第29話フィレステーキ

「さぁっ! 今日は記念すべき初配信だかんね! ガンちゃん、しっかり食べてね!」




 藤堂アイリとの初配信の朝、なんだか物凄くいい匂いがしてもぞもぞと起きた俺は、早朝から口をあんぐりと開ける羽目になった。


 ニッコニコ顔の冬子さんはエプロン姿のまま、腰に手を当てて胸を反らしている。


 その笑顔の前、テーブルの上に置かれたのは、いつも通りの朝食――ではなかった。




 ご飯、味噌汁、サラダ――そしてそのトライアングルの中心にデーンと鎮座する、まるでサンダルの底のような、分厚い国産牛のステーキ――。




「とっ、冬子さん……これは……?」

「何? アッ、もしかして高かったことを気にしてる!? いーよいーよちょっと奮発しただけだし! 前沢牛のフィレステーキなんて食べたことないでしょ? 遠慮すんなって!」

「い、いや、遠慮とかじゃなくて、これを朝からはキツいというか……!」




 俺はこの少しズレた姉を傷つけまいと上手い言葉を探したが、どうにもよい言葉が見つからなかったし、正直、この気遣いも嬉しかった。


 早くにお母さんである人を亡くした冬子さんは、人間力も生活力もまるでない親父殿を献身的にサポートしてきたためか、料理が上手だ。


 それにトロくさい本人の人柄とは裏腹に家事全般に関して冬子さんは物凄く有能で、この安アパートの畳の上にはちぢれ毛どころか塵っ葉ひとつ落ちていないのが常なのだ。


 これに加えて少々行き過ぎの感があるとは言え、尖ったところのひとつもない天真爛漫な性格とくれば、本人さえもう少しアグレッシブなら嫁の貰い手なんてすぐに見つかりそうなものなのだが、世の中とはままならないものだ。


