第8話 前哨戦

 グラニコス川夜戦でのマケドニア軍の大勝利は敵味方双方に甚大な影響を与えずにはおかなかった。

 アケメネス朝ペルシャにとってこの戦いの結果は全く予想外のものであり、その対応は混乱と拙劣を極めたといっていい。

 辺境の蛮族に過ぎないマケドニア軍に敗れた責任を追及され、現地ヘッレスポントスとフリュギアの太守であったアルシテスは自殺にまで追い込まれてしまった。

 太守として最前線の統治に携わってきた彼の理不尽な死は、現地の住民を大きくマケドニア側に傾かせる要因ともなったのである。

 彼が追い詰められた背景には、メムノンの詳細な報告がダレイオス王のもとに届けられたためとも噂されるが定かなことはわからない。

 少なくともグラニコス戦の指揮官の中でほとんどのものが戦死し、あるいは処分されたにもかかわらず、メムノンだけが小アジア方面の総指揮官として出世したことは事実であった。

 マケドニア軍にとって幸いであったのは、小アジアにおけるペルシャ最大の拠点であったサルディスは戦わずして降伏することを選び、周辺の各都市もサルディスにならう形で降伏したことである。

 中には進んで糧食や資金を提供する都市もあり、これは補給に苦しむマケドニア軍にとっては恵みの雨のごとき贈り物であった。

 もしもこれらの都市が敵わぬまでも一戦する覚悟があれば、マケドニアとしてもこれを叩きのめし物資の調達には略奪に頼るほかなかったであろう。

 敗北した都市を略奪するのはこの時代には別に珍しいことではないが、今後の占領行政を考えた場合そんなことをせずに済むにこしたことはないのであった。

 マケドニアに鞍替えしたエフェソスでは、これまでの支配層であった寡頭派や反マケドニアの領袖が親マケドニア派の市民に引き出され残虐ななぶり殺しにあっていたが、アレクサンドロスはこの虐殺がさらに拡大することを禁じて治安を悪化から守った。

 こうした政変にあっては財産目当てで便乗するものが罪のない民を虐殺の対象とすることを彼はよく知っていたのだ。

 この処置は結果的に新たな支配者としてのアレクサンドロスの識見とマケドニアの威信を大きく高めることとなったのである。

 また、アレクサンドロスはペルシャ・ギリシャを問わずグラニコス川に倒れた戦死者を丁重に埋葬して彼らの死を称えた。

「彼らを粗末に扱ってはならない。彼らの行いは戦士の魂になんら恥じることはないのだから」

 敵味方を差別しないアレクサンドロスの大度は彼の英雄としての資質を否応なく喧伝することとなった。

 だが、彼が頭を低くして敵を称えたのはあくまでも死んだ敵に対してである。

 アレクサンドロスが死者に敬意を払い、生者に容赦のないのは生来の嗜好であるらしい。

 降伏を選択したギリシャ傭兵などの末路は悲惨で全員が奴隷として売り払われ、抵抗するものは一人残らず殺された。

 メムノンほどにグラニコス川の戦の行方に淡白でいられなかったのが彼らの不幸であった。


 アレクサンドロスの戦いはいまだ始まったばかりである。

 その道のりはまだ遥かに遠く、困難さは想像を絶するものとなるだろう。

 エフェソスの南方ではペルシャ海軍の支援を受けたミレトス・ハリカルナッソスといった諸市が反マケドニアの旗幟を鮮明にしており、特にハリカルナッソスではあのメムノンが作戦のフリーハンドを得て満を持して待ち構えているのだから。


****************


「少々待たせることになるかもしれん。だが勝ちのこるのは誓ってオレだ………だから……オレが迎えに行くまで元気でいてくれ」

 メムノンの矜持のこもった強い言葉も、目の前の美女の憂色を払うには至らなかったようであった。

「戦いが全て思い通りになるなんて貴方も思ってないでしょう?勝つにこしたことはないけど………それより必ず生きて迎えに来て」

 そう答えるバルシネーの顔色からはいつもの闊達で生命力に満ちた生気が感じられない。

 彼女のなかの予感が不吉な未来を予想させずにはおかないのだ。

 もしかしてこのままメムノンと顔を合わせる機会はもう二度とないのではないか………と。

 バルシネーをはじめとするメムノンの妻と家族たちは今日、ダマスカスへ向けて出発することになっていた。

 小アジア方面軍の司令官となったメムノンではあるが、マケドニア側に裏切るものが続出したこともあって家族を体のいい人質として王室に差し出さないわけにはいかなくなったのである。

