第3話

 もうかれこれ、3時間が経過していた。ううっ。あと少しで、暖人くんに会える。ダメダメ。本人の前では暖人さんね。危ない。次か。息を整えなきゃ。

「お次のお嬢さん、こちらにおいで」

 見え始めてから30分以上、ずーっと見つめていたブースの穴から腕が伸び、こちらに向けて手が左右に動いていた。もう既に頭が機能しなくなりそうだ。ぎこちない動きでブースの前に歩く。

「来てくれてありがとう。さて、僕は何をしてあげたらいいのかな?」

「え、え、あ、えと」

 だ、駄目だ。呂律が回らない。時間は限られているのに。

「大丈夫。手、出してごらん」

 緊張していると、そんな指示を出され、頭も回らず、素直に手を前に出すことしかできない。ま、待って、は、暖人様が私の手を……お握りになっている!? やっと、事態がわかった。もう無理だ。

「さあ、深呼吸しよっか。僕に会えてるのに、緊張してちゃ、もったいないでしょ?」

「は、はい」

 すーっ。はーっ。すーっ。はーっ。

「よし。良くできたね。じゃあ、したいこと言ってみようか」

 コクりと頷いて、ゆっくり自分の言葉を伝えた。

「あ、あの、この、た、タオル、と、色紙、二、枚、に、さ、サイン、くだ、さい」

「ん、りょーかい! ちょっと待ってね」

 私の手を握りながら、片手でじっくりやりづらそうに書いている。

「あ、あの、手」

「手? ああ、じゃあ、色紙支えててくれる?」

 えっ? そういう? うまく伝わらなくて、若干驚いたけど、素直に指示にしたがった。瞬く間にサインを完成させ、暖人さんは最後に私の手を両手で握って『来てくれてありがとう』と放った。

 私はあっという間の3分を終え、列から出て外の空気を吸った。

「かっこよかった」

 ベンチに座り、色紙を広げながらそう呟いた。そういえば、私、ギリギリまで迷ってたことなんか忘れて、あいつの分の色紙も当たり前のように貰ってきちゃった。寒田、お前に時間使ったんだからな。感謝してくれなきゃ困るぞ。そういえば、外にいるって言ってたけどいないな。

 色紙を閉じてスマホを探そうとすると、膝の上に付箋がついていた。

『18:00 小一路公園においで 暖人』

 暖人様? 色紙にくっつけてたんだ。いつの間に? 私も片手で支えてたから、上の方を持ってたから、下の方書いているときは見えなかった。でも、人違いじゃ? いや、みんなに?

「でも、行くっきゃないよね」

 仮に本当なら推しの呼び出しをすっぽかすことはできない。疑いながらも、公園に向かった。


 18:00。時間だ。それらしい人はいそうにない。やっぱ何かの間違いだったのか。顔もわからないから、こちらからはどうすることも出来ない。よし、帰ろう。うん? あれ、誰かこっちに向かってくる。シルエットから段々姿が見えてくる。え、寒田?

「ごめんな、ひな。待たせちまって。色々あってさ」

 待たせて? 不味いこと言ったみたいな顔してるし、やっぱり寒田のことはわからない。それに結局先に帰ったって連絡が来てたのに。まあ、もういいや。

「これ、色紙。あんたの分ももらってきたよ」

「え、本当にわりぃことしたな。じゃあ、ちょっと待って、俺のサインやるよ」

 は? 当たり前のように寒田は真っ白なうちわをカバンから取り出し、会場で売っていた暖人様のイメカラの青のペンでおっきくいっぱいにサインを書きはじめた。書き終えると、強引に私の胸に押し込まれた。奇しくも、いやわざとだろうけど、サインは暖人様と全く同じで加えて『Dear Hina』と書かれている。もう、私はなんとなく理解した。ただでさえ、女性ファンが大部分を占める暖人様、そしてそのチケットを二枚も。信じたくないけど。

「さいってぇね! でも、ありがとう」

 私の気持ちそのものを何の繕いもなく口にした。無駄に駆け引きをする余裕もなかったから。軽くも重いそんな気持ちを伝えてもなお、顔をあげることが出来なかった。自分の顔が真っ赤になっていることが分かったから。反則だよ。こんなの。

『服、似合ってる。かわいいね!』

 そして数秒して、彼の声が聞こえた。

「最低で悪かったな」

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