冬を吐く

第1話

 誰もいなくなった病室から、春先の空を眺めている。枝桜が映えるほどに殺風景な中庭と、上空に見える何も映らない蒼穹が、まるで虚無的な心模様を映した、鏡のように見えた。白無地で統一された清潔感のある室内は、少しだけ肌寒い。同様に、春先のこの季節は、春中旬に比べたらまだ少しだけ肌寒い。


 季節の訪れを感じる物といえば、例えば花や、あるいは風といった物だろう。毎年変わりなく訪れ、変化なく死んでは次々に生き返る。時間の経過と共に何度もそれを繰り返し、その輪廻転生の狭間の中で、生き物は常にその場に留まろうとあり続ける。そう言っていたのは、誰だったか。もう忘れてしまった。昔読んだ分厚い思想書のような物にそんな記述があった気もするが、同じことを彼女が言っていた事の方が、鮮明に思い出せる。


 ふと脳内を駆け巡った文字の羅列に思わず吐き気を覚える。僕は彼女と違い、読書は好きじゃなかった。ただ本を読むという行為の見てくれの高尚さに、無駄な行動を重ねていただけだ。

 彼女はここに来る度に何かしらの本を手にしていた。いつも僕が来ている事に気づかない程に集中していて、僕は決まって、その姿をしばらく眺めるのだ。博識で、妙に理屈っぽい。甘い匂いのする少女だった。


 季節は、絶えず傾いていく時間に押しあてられ、すり減り、やがて死に絶える。回り続ける季節の中では、花は枯れて、風はいつか止んでしまう。季節は時間と同じ、当たり前のことだ。いつからかそれは、この世の絶対不変の理の一つだと、無意識にもそう思うようになっていた。病室から窓の外を眺める少女を見つけるまでは、移ろう季節という概念になんの疑念すら抱かなかった。


 彼女は、冬を吐くという病を患っていた。抽象的にも、あるいは現実的にも。彼女の思い描く冬が、その口から吐き出されるのだ。およそ荒唐無稽な病状は、その発作を目の当たりにするまで、僕には信じることができなかった。


 病室の入り口には、いつも何かしらのスノードームが飾られている。思えばそれは、彼女が吐き出した、彼女の思い描く理想の冬だった。

 リフトに乗った少年少女の後ろ姿や、遠い雪山の小屋。凍った泉や、あるいは、降り頻る雪にはしゃぐ子供。この箱庭にいる限り彼女は、どれだけの冬に想いを馳せようと、その寒空の下に肌を晒す日など来ない。

 彼女が最後に刺した花瓶の花は、もう桜が咲くのも近いというのに枯れる事を知らないかのように咲いている。凛とこちらを見ているようなその花を見ると、「冬の花なんだ」と間延びした声で笑う彼女が、今でもそこにいる気がする。


 僕は最初、彼女が何を言っているのかわからなかった。

 スノードームに象られた冬の山の壮麗な景色を手に取り、手のひらで丁寧に弄ぶ。いつの日か彼女がそうしていたみたいに。

 彼女が、「冬を吐いちゃう病気なんだって」と、いつものように間延びした声で笑っていたのを思い出す。冬を吐くという言葉の意味が、僕にはよくわからなかったが、僕だって勘が悪いわけではない。その頃には薄々、彼女の発作がどのようなものなのかわかっていた。


 病室に入る度に、冬を象ったスノードームや、冬の花、あるいは、単に雪だるまと言った冬にしか見ることのできない景色が増えていく。彼女の発作は、その口から、冬にまつわる物を吐き出すという物だった。


 つまり、彼女の体内は、常に冬なのだ。どういう原理なのかも、なぜその病気にかかったのかも、何もわからない。僕はただ、彼女のクラスメイトとして、彼女に学校の資料などを渡すだけの浅はかな関係だった。彼女を知ることも、彼女に深入りすることも躊躇われて、結局何も聞けないまま、彼女の中の冬は明けてしまった。


 もう誰もいなくなったというのに、この病室だけは未だに冬のままみたいだった。

 溶けかけた氷のように、徐々に移ろうのが季節だ。だが、彼女の中にある季節は、まるで消えてしまったかのように、ある日突然、すっぽりとなくなってしまった。あるいは最初から、溶ける直前の氷のような儚い存在だったのかもしれない。


 冬そのものである彼女は、春まで生きることはできない。その口から冬を吐き出す度に、少しずつ気温は上がり、風は柔らかくなる。わかっていた。いつか冬は終わりを迎え、あたたかな春がやってくるのだと。もうこれまで何度も経験した、四月が始まるのだと。

 わかっていたが、やはりとても耐えられるものではなかった。

 たった1年と少し程度の時間だ。その僅かな時間だけで、僕は彼女を、僕が思っているよりずっと特別だと認識してしまっていたみたいだった。その特別さを自覚できない程に、僕の中で彼女は普遍の物となっていたのだ。


 彼女の最後の発作が遺した冬は、ただの一枚の花弁だった。花が好きだった彼女なら、あるいはその花の名前まで当てられたのだろうか。彼女が自慢げに、この花の名前を教えてくれる姿が脳裏に浮かぶ。いつもみたいな間延びした声で、冬など到底似合わないような、暖かな笑みを向けて。だが少なくとも僕には、その白っぽくも少しだけ淡い桃色を帯びている花弁の名前が何かなんて、見当すらつかなかった。花に興味のある男子高校生なんて、いるとしたら絶滅危惧種のような物だろう。それに、彼女が吐くのは決まって冬だった。そう自負しているからこそ、それが桜の花びらだと気付いたのは、彼女が死んでから1週間以上経ってからになってしまったのだろう。


 病室から春の空を眺める。


 彼女はよく、「季節は時間じゃないよ」と言っていた。その意味は、未だによくわからない。

 だが、今になって思えば、季節が時間ではないのだとしたら、季節すらその場に留まり続けているという意味になるのかもしれない。そう考えると冬は、つまり彼女は、この空間に留まっていたいと伝えていたのかもしれない。

 希望的観測甚だしいが、そう思っていた方が、後腐れなく終われる気がした。


 僕は、彼女の吐いた冬を片付けはじめた。たった一つ、この病室に雪が積もっているような、幻想的な象形を象ったスノードームだけを残して。


 全て終わる頃には春になっているだろうか。そんな一抹の疑問を振り払う。彼女が最後に吐いたものが桜の花弁なら、春を象徴する桜すら、彼女にとっては紛うことなき冬だ。寒く凍てつく冬が明け、柔らかな風に吹かれ揺れて飛ぶこの花弁すら、彼女には冬に思えたのだ。終わりのない病床が、あるいは、そこに間見える絶望が、彼女に春を、終わりのない冬だと錯覚させた。


 僕は気づくことが出来なかった。後悔は往々にして、取り返しのつかない時にこそ起こる物だ。


 彼女の声が、表情が。寒いはずの冬が暖かったのはきっと、僕らが冬に生きていたからだ。寒いからこそ、彼女が暖かく感じた。彼女を冷たくなど思えなかった。


 春になって欲しくない。そう思うのはきっと、僕の我儘だ。


 彼女の最後に吐いた桜の花弁を、窓から放り投げる。花弁が春の風に乗り、宙を舞いしれていく。咲かぬ蕾を飛び越え、何も映らない蒼穹に淡い白桜が伝う。


 たった今、彼女は本当の意味で死んだ。一年と少しの、いつもよりずっと長い冬が死んだ。


 宙を舞う花弁が視界から消える頃に、僕は一つだけため息を吐く。


 終わったのだ。僕が彼女と過ごした長い冬が、たった今終わりを迎えた。

 季節は巡り、何度だろうと生き返る。だが、そこには1度として、同じ春など存在しない。宙を舞う花弁がどこに辿り着くか知り得ないように、僕は彼女の行方を思うことすらできない。


 風が吹き葉が芽吹くように、ただ当たり前に過ぎるだけの時間のように、彼女のいない春が、たった今静かに咲いたのだ。



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冬を吐く @huranis

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