第6話 グラニコス川夜戦決着
白馬に跨るミトリダテスの体躯は大きく、四肢に盛り上がる筋肉は大理石で造られた英雄の彫像を思わせた。
ペルシャ王が見初めて、娘を託したのも決して故ないことではない。ミトリダテスは確かに王婿に相応しい武勇の所有者であったのである。
ミトリダテスに続く戦士たちも一騎当千の勇者揃いで知られていた。ロイサケスもスピトリダテスも馬上にあっては無双の武名を轟かしている人物であったのだ。
その雄姿を前にしてペルシャ軍兵士が沸くものはあまりにも当然のことなのであった。
「マケドニアの小僧め!せめてオレの手で葬ってくれようぞ!」
馬腹を蹴ってミトリダテスが駆け出したとき、すでにアレクサンドロスの目にはミトリダテスしか映っていなかった。
「おいおい!いい加減にしろよ!」
素人のオレにでもわかる。
あの相手はやばい。たぶんオレがいっても全く歯が立たないほどにやばい相手だ。
それに向かって一人で突っ走っていくアレクサンドロスの気がしれなかった。
アレクサンドロスの愛馬ブケファラスが、ヘファイスティオンやクレイトスを置き去りにどんどんとミトリダテスとの距離を詰めていく。
死にたいのか、死ぬことを考えてもいないのか、いずれにしろ常人の状況判断でないことだけは確かであった。
できれば全力で見捨てたいところだが、そうも言っていられないのがつらいところだ。
「陛下!お待ちを―――!」
オレの騎馬術ではアレクサンドロスに追いつける可能性は低い。
咄嗟にオレは大地に突き立って主を失くしていたペルシャ騎兵の投槍を手に取っていた。
一方、ミトリダテスは己の優位を信じて疑ってはいなかった。
アレクサンドロスは愚かにも一人で突出することを選択した。
しかも体躯と、おそらくは膂力においても自分が勝ることは明らかだ。やはり蛮族の王は蛮族の王にすぎないということらしい。
サリッサと呼ばれるマケドニアの長槍は、約三メートルという間合いの長さから集団戦においては無類の強さを発揮するが、乱戦になるとその取り回しの難しさから一転して不利に陥る。
アレクサンドロスのやろうとしていることは戦術的にも一人の戦士としても愚かと呼ばれてもしかたのないことであったのだ。
だからこそ、ミトリダテスはアレクサンドロスの迷いのない瞳に一瞬の躊躇を覚えずにはいられなかった。
自分が敗北するなどとは露ほども考えてはいないであろう確信に満ちた鳶色の瞳に思わず気おされたといってよい。
彼は獲物を狩る立場なのであって狩られる立場にいたことは断じてない。
迫り来る若者が、自分を狩ろうとしていることに本質的な違和感を感じずにはいられなかったのである。
ミトリダテスの逡巡などアレクサンドロスは意にも介さない。
彼の胸に去来するのはイリアスに語られるアキレウスの壮大な叙事詩であった。
かつてトロイア戦争で英雄アキレウスがヘクトールを一騎討ちに倒したように、自分もまたミトリダテスを討ち果たしてみせる。
強敵を相手に勇を奮い、これに打ち勝つことこそ英雄たるの努めであるはずだった。
アレクサンドロスの顔面をめがけてミトリダテスの槍が飛ぶ。
風を切り裂き一条の閃光が頬を掠めていくのを、アレクサンドロスは瞬きもせずに見送った。
やはり神は自分に何かを成すことを求めている―――
命を拾ったことでアレクサンドロスは獰猛な笑みを浮かべた。
もしもこのとき、ミトリダテスが欲を出さずに胴体を狙っていたならば、アレクサンドロスは負傷を免れなかっただろう。
それで命を落とすのであればもともと自分はそこまでの人間だったということだ。
だがそうした覚悟とは裏腹にアレクサンドロスの内心にはある確信がある。
自分が英雄に生まれついたという確信であった。
そうであるならば、こんなところであんな小物の槍が当たるはずがない。いや、神が当てさせはしない。
毛筋ひとつ動かさずに槍を見送ったアレクサンドロスにミトリダテスは完全に意表を衝かれた。
顔面を狙われた人間はほぼ例外なく底知れない恐怖に駆られる。
人間のもっとも致命的な部位でもある頭部は、人が潜在的に恐怖をもっとも感ずる部位でもあるのだ。
みっともなく体勢を崩してよけるであろうことを予測していたミトリダテスに、よもやさらに加速して突進してくるアレクサンドロスの一撃を受けきることは不可能だった。
「っぐはぁ!」
次の瞬間、深々とアレクサンドロスの槍がミトリダテスの眉間を貫いていた。
自分にいったい何が起こったかをほとんど認識すらせぬままにミトリダテスは絶命した。
その目は信じられない何かをなじるかのように呆然と見開かれていた。
思いがけぬ僚友の死にロイサケスは激昂しながらも、ミトリダテスから槍を放せぬ無防備なアレクサンドロスの頭部を、得意の偃月刀をもって一撃した。
ところが本来、即死級のダメージを負うはずのこの一撃をアレクサンドロスは受け流すことに成功する。
特別にあつらえた兜の重厚な造りと、わずかにそらされた頭部の角度が、偶然にもロイサケスの渾身の一撃を兜が弾き飛ばされるにとどめたのである。
それは奇蹟の上に奇蹟を重ねたありえないほどの確率の事象であった。
アレクサンドロスは内心に快哉を叫んでいた。
―――やはり余は神に愛されている!愛されているのだ!
脳震盪を起こしそうな衝撃をこらえて今度はロイサケスへと槍を突き出す。
まるで吸い込まれるかのようにアレクサンドロスの槍はロイサケスの胸甲を突き破って心臓へと達した。
朽木が折れるようにどう、と倒れるロイサケスの体重を支えきれずアレクサンドロスの槍がその半ばからへし折れるのと、背後に回りこんでいたスピトロダテスが偃月刀を振りかぶるのは同時であった。
いったいどれだけ幸運な偶然が重なったかしらないが、さすがにこの一撃を防ぐ術はない。
アレクサンドロスを守るべき兜はすでになく、背後に迫るスピトリダテスの脅威にアレクサンドロスは気づいてもいないのだ。
史実ならばここでクレイトスが絶妙なタイミングで乱入し、スピトリダテスの肩先をなぎ払うはずなのだが、そのクレイトスはいまだわずかに王の後ろに接近するにとどまっていた。
間に合わない、このままでは間に合わない!
王が死ぬ!アレクサンドロスが死ぬ!オレの帰還が閉ざされる!
無我夢中でオレは拾ったばかりの投槍をトリミダテスの広い背中に向かって力の限りに投げ放っていた。
いったい今日はどれだけ奇蹟が重なれば気が済むのかわからないが、マケドニアの武将としてそれなりに鍛え上げられていたレオンナトスの右腕は獲物を的からはずしはしなかった。
轟と風をうならせて宙を横切った槍は、あやまたずスピトリダテスの背中に突き立っていたのである。
「おの……れ……っ!神よ!今しばしの力を我に貸し与えたまえ!」
僚友の仇に燃える執念はスピトリダテスを死のふちの一歩手前で押しとどめた。
槍は間違いなく臓器に致命的な損傷を与えているはずだが、ときとして人間の精神力は肉体的限界を超えるのである。
振りかぶっていた偃月刀を両手で持ち直し、渾身の力で打ち下ろそうとしたスピトリダテスの執念は不運にも最後の一歩で実らなかった。
クレイトスが既に抜き打ちの斬撃を放っていたのだ。
スピトリダテスの両手が血しぶきをあげながら剣ごと高く宙に弧を描いて落ちた。
主将級の三人を残らず失ったこの瞬間に、実質的にグラニコス川夜戦の帰趨は決着したのだった。
「勇者たるを欲する者は余に続け!」
高々と剣を掲げてアレクサンドロスは再び前線の渦中へと身を躍らせていった。
あまりにも絵になる寓話のようなその光景にマケドニア兵士の間から、感嘆とともに雄叫びがあがる。
カリスマ性を持つ稀代の王は、一介の兵をも死を恐れぬ勇者へ変貌させる力があるのであった。
頼むから自重してくれよ!
慌しく王の後を追うオレの隣でクレイトスは深くうなづきながら獰猛な笑みを浮かべていた。
「これあるかな、我が君よ!」
………しまった、こいつもバトルマニアの口か。
せめて側近だけでもアレクサンドロスの無謀は止めてしかるべきだと思うんだが………、ふと見ればエウメネスも同意であるようで口の端に苦い笑みを浮かべていた。
アレクサンドロスの怒号に後押しされる形で、右翼に大きな穴が穿たれようとしていた。
しかもアレクサンドロスが孤立しないように左右の両翼でヘタイロイが前線を連動させつつ一気に戦線を押し上げている。
見事なまでの戦略的機動というべきだった。
この芸術的なまでの右翼騎兵部隊を統率した者は、当然ながら一騎打ちに興じていたアレクサンドロスではありえない。
複数の部隊の孤立を防ぎ、王の盾となって戦線の維持を図っていたその指揮官はパルメニオンの長子フィロータスにほかならなかった。
父に似てフィロータスの軍事的な識見はあくまでも堅実な合理主義による。
そのフィロータスの見るところマケドニア軍の圧勝はすでに約束されたも同然であった。
左翼ではパルメニオン率いる歩兵部隊がペルシャ軍右翼を蚕食して後背に回りつつあったし、右翼でもアレクサンドロスが一気に敵の中央を突破したため
完全に指揮系統が機能不全に陥っていた。
完勝といっていい戦況ではあるが、フィロータスの顔色は優れなかった。
―――なぜ喜べないのか?