 物凄く分厚いステーキを前におどおどとして……結局、俺は覚悟を決めてステーキを食べきってしまうことにした。




 既に切り分けられている肉片を口に運び、噛んでみる。


 噛むのと同時に、じゅわっ、と肉汁が口内に溢れ出してきて、まるで鋭い痛みを感じるかのように、脳髄に直接幸福感としか言えない衝撃が突き抜ける。


 噛まずとも口の中でほろほろと蕩けるような肉の柔らかさも相まり、実にまったりとした脂の感覚が舌に満遍なく広がり、眼の前に星が弾けた。


 んぐっ、と唸ってから、俺はご飯茶碗と箸を手に持ったまま呻き、震えた。




「どう? 美味しい?」

「……ヤバい、これはヤバい。肉の旨味と脂の旨味と、朝からなんちゅうもんを食ってるんだという背徳感とが合わさってヤバい。冬子さんも早く」

「んはは、そりゃよかった。朝から頑張っちゃった甲斐があるね。――じゃあ私もいただきまーす」




 ――この間までは三食卵かけご飯、三食お茶漬け、三食インスタントラーメンでも全くおかしくなかった我が家の食卓なのに、今はなんと朝からフィレステーキが食べれている。


 その変化に震えながら、俺は口内に後を引く脂の濃厚さを楽しみつつ、山盛りのご飯をかき込んだ。


 朝からステーキなんて重すぎると感じたのは、どうやら本人の気持ちだけのようで、寝起きであるというのに俺の身体は全力でステーキ肉を楽しんでいる。


 冬子さんは冬子さんで、フィレステーキの肉片を咀嚼しながら目を輝かせている。




 ああ、幸せだなぁ――。


 いくら高級肉とは言え、数千円というカネさえあれば、人間はこんなにも幸せな気持ちになることが出来る。


 俺がダンジョン内で暮らしていた時はうんざりしていた肉でも、ちゃんと調理し、信頼できる人と安心できる場所で食べれば、こんなにも味が変わる。


 その不可思議さを今更ながら不思議に思いながら、俺たちはほぼ無言でステーキ肉を食べきった。若さというものは得なものだ。




 食べ終わった辺りで――ブゥン、と、アパートの下に車が停まる音、そして錆びついた階段を誰かが昇ってくる音がして、最後に、部屋のドアチャイムが鳴った。


 あれ、予想より早いな……と思いながら、俺はドアを開けた。




 ドアの前に立っていたのは、既にダイバースーツに着替えた藤堂アイリだった。


 藤堂アイリは俺を見るなり、ニッコリと微笑んだ。




「おはようございます、ガンジュ君! 今日は頑張りましょうね!」

「あ、ああ……おはよ、藤堂」

「んん? なんだかノリ悪くないですか? 朝なんだからもっとハツラツとしないと!」

「ん、なんか今更胃が重くなってきたぞ? ハツラツの塊みたいな人に朝から重いハツラツをぶつけられるとステーキ以上に重いんだな……初めて知った……」

「何をわけわからないこと言ってるんですか。それにステーキって?」

「おおっ、藤堂アイリちゃんが来たの!? 私にも挨拶させて!」




 ドタバタと、部屋の奥からエプロン姿の冬子さんが走ってきて、俺を押しのけて玄関先に立った。


 タレントとして、どんな人間に対してもある程度の対策法は弁えているらしい藤堂アイリが、冬子さんに対して頭を下げた。




「どうもはじめまして、ガンジュ君のお姉さん。藤堂アイリと申します。よろしくお見知りおきをお願いいたします」

「きゃーっ! ほ、本当に藤堂アイリだ! 顔ちっちゃ! おっぱいでっか! そ、それになんかいい匂いがする!」

「と、冬子さん……!」

「いやぁーっしかも肌も綺麗! これが本当に同じ人間なの!? きゃーっ握手! 握手して握手!」

「はいはい、どうぞどうぞ」




 まるで少女のように大はしゃぎする冬子さんを、藤堂アイリはまるでおばあちゃんのように軽くあやしている。


 全く、これじゃどっちが年上なんだかわかったもんじゃないな……と俺が頭を掻いたところで冬子さんの興奮も収まり、さて、と藤堂アイリが俺を見た。




「それじゃあガンジュ君、そろそろダンジョンに向かいますか」

「おう、わかった。それで藤堂、悪いんだが準備があるから少し時間をもらっていいか?」

「はい。それじゃあ下の車の中で待ってます。十分もあれば準備出来ますか?」

「十分? そりゃ短すぎだ。……そうさな、あと二時間少々、ってところだな」

「はい――?」




 藤堂アイリが初めて見るような、「目が点」という感じの表情になった。




「に、二時間!? なんでそんなに……!?」

「いやだって、俺、今起きたとこだし。これからトイレ行ってシャワー浴びて歯を磨いてコーヒー飲んでまったりして……ってなったら二時間ぐらいは必要だろ」

「な、何を言ってるんですか!? 今は朝9時で配信は11時からの予定で、徳丹城ダンジョンまで片道一時間なんですよ!? 配信に間に合いませんよ!」

「んなもん諸事情により遅れますって言っときゃいいだろ。どうせ休日の昼間っから配信見てるような暇人どもだ、待たせるぐらいなんでもないだろ」

「そんなの通りませんよ! ガンジュ君、いいから早く! 三十分、理想的には十分以内に出発準備を終えて! 早く!」

「あはは、アイリちゃん、勘弁してあげて。ガンちゃんはめっちゃ低血圧で朝が弱いの。昨日も夜中の3時まで夜更かししてたからね……」

「睡眠時間も足りてないじゃないですか! 本当にそんなんでダンジョン潜れると思ってるんですか!? ダンジョンナメすぎでしょうガンジュ君はッ!!」

「ああ、朝からうるせぇなぁ……わかったわかった、可及的速やかに急ぐ。だからまずトイレからだ。二十分くれ」

「五分で! 五分で済ませてくださいッ!!」




 朝からギャーギャーと玄関先で喚かれて、ウチのアパートの住人たちはさぞや迷惑なことだっただろう。


 とにかく、俺はそれからなんとか三十分程度で出発準備を終え、例の黒塗りの高級車によって配信する予定のダンジョンまで運ばれていった。







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