第25話 その気持ちの名は
小柄だが明らかに常人にはない覇気を感じさせる美女が好奇心を隠そうともせずこちらを直視している。
なんとも不思議な戦慄がエウメネスを捕らえていた。
生き生きとした野生的でありながら透徹した知性をも秘めた瞳で見つめられることになぜか背筋を冷たく走るものがあることをエウメネスは認めないわけにはいかなかった。
………これが生まれながらのカリスマ、というやつですか………
確かに目の前の美女が魅力的な女性であることに否やはないが、エウメネスはこの感情がもちろん恋情であるとは考えていない。
女性なので最初は戸惑ったが非常に近しい感覚をエウメネスは感じたことがあったのを思い出したのである。
すなわち、主君アレクサンドロス…………。
戦場に立つ稀代の英雄アレクサンドロスほどの劇的さはないが、二人のそれは間違いなく同種のものであった。
人は生まれながらに備えられた器の大きさがあるとエウメネスは考えている。
そして器の中身がその人間の能力、中身を注ぐ作業が努力だ。
努力は器の中身の量には影響を与えはするが、決してその量は器の大きさを超えることはできない。
だからこそ人は意識的にせよ無意識にせよ巨大な器に対して己の足らざる部分を付託せざるをえないのである。
目の前の女性はこの世に数少ないそうした巨大な器としての条件を備えているのに違いなかった。
「もう少し命を大事にしたほうがよろしいと思いますよ」
たいていの場合巨大な器は運も強い。
主君アレクサンドロスなどはその典型的な例であろう。
それにしても先ほどの彼女の行為は蛮勇と評すべきほかないものだ。
故郷カルディアで政争に巻き込まれ、フィリッポス二世に拾われてからも様々な変転を強いられてきたエウメネスには彼女が犬死しようとしているようにしか見えなかった。
生きていてこそ人は未来に希望をつなぐことができるはずなのだが。
「死は誰にも等しく訪れるものだ。命を大事にするとは己の節を曲げずに生を全うするということよ。もしも私が節を曲げることがあるとすれば……それは愛しい男のためだけじゃ」
そう答えた彼女は誇らしげに微笑んでいた。
そのてらいのない表情のなんと美しく、なんと気高く見えたことか。
たとえ泥をすすってでも生き延びることを信条とする自分がいっそみじめですらあった。
自分には決して真似はできないだろうが、彼女であればきっと理不尽な死のなかでも気高いままに死んでいけるのであろう。
「貴女にそう言わせるほどの男はさぞ立派な御方なのでしょうね………」
まるでスキタイの草原に吹く烈風のような………故郷カルディアの蒼い海を吹き抜ける潮風のような彼女がその節を曲げると言うほどの男である。
同じ男の一人としてエウメネスも羨望の念を禁じえない。
たとえるならばあの王が一人の女のために戦を止めることがあるだろうか。
そんなことはありえないことをエウメネスは知っているだけに、そこまで彼女に想われる男が並の人物であろうはずがないことを確信していた。
「何、そなたもマケドニア軍のものであれば聞いたことがあろうよ…………ミュティレネで病死したペルシャの将メムノンがわが夫じゃ」
エウメネスはかろうじて悲鳴を飲み込むことに成功した。
しかし頬を滴り落ちる汗やひりつくような喉の渇きまではさすがに隠しようもない。
勇将メムノンの名はそれだけエウメネスにとっても重大な意味を持ち合わせていたのである。
「………まさかそこまで驚かれるとはな。もはや死んだ者にマケドニアを脅かす力なぞないのだぞ?」
そう言って苦笑する女性の名をエウメネスは知悉していた。
「……あと半年のお命があれば勝利は貴女のご夫君のものであったでありましょう。バルシネー様」
バルシネーはペルシャ王家の血をひく末席とはいえれっきとした王族の一員である。
父であるアルダバゾスはかつて王位を狙って反乱を起こしたこともある人物で、フィリッポス二世の在世中にはマケドニアに亡命していたことすらある。
その血筋を考えればバルシネーを娶ったメムノンはいかに大きな期待をかけられていたかがわかるであろう。