 不本意な部分もあるが、都市持久戦を戦おうとしているメムノンにとってもこの提案は渡りに船でもあった。

 ハリカリナッソスは二重の防壁と年来の精鋭で防備を固めているとはいえ、勢いと兵力に勝るマケドニアを相手にいつまでも守り続けることは難しい。

 出来うるだけ持久したならば後は都市に火を放って、資金と糧食を全て焼き尽くすのが当初からの計画である。

 そうした篭城戦末期には都市住民は往々にして敵に寝返りやすく、とてもではないが家族を手元に置いておけるような環境にはないのであった。

 マケドニアを破滅へと追い落とす必殺の戦略がメムノンにはあるが、戦いに絶対がないのはグラニコス川でも思い知らされたことだ。

 簡単な話、運のない者は流れ矢にあたってもあっさりと命を落とす。

 だとしてもここで愛する女性にわざわざ戦士の宿命を説くつもりはメムノンにはなかった。

「傭兵は死なんさ、意地でも生き残ってみせる。だから………そんな悲しそうな顔をしないでくれ、バルシネー」

 メムノンにはある心算がある。

 アケメネス朝ペルシャのなかでギリシャ傭兵の地位は決して高いものとはいえないが、ここでマケドニアに対して決定的な勝利を収めることができたならばその状況は一変するはずであった。

おそらくはこの小アジアで二、三州を統括する太守に任命されることも決して夢ではない。


 ………ただ確証が欲しかった。


 バルシネーは大国ペルシャでも上位に含まれる大貴族の血を引いている。

 その血に惹かれてバルシネーを望んだのがメムノンの兄メントルであり、彼の判断はトロアス(トロイ)地方の領主という形で報われた。

 だが、王家の血すら引くバルシネーの夫としてそんな一領主程度の地位ではまだまだ足りない。

 兄がそうした焦慮に駆られ自ら死地に飛び込んでいった日のことをメムノンは昨日のことのように覚えていた。

 血だけではない。身体のうちから湧き出るバルシネーの生まれ持った高貴さが、傍らに立つものにその立場に見合った器を強要するのだ。


 ………この勝利をもってお前に相応しい男としての証とする!


 メムノンの想いを知ってか知らずかバルシネーの憂色は一向に去ろうとはしなかった。

「メムノン………今の私は貴方の義姉ではないのよ?早く貴方が私が妻なのだということを思い出してくれることを祈っているわ」

 花が美しいのは花自身の意志ではない。

 花は咲こうとしてはいても、美しくあろうとなどとは思ってもみないだろう。

 しかし花を愛でるものにとって花は美しくあることにこそ無上の価値がある。

 花の悲しみは花を愛でる者には決して理解することはできないのというが世の運命なのであった。


********************


 快進撃を続けているかに見えるマケドニア軍だが、抗戦の意志を固めているミレトスを前にしてさすがに停滞を余儀なくされていた。

 本格的な都市攻城戦を行う場合、攻城武器の構築や準備に時間を取られるのはいたし方のないことなのである。

 とはいえ本来なら無駄な戦いではあった。

 ミレトスの総指揮官であるヘゲシストラトスはつい先ごろまでほとんど降伏に傾きかけていたからだ。

 ところがペルシャ艦隊接近の報を聞きつけた彼はこれに勇気づけられる形で徹底抗戦に踏み切っていた。

 海上から自由な補給と援軍を許してしまえば、もはや都市は生半なことでは陥ちない。

 だからといって一都市に時間と兵を浪費するぜいたくはマケドニア軍には許されていないのも事実だ。

 時を置くほどにペルシャ軍が回復して陣容を厚くするのは確実なのだから。

 マケドニア首脳部の苦悩は素人のオレにも察するにあまりあるものであった。

 とはいえ史実としてニカノル率いるマケドニア艦隊がペルシャ艦隊より先に到着することを知っているオレとしてはとりたててペルシャ艦隊の来援を気にしてはいない。

 というか気にしている暇がなかった。

「レオンナトス!エフェソスからの補給分を受け取りにいってくれ。あと巡検と倉庫の管理の人選も頼む」

 ………エウメネスにあごでこきつかわれていたからです。

 これでも王家由来の大貴族なのですがこの扱いはなんなのでしょうか?

 だいたい軍務をおろそかにしてるとかいってヘファスティオンあたりがうるさいのですよ?

「レオンナトスはグラニコス川の馬上でおしっこを………いや、それどころかあまつさえ………」


 私が悪うございましたあああああ!!! だからそれ以上言わないで!!


