悪い男のサンクチュアリ

真木

1 変化のはじまり

 瑞希みずき一也かずやの家に引き取られて、もうすぐ十年になる。

 瑞希は一也のことを、言葉が少ない人だと知っていたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。

由奈ゆなと夫の離婚が成立した』

 電話に出た瑞希への、開口一番でこれだ。

 瑞希はごくんと息を呑んで、そっと問いかけようとする。

「それで……」

『それだけだ。ひとまず由奈にそう伝えてやれ』

「うん。もちろんするけど、それで」

 電話口の向こうで紙か何かを投げる気配がして、一也はつまらなそうに言う。

『話にならないね。他を当たってくれ』

 瑞希に向けられたわけではないのに、その声色は勝手に背筋が緊張するような迫力がある。

 弁護士をしている一也は、某漫画の外科医みたいだと言われる。危うい仕事を持ちかける依頼人に、初対面で法外な報酬をふっかける。ただし一度引き受ければ仕事はそつなくこなして……その外科医みたいに、理由あって無報酬で仕事をすることもある。

 その無報酬の仕事の一つが、由奈と夫の離婚だった。普段もっと華やかな仕事も、報酬のいい仕事も持っている一也が、その一見地味な仕事を無条件で引き受けた。

 その理由を、瑞希は今も訊けずにいる。

「私は、これから」

『ん? 気を付けて帰って、よく食べて早く寝ろよ。切るぞ』

「あ、ちょっと」

 一方的に通話を打ち切られて、瑞希は顔をしかめながら携帯を耳から外す。

「……いつまでも子ども扱いなんだから」

 けれど携帯をポケットに仕舞う頃にはもう、今しがた耳にした情報を伝えるべき人を見ていた。

「何だったの、瑞希ちゃん」

 顔を上げると、つい先ほどまで横になっていたはずの人が、すぐ側に立っていた。

 瑞希は慌てて彼女を制止しながら言う。

「由奈さん。こっちは大丈夫、寝ていてください」

 一也の妹分の弁護士で、瑞希が幼い頃からお世話になっている由奈は、結婚して子どもが生まれた今も、どこか少女の雰囲気が漂う。

 十年来、一也の下でバリバリ仕事をしてきた人だ。でも彼女は色白で華奢で、守ってあげたくなるような柔らかい空気をまとっていた。

 瑞希は深呼吸して、一也に聞いたその事実を告げる。

「一也から連絡が来ました。由奈さん、旦那さんとの離婚が成立したそうです。……よかったですね」

 瑞希が安堵の息をつくと、由奈はくしゃりと顔を歪めた。

 由奈はずっと張りつめていた糸が切れたように泣きだして、瑞希はそんな彼女の背を長いことさすっていた。




 高層マンションから見下ろす夜景は、ちょっとした宝石以上の値打ちがあるものらしい。

「大人って、わかんない」

 だけど十七歳の瑞希にはいまいちぴんとこなくて、カーテンをさっさと閉めてソファーに腰を落ち着けた。

 向かい側のテレビは新品同然の大画面で、瑞希が今座っているソファーだって沈み具合が絶妙な高級品だった。一也はここの一フロアまるごとを所有していて、瑞希の部屋だけでクラスメイトの家が入りそうな余裕があった。

 ……でも一人でいたら、かえって寂しいだけじゃん?

 瑞希はふてくされたように足を投げ出して、リモコンでテレビをつけた。

――今日からはここが瑞希の家だ。欲しいものは何でも言ったらいい。

 そう一也に言われたのは、瑞希が両親を亡くしてから一週間の後。

 瑞希は一也から見て、従妹の子どもに当たる。でも両親は訳あって親族から縁を切られていて、一也はそんな親族を嫌ってずっと一人で暮らしてきたらしい。

 瑞希と一也は、ふたりぼっちの家族。誰も二人の間には入れない。

 瑞希はぽつりとつぶやく。

「由奈さん、離婚したんだ」

 でも瑞希と一也の関係が変わらないなんて、思っていたのは自分だけだったかもしれない。瑞希は近頃そう考えるようになった。

「じゃあもう……一也と結婚できるよね」

 考えてみれば、今までどうして二人が結婚していないのか不思議だった。一也は他人には淡白だけど由奈には優しいし、由奈が夫に暴力を振るわれているとわかってからは、迷わず彼女を庇った。

「……私、これからどうしよう」

 ちょうど瑞希は大学に進学する時期で、この家を出て行くなら格好のタイミングだ。

 瑞希がするべきことは、簡単だ。遠くの大学に行きたいと、一也に言う。一也は自分で言ったとおり、昔から何でも欲しいものを与えてくれた。一也なら、きっと今度も叶えてくれる。

 ……だからぜいたくになっちゃったんだな、私。

 ふいにカードキーを通す独特の電子音がして、玄関から誰か上がってくる気配がした。

 一瞬、頬に体温が触れる。

「ただいま」

 後ろから抱きしめられて、瑞希は口をへの字にした。

 出かけるときと、帰ったときは家族のあいさつをしよう。一也はそう言って、いつも瑞希を抱きしめる。

 両親を亡くしたばかりの頃の瑞希は、そのぬくもりが愛おしくて泣いてしまった。

 それで子どもの頃は、瑞希もその家族のあいさつが大好きで、ぎゅっと一也を抱きしめ返していた。

「……わかったから。おかえり」

 最近、瑞希が一也を抱きしめ返さなくなったのは、恥ずかしいから……だけじゃない。

 横目で見上げると、たぶん瑞希が知るどんな大人よりスーツが似合う男が困ったように微笑して瑞希を見下ろしていた。

 均整の取れた長身、少し不遜な表情、一也は一般的なサラリーマンではないものの、理想的な大人の男の物腰を持っている。

 ……きっと彼は瑞希のことをただの反抗期だと思っているから、瑞希は本当のところを打ち明けられない。

 瑞希は一也の腕を振り払って、そっけなく言い捨てる。

「ごはん食べたら? 私はもう寝るから」

 瑞希は立ち上がってリビングを横切ると、自室に入って背中で扉を閉じた。

 ばくばくと心臓がまだうるさい。

 家族としてはもう時間切れだと思う。瑞希はそろそろ、この感情の正体を認めるときだ。

 それが今の瑞希と一也の関係だった。

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