エウメネスの偽りのない賛辞にバルシネーは鷹揚に頷きながら邪気のない笑みを見せた。
まるで子供が自分の宝物を褒められたかのような無垢な微笑みであった。
しかし今はその微笑が斬られるように痛い。
メムノンを毒殺したことを後悔はしていない。
あのとき彼を止めるには暗殺以外の方法はなかった。
そして彼の生存は間違いなくマケドニア王国の滅亡を意味していたのである。
それほどにメムノンは危険な将であった。
もしも彼が最初からペルシャの総指揮官であったならば、グラニコスの夜戦の時点でマケドニア軍は故国へ追い払われてしたに違いなかった。
戦場で相対する危険度においてメムノンという男はダレイオス王にすら勝る存在なのだ。
だからといって彼を倒した方法が恥ずべきものであることもまた確かなことであった。
少なくとも剣によってではなく毒と詐術によって命を奪うという行為はマケドニア王国にあってはもっとも恥ずべき行為のひとつであると言ってよい。
誇り高きマケドニア人は剣によって立つという民族としての伝統が存在した。
マケドニアの歴史において幾度となく発生した暗殺でも、それが毒殺であったことは一度としてないのである。
復讐であるにせよ、己の野望のためであるにせよ、マケドニアで一定の支持を得るためにはそれが自らの武によって立っていなければならなかった。
メムノンを毒殺した行為そのものが、エウメネスが決してマケドニアに帰化することの出来ぬ異邦人であることを何よりも雄弁に物語っていたのであった。
計画を承知していたあのアンティゴノスでさえも、おそらくは毒殺という手段には躊躇せざるを得なかったであろう。
権謀術数に通じ知勇兼備の老雄といえどもマケドニア人としての宿縁から無縁ではありえないのだ。
「強かったか、我が夫は」
バルシネーの問いにエウメネスは満腔の息をこめて頷いた。
あまりに彼は強すぎた。強すぎたゆえにこそ彼は死ななければならなかったのだから。
「メムノン殿ほどの武人はもはやペルシャ広しといえどもおられますまい」
ペルシャ軍にとって不幸なことにそれは全くの事実であった。
ダレイオスも知勇を兼ね備えた良将ではあるのだが、実戦の指揮官としては無理やりにでも戦の流れを手繰り寄せる強引さと何より運が決定的に不足していた。
そうでありながら第一線を託すことのできる戦略級の指揮官がダレイオス以外にどこを見渡してもいないのである。
もしもメムノンのような異国人ではなくペルシャ貴族のなかに同じだけの才能を持った人間がいればダレイオスは安全なバビロンから縦横無尽にその政戦両略を振るえたに違いなかった。
「我が夫に匹敵する人物がペルシャにおらぬとはなんとも耳に痛い言葉じゃが……まあ妻としては礼を返すべきであろうな」
およそマケドニアの虜囚となるべきペルシャ貴族の姿とも思われぬ光景であった。
傲然とエウメネスの賞賛を受け入れたバルシネーはどう見ても勝者以外のものには見えなかったのである。
あるいは事情を知らないものが見れば、エウメネスがバルシネーに求愛しようとかしづいているようにも見えたかもしれない。
バルシネーの背中に庇われていたアルトニスはエウメネスの美貌を陶然となって見つめていた。
マケドニアにせよペルシャにせよ、男性的な魅力というものは決して中性的な顔立ちではないのだが、それでもエウメネスの美貌は度を越しているものに思われた。
もしも女装したならば明日にもペルシャ宮廷一の寵姫にもなれるであろう美貌である。
それでいて精悍な男性的魅力に欠けているというわけでもない。
無法なヘラス傭兵を退けたその威風には犯しがたい気品すら感じられるほどだ。
アルトニスは決してバルシネーほどにメムノンに寵愛されていたとは言いがたかったが、それでもメムノンが自分にとって至上の男であることを疑ってはいなかった。
その経験則が根底から覆されようとしていることをアルトニスは感じた。
バルシネーほどに奔放さも意思の強さもないアルトニスはこれまで非常に小さな世界に生きてきた。
メムノンが失われ、母国ペルシャの庇護さえ失ったアルトニスはつい先ほどまで自分の世界が終焉したように感じていたはずであった。
しかし今は感じたことのない新鮮な喜びに近い感情を抑えることができない。
ただアルトニスはその感情に名前をつけることが出来ずにいた。
――――マケドニア人は獣も同然とばかり思っていたけれど…………。
メムノンの訃報が届いて以来、どこか鬱屈したものを抱えていた姉が久しぶりにかつての闊達さを取り戻していることが何故か胸に痛い。
おかしい、姉さまが元気になってくれて私はうれしいはずだ。
誰よりも気高く、強く、優しく、聡明な私の自慢の姉さま。
いつも私を守り導いてくれた姉さまが少しでも心安らがせてくれるのならこんなにうれしいことはない。
そのはずなのに―――。
強すぎる姉の庇護下にあった妹は、姉に対して否定的な感情を抱く可能性など思いもよらずにいた。
太陽の光なくては生きられぬ植物と同様、太陽の光射すところ必ずや暗い影もまた生まれるということを知るにはアルトニスの精神は幼すぎたのである。
しかしそれは決してアルトニスのせいであるだけではない。
生まれながらに巨大な力をもちえた者は、持たざるものの弱さというものにひどく鈍感なものなのだ。
ひとことで言うならばバルシネーはアルトニスを過保護に育て過ぎたのである。
「………殴りたい。天に届くほど音高く」
「残念ながらあっさりかわされたあげく泣くまで折檻されることになると思いますが」
正当なはずのオレの怒りはあっけなくヒエロニュモスに否定されていた。
確かにその通りかもしれない、しかし男には負けるとわかっていても戦わなければならないときがあるのである。
リア充に正義の裁きを。
「何か言いたそうだね、レオンナトス」
「滅相もございませんっ!」
しかしにこやかなエウメネスの氷の微笑を見た瞬間オレの決意は木っ端微塵に吹き飛んでいた。
あの冷ややかな目をオレは知っている。
ダマスカスの資材を手配し終わるまで寝る暇もないほどこき使う、と言う目だった。
いやだ………あの毎日数時間しか寝れない過重労働の日々はいやああああああああ!
「どうして貴方はそう同じ失敗を繰り返しますか………」
うるさいっ!リア充は世界の敵なのだ。だいたいお前だって同じ悲しい独り身だろう?
「いえいえ、私は故郷にちゃんと妻がおりますから………」
「何いいいいいいいいいいいい!!!」
ま、まさかヒエロニュモスにっ!オレと同じ不可触民(アウトカースト)のはずのヒエロニュモスに妻……だと?
裏切ったな!僕の気持ちを裏切ったな!
「い、いつの間に…………というか今まで全くそんな女っ気なかっただろう。本当なのか?」
お願いだから嘘と言って欲しい。
僕はこれでもマケドニア王家に連なる血統書付なはずなのにそんな相手どこにもイナイ。
こんなに必死に頑張ってるのに。
というか拒否権もなくこき使われています。
……シャーロッテ、君はオレの恋人で間違いなかったよね?
実はお情けで付き合ったけれど幼馴染以外の感情は本当はなかったとか言わないよね?
思わず今は遠い現代に置いてきた恋人にすがりつきたくなるオレがいた。
「まあ、生まれる前からすでに妻として決められていたものですから………正直あまり意識する歳でもありませんですし………」
ちょっと待て。
「参考までに聞くがお前の奥さんは幾つだ、ヒエロニュモス」
「今年12歳になったばかりですが」
おのれリア充のうえロリときたか!虫も殺せないような顔をしてヒエロニュモス………おそろしい子!!
「…………ところでエウメネス殿、あの御仁がマケドニア王家に連なるというのは真なのか?」
珍獣でも見るようにバルシネーは大きく目を見開いていた。
あそこまで嫉妬をあけすけに出来る人間をバルシネーは見たことがない。
バルシネーにとって王族とはもう少し誇り高い生き物であるはずだった。
「間違いなくマケドニア王家のものですよ………正直王家に生まれついたのが間違いとしか思えないときもありますが………私の親友です」
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