 オレの処遇に対する不満はともかくとして、エウメネスを王が総書記官として同行させた理由をオレはようやくにして理解していた。

 ってかこんな仕事はエウメネスにしかできない。

 軍の規模に反して膨れ上がった占領地の管理監督

 底を尽きそうなマケドニア軍の資金の効率的運用と節減

 マケドニアに友好的な占領地からの資金提供や、反抗的な占領地からの収奪とそれらを有効的に使うための一元的な管理の方法。

 その全てをエウメネスが差配しているのだ。

 本国で数百に及ぶ文官が手足となってくれていたときはともかく、戦場に連れてこれた文官は数えるほどしかいないのにもかかわらずである。

 それでいて本国並みに巨大な領域を管理しようというのだから恐れ入る。

 まがりなりにもそれを成し遂げている事実がエウメネスの優秀さを明瞭に示していた。

 困ったことにそれだけの難事にも全く理解を示さないバカが多いのが現在のマケドニア軍の実情だったりする。

 特にヘファイスティオンやクレイトスやクラテロスといった面々がその筆頭だった。

 戦場では頼りになる存在なのだが、戦場を離れると本当に全くといっていいほど役に立たない。

 現在の軍中で占領行政にいささかなりとも理解を示してくれるのはパルメニオンとフィロータスくらいなものだ。

 ペルディッカスやメレアグロスも表向きは理解しているように振舞っているが、その大半は気分的なものだろうというのがオレの見解だった。

「だいぶ疲れていらっしゃいますね………」

 なれない作業に疲労困憊していると、ヒエロニュモスが水をもって現れた。

 エウメネスの直属の文官である彼も忙しく飛び回っているはずだが、こうして気を回してくれるのだからありがたい。

 オレのなかではヒエロニュモス株鰻登りである。

 主にエウメネスにこき使われているもの同士の意味で。

「あまり役に立てなくてすまんな………」

 こき使われているとはいえ、主な作業は雑用と変わらない。

 エウメネスやヒエロニュモスはこの何倍も複雑な作業を強いられていることだろう。

「いえとんでもない!レオンナトス様は計数に強いので非常に助かっています」

 これでも大学生だから四則演算くらいはさすがにできるけどな。

 現実問題ではそれをどう現場に生かすかが難しい。

「……レオンナトス様にこんな仕事まで手伝っていただいて、本当になんとお礼を申し上げてよいか……どうかエウメネスの無礼をお許しください」

 丸顔で垂れ目がちな、温厚を絵に描いたようなヒエロニュモスがそういって頭を下げた。

 このところ気安く会話をするようになってわかったことだが、彼はエウメネスと同様にカルディアの出身で、有力な商家の出であるらしい。

 現在の僭主ヘカタイオスに睨まれてマケドニアに亡命してきたそうだ。

 エウメネスとはカルディア時代からの幼馴染で腐れ縁ということらしかった。

 善良すぎてエウメネスにいいように騙されているような気がして彼の将来が懸念されるところではある。

「まあ、ここでオレたちが頑張らないと勝手に略奪を始める奴らが出てきて全軍の統制も乱れるからな……」

 困窮した兵士たちは容易く略奪に走る。

 軍紀の乱れは統率の乱れにも繋がるのだ。敵中に孤立した形のマケドニア軍はまさに軍の統率こそが生命線なのであって、これが失われては破滅への道を真っ逆様に進むことになるだろう。

「そういってわかってくださるのはレオンナトス様のほかにはパルメニオン様とアンティゴノス様ぐらいですよ………」

 二大重鎮しか理解してくれんとは本当に大丈夫なのかマケドニア?というか大丈夫じゃなかったから後継者戦争なんかが起きたんだろうけどな。

 どうやら休息の時間は早くも終わりを告げたようであった。

 ヒエロニュモスの部下が足早に現れて新たな仕事の催促を告げたのである。

「さて、オレももう一仕事するか………」

 ヒエロニュモスたちと仲良くなれたのはありがたいが、どうも武官の連中と疎遠なのが問題だな………。

 ヘファイスティオンはもとよりクレイトスやペルディッカスとの関係も悪化してきている今日この頃なのである。

 パルメニオンの親父が何故か意味不明に好意的なのが救いであった。

「……ニカノルの奴がもうすぐ到着するんで機嫌でもいいのかな?」

 理由はどうあれパルメニオンに睨まれなくてすむのはありがたい。

 一学徒にはなんとも荷の重い対人関係なのであった。



 史実どおりニカノルはペルシャ艦隊より三日ほど早くに到着した。

 万が一ペルシャ艦隊が先に到着していたならば、マケドニアに為す術はなかっただけにこれは僥倖と考えるべきであろう。

 しかし僥倖を神意とか解釈して調子にのるのは勘弁してほしい。

「やはり神は余に勝利を求めておられる!」

 アレクサンドロスが脳内で絶賛妄想中なのはその恍惚とした表情からも疑いない。

 いつか一人で敵の大軍に突っ込んでいきそうで怖い、いやマジで。

「もはやペルシャ海軍など恐れるにたりませぬな!」

 おお、ペルディッカスよ、お前もか!

 フェニキア人が多数を占める歴戦のペルシャ艦隊に、急ごしらえのマケドニア艦隊が敵うはずないだろ、常識的に考えて………。

 戦意過多気味のアレクサンドロスにオレは不安の色を隠せなかった。

 暴走して史実を書き換えそうな先の読めなさがなんともいえず恐ろしくてならないのだ。

 その不安は三日後、ペルシャ艦隊の到着とともに的中することとなる………。

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