本を読むたび栞を替える
葵ねむる
本を読むたび栞を替える
松尾由衣には、「もし仮にこれを友人から相談を持ちかけられたらどう返すか」を考える癖がある。自分を俯瞰して落ち着きたいのかもしれない。何か返答をするとき、他人のこととして一旦捉えたいのかもしれない。分からないけれど、思考の癖が出ていることに気付いたことで、やっと自分がそこそこ今の感情を言語化できず持て余していることに気付いた。
想像する。友人から、「元カレの○○が、自分と同じ名前の女と付き合い始めた」と言われることを。友人にはすでに別のパートナーがいて、とても幸せそうにしていて、その友人のことなんて何とも思っていない。そこに未練がないことも、今までの話から知っているとする。
想像する。自分なら、どう返すか。
「大変だね」……とは、思わないな。
「なんで知ったの?」……そういうことではない。
「なんか、やだね」……そう。そうだ、「なんか」嫌なのだ。やっと腑に落ちた。
+
「彼女ができたんだよね」と、寺島が話してきたのは、昨夜のことだった。
長く付き合い、同棲までしていた彼女の浮気により別れることになったと聞いたのが先月のこと。そこからいろんな女性とデートをしていると聞いていた。美大卒のイラストレーター。アクアリウムの趣味が合い、熱帯魚を買い求めに行った人。自分と同じ「ユイ」という名前の女性。元地下アイドル。芸人のエピソードトークのように語られる様々な女性の話を面白がって聞いていたのだ。
だから別に驚くようなことはない。もともとモテる人だ。そう容姿の秀でた人ではないけれど、男女問わず交友関係が広く、恋愛においては知り合ってから付き合うまでが短い。特定の相手ができてからは行為を含む遊び方こそ変えども、異性の交友関係は絶えない。そんな人。何故こうも詳しく知っているかというと、件の彼女の前に長く付き合っていたのが自分だからである。
寺島と別れて、もう6年が経っていた。付き合っていた年月と同じだけの月日が流れ、ただの心地よい友人の一人となっている。付き合っていた頃こそ「由衣」と呼ばれていたが、別れてからは専ら「武田」呼びだ。こちらが呼ぶときも「寺島」である。だから今更、誰のことを何と呼んでいても、どんな相手とどんな風に甘やかな時間を過ごしていようと構わない。そう思っているのに。
「どの人?イラストレーター?アクアリウム?元地下アイドル?」
「や、その中にはいない」
「え、何、まだ他にもいたの」
「いや、そうじゃなくて。ほら、前話したろ、恵比寿のクラフトビールバーで、武田と同じ名前の女の子と知り合ったって。」
「うわ、」
思わず素直な声が出た。あのときの自分の声がすべてだったのかもしれない。「うわ、」であり、「なんかやだ」としか言い表せない感情。
「いや、俺も付き合うってなるとめちゃくちゃ武田のことが過ぎったんだよね。まあだからどうってないんだけどさ。でも大丈夫、字は違うから」
大丈夫ってなんだよ。
その話題はそこそこで終わり、まあ「おめでとう」とか「お幸せに」とかなんとか、返したような気がする。その後もダラダラと、仕事の話や共通の友人の話などをした。いつもそうだ。ポツポツと文字媒体でやりとりをして、たまにラリーが続くと打つのが億劫になって電話で話し、それでも話し足りなければ飲みに行く。直接会うのは季節が巡るより空いた月日で、寺島のことを考えるのは、やりとりをしているその瞬間だけ。付き合っていた頃のように、何を見ても何をしていても頭に彼のことが過ぎるようなことはもうない。だからこそ、寺島と話していないこの瞬間に彼のことを考えているのは、随分とひさしぶりのことだった。
そうありふれていない「寺島」という名前で呼ぶのは、彼のことだけだ。「ユイ」は字が違えばそこそこいる。だから別に、こんなふうにかつての恋人と新しい恋人の名前が被ることなんてあり得るだろう。けれど、自分の知らないところで彼が「ユイ」と誰かのことを呼ぶのが、それが自分を指す言葉ではないことが、「なんか嫌」だった。これから先、甘やかな声で、時には情事のときに、彼が自分の名前を他人に対して繰り返し口にすると思うと、自分はもう彼の中に居なくなってしまったようだった。彼のなかに「ユイ」で辞書登録されるのは、自分で在りたかった。それは特別な関係性でなくてもいいのだ。もう一度「由衣」と呼んでほしい訳でもない。ただ、そう在りたかっただけ。
「彼女のこと、結局『ゆんちゃん』って呼んでる。なんか、色々しっくり来なくて( 笑 )」
後日、寺島からそんな連絡が届いた。また友人から相談を受けたことを想像して、……あぁ、そうだよね、そう返すよね、と納得がいってから返信を打つ。
「良い呼び名だね」
それだけ打って、トーク画面を閉じた。そしてそのまま別の画面へ遷移する。タップして、送信。
「今から買い物して帰るね。」
今夜は恋人が好きなメニューにしよう。目の前に見えるあれこれは、恋人との生活を考えるものたちに変わっていた。
Fin.
本を読むたび栞を替える 葵ねむる @mmm_
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます