深い河の旋律

@minatomachi

第1話

インドの大地に降り立った時、真紀の心は重く沈んでいた。空港の喧騒を背にして、一歩一歩と歩を進めるたびに、彼女は自らの足が鉛のように重く感じられた。夫を事故で失った悲しみは、彼女の心に深い傷を刻みつけ、その痛みは今もなお鮮明に蘇る。


真紀は、遠く日本からこの地へと旅してきた。彼女の目的は、ただ一つ。心の傷を癒すために、この聖なる河、ガンジス川に希望を託していたのだ。


ガンジス川のほとりに立ち、彼女は川の流れをじっと見つめた。陽光が水面に反射し、キラキラと輝く様子は、まるで無数の祈りが川と共に流れているかのようだった。真紀は、遠藤周作の『深い河』を手に握りしめ、その中に描かれた人々の姿と自分自身を重ね合わせた。彼女の耳には、宇多田ヒカルの『Deep River』が静かに流れ、その旋律が心を包んでいた。


「ここに来れば、何かが変わるかもしれない」と彼女は心の中で呟いた。ガンジス川の水は、古くから浄化の力を持つと信じられてきた。ヒンドゥー教徒たちは、この川の水で身を清め、魂を浄化するために集まる。真紀もまた、この聖なる水に触れることで、自分の痛みを洗い流し、再び前に進む力を得られるのではないかと期待していた。


その時、彼女の目の前に一人の男が現れた。彼は背の高い日本人で、年の頃は五十を過ぎたあたりだろうか。穏やかな笑みを浮かべながら、彼女に話しかけてきた。


「こんにちは、私はタナカといいます。この地で長く暮らしています。あなたも、ガンジス川を訪れたのですか?」


真紀は頷き、彼に挨拶を返した。タナカさんは彼女の手に握られた『深い河』に気付き、微笑んだ。


「その本、私も読みました。素晴らしい作品ですよね。ここに来る多くの人々が、あの本に影響を受けているようです。」


彼の言葉に、真紀は少しだけ心が軽くなるのを感じた。自分と同じように、この地に何かを求めてやって来た人々がいるということに、安堵の思いを抱いたのだ。


タナカさんは、真紀にこの地の歴史や文化、そしてガンジス川の持つ宗教的な意味を語り始めた。その話を聞きながら、真紀は少しずつ自分の中に新たな希望が芽生えるのを感じた。


「この川の水は、多くの人々の祈りや願いを受け止めて流れています。あなたも、その一部になれるかもしれません。」


真紀はタナカさんの言葉に励まされ、ガンジス川の水に手を浸した。その瞬間、冷たい水が彼女の手を包み込み、まるでその痛みを癒すかのようだった。彼女は目を閉じ、深い呼吸をして、心の中で一つの祈りを捧げた。


「ここで、私は再び歩き出すことができるのだろうか。」


その問いに対する答えはまだ見つかっていなかったが、真紀は確かに一歩を踏み出したのだった。ガンジス川のほとりで、彼女は新たな希望と共に、その流れの音を聴き続けた。

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