敵の主将二人を討ち取り、精強を持ってなるペルシャ騎兵をほしいままに蹂躙しているアレクサンドロスは正しく神話に登場する英雄のようだ。
奮い立つ兵士たちも、おそらく自分たちが神話の登場人物であるかのような錯覚に陥っているだろう。
この比類なきカリスマはアレクサンドロス以外の何者にも真似のできることではない。
カイロネイアの戦いのときもそうだった。
ほんの針の先ほどの敵陣の綻びに、迷わず猛進するアレクサンドロスの雄姿に誰もが勝利を確信した。
彼ほど戦場で頼もしい存在はないだろうと、迷わずに断言することができた。
―――彼が王太子であったときには。
だが頼もしい王太子であった彼は今やマケドニアに唯一の王だ。
たかが一地方指揮官にすぎないミトリダテスと一騎打ちなどするべき存在ではない。
彼が倒れたとき、マケドニア王国もまた倒れて立ち上がることは出来ないだろう。ペルシャほどの王国を敵にするというのはそういうことなのだ。
国王たるもの後方から落ち着いて指揮に徹するべきであった。
ただでさえマケドニア軍は数に勝っている。払暁を期してマケドニア軍が総力をあげれば危険などなく倒せる相手なのだ。
指揮官先頭……確かに兵を鼓舞するのにこれ以上の采配はない。
ただしそれは彼が国王でなければの話なのであった。
………かつてアレクサンドロスに感じていた頼もしさが今は歯がゆい。
アレクサンドロスが幼少のころから学友として長いときを共にしてきたフィロータスにはそれが辛くてならなかった。
残念ながらいまだ王としてフィロータスの脳裏に君臨するのは前王フィリッポス二世その人にほかならなかったのである。
「陛下がご存命で……アレクサンドロス様とともに戦場を思う存分駆けられたら……どんなにか幸せであったでしょうに………」
アレクサンドロスは戦場においては並ぶものなき天才であるのは疑いない。
だが、フィロータスの見るところ国王としての識見と実績ではとうていフィリッポス二世に及ぶところではなかった。
前王が志半ばで暗殺などされなければマケドニアはあと二十年は安泰であったはずなのだ。
フィリッポス二世の暗殺を思い浮かべるたびに、フィロータスは胸に黒くわだかまるものを自覚せざるをえない。
前王が暗殺されたそのとき、フィロータスもまたその場に居合わせていたのである。
あまりに出来すぎた暗殺劇だった。
だからこそマケドニアの王宮に根強くはびこる噂を、フィロータスは完全に振り切ることが出来ずにいた。
すなわち、フィリッポス二世暗殺の黒幕はアレクサンドロスの生母オリンピュアスにほかならぬというものであった。
もしも噂が真実であるならば、断じてオリンピュアスを生かしてはおけない。
フィロータスはアレクサンドロスにも内密で捜査の継続をあきらめてはいなかった。
アレクサンドロスの気性からいって彼が暗殺にかかわっていたとは思えないが、彼が生母を強く慕っているのは周知の事実である。
万が一オリンピュアスの罪が明らかになった場合、彼は母をどう扱うのであろうか。
かつてアレクサンドロスの単なる一人の友人であったときから今は信じられないほどに遠く距離が離れてしまったように感じられた。
出来うることなら何もかも忘れて一心にアレクサンドロスに忠誠をささげてしまいたい。
かつてアレクサンドロスとともにマケドニア王国の将来に栄光をもたらさんと誓った誓いも、今も変わらずこの胸にある。
だが、その誓いを捧げるべきフィロータスの心中の王は彼ではない。
そう、………彼ではないのだ。
グラニコス川での戦いはマケドニア軍の圧勝に終わった。
先陣を切ったソクラテスやアミュンタスの騎兵部隊に損害が集中したものの、ペルシャ軍はマケドニアに十倍する損害を受けて避退したのである。
マケドニアにとっての痛恨事は、苦戦の主たる要因でもあるメムノンとその手兵に無傷で逃亡されたことに尽きるであろう。
メムノンは事前からの策に従い、都市防衛を主軸にした持久戦の準備を着々と進めていた。
史実を知らぬものにとって、グラニコス川の勝利はマケドニアの苦境をいささかも改善はしていなかったのである。
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