劇場


 ふと気づいたとき、自分がなぜここにいるのかわからなかった。


 何か大事な役目をもってここに立っているような気がするのだが思い出すことが出来なかった。


 天井から射す白い光、ピカピカに磨かれた木製の床、光の奥の暗がりからこちらを見つめる気配。


 自分の鼓動の音だけが聞こえるような静けさに汗が噴き出していた。


 私は誰だ?


 光の向こうの暗がりの気配たちは息をひそめ待っているようだった。


 わたしは率直な疑問をぶつけることにした。


「教えてほしい。私は何者か」


 自分の声だけがあたりに響いた。


 暗がりの気配は答えない。

 

 私は先ほどより少し語気を強めて言った。


「教えてくれ。私は何者だ」

 

 気配の何人かが息を飲んだ。


 しかし、彼らは答えない。


「頼む」

 

 不安と恐怖で声が震える。

 

 前方の気配とは別に左手の暗闇から何人かがこちらを覗き込んでいるのに気付いた。


 彼らは慌てたように何か言葉を交わしジェスチャーでコミュニケーションをとっている。


 その様子に気をとられていると、目の前に音もなく赤い幕が下りてきた。


 目の前の暗がりは消え、幕の向こうから拍手が聞こえてきた。


 それと同時に先ほどこちらを覗き込んでいたと思われる人物が駆け寄ってきた。


「困りますよ。勝手にセリフ変えられたら」


 彼に促されて、私は舞台から降りた。

 

 ここがどこで、自分が何者なのかわからないままだったが、私は安堵していた。

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