だった。とはいえ、これは谷本自身には関係のない話である。何があるのか知らないが、経費が浮いたことを喜ぶだけにしておこう。そう考えて、谷本は料亭での出来事を忘れるように努めた。


 谷本は南北に走る海沿いの道路を西に折れて、駅への道を歩き始めた。平日の昼間だというのに商店街のほとんどの店はシャッターが閉まっていた。そういえば、道路を歩いていても、若い人をほとんど見かけた覚えがない。過疎化が進んでいるのだろう。もはやどうしようもないが、やはり寂しいものである。


 駅の近くまで来て、谷本は一軒の書店を見つけた。チェーン店ではない、個人経営の書店だった。よくぞこんな村で個人書店が生き残っていたものだ。谷本は感動に近い想いすら覚えて、店の中に入った。


 店内では、深緑色のエプロンを付けた三十代ほどの女性が一人、入り口横のカウンターで店番をしていた。客はいない。谷本は店員に軽く会釈をすると、店内を廻り始めた。店は狭く、本が並べらているのは二つの棚の両面と三方の壁沿いだけだった。


 てっきり文庫本や話題の新刊本が並べられていると期待していたが、意外なことに最も広い面積を占めていたのは週刊誌だった。さらに、それほど広い店内でもないのに、アダルト系書籍のコーナーも充実していた。


 地方ではまだこんなものが売れているのかと谷本には驚きが隠せなかった。紙媒体でエロを摂取する人がまだいるとは。スマートフォンが苦手な高齢者が過半を占めている村の現状を踏まえれば、わからなくもなかった。


 谷本は、自らの信条として、女性に見られるかもしれないところでアダルトコーナーには入らないと決めていたので、代わりにその手前にある写真集コーナーを眺めることにした。


 棚に並べられた写真集の中で、ある名前が目についた。岩田光希。最近、谷本が推している清純派アイドルだった。そういえば、まだ写真集を買えていなかったことに谷本は気づき、ここで買って行くことにした。単価が高いので、この店で買って行けば、絶滅危惧種の個人書店が生き残る助けにもなるはずだ。


 谷本が写真集を手に取ってカウンターに向かおうとしたとき、扉が開いて七十歳くらいの背中が曲がった老人がひょこひょこと入ってきた。


 まっすぐカウンターに向かうと、上着のポケットをまさぐって光沢のある小銭をじゃらじゃらと取り出す。そして、がさがさの声でぶっきらぼうに言った。


「千円に両替」


 女性店員は、慣れた手つきで小銭を数えた。見たところ、すべて五十円玉のようだ。千円分なら二十枚である。


 数え終わると、店員はレジから千円札を取り出した。お札を受け取ったら、老人は来たときと同じくらいさっさと店から出て行ってしまった。


 谷本は一部始終を見るともなしに見ていた。違法行為が行われていたわけではない。五十円玉二十枚で千円に両替されただけだ。でも、なんとなく気になる出来事だった。五十円玉が二十枚も溜まることがあるだろうか。ないとは言わないが、それほど頻繁にあることでもない。


 もやもやした気分のまま、谷本は写真集をカウンターに置いた。写真集の値段は税込一九五〇円だったので、千円札を二枚出して五十円玉のお釣りを一枚受け取った。先ほどの五十円玉のうちの一つである。


 谷本は手の中にある硬貨をしげしげと眺めた。昭和45年の硬貨だった。五十年以上前の硬貨にしては妙に綺麗な印象である。だが、取り立てて変かというとそうでもない。古くても綺麗な硬貨はよくある。


 お釣りの五十円玉をじっくりと眺めている客を気味悪そうに見ている店員の視線に気づき、谷本は硬貨を財布に仕舞って書店を出ることにした。

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