【完結】『Tomorrow Never Knows』
湊 マチ
第1話
その朝、和也は目を覚ますと、まるで自分が別の人生を生きているかのような感覚に襲われた。薄明かりの中で天井を見上げながら、彼はその感覚の正体を掴もうとした。見慣れた東京のアパートの一室が、どこか遠くに感じられたのだ。朝の冷たい空気がカーテンの隙間から漏れ込み、彼の肌を優しく刺す。目覚まし時計の音が遠くから聞こえ、彼はゆっくりと体を起こした。
佐藤和也、28歳。大手IT企業のエンジニアであり、ミニマリストでもある。毎日、果てしなく続くコードの海に溺れながら、彼の心と体は次第に擦り減っていった。過労とデジタル依存が、彼の生活の隅々まで浸透し、日々の中で自分を見失っていた。仕事が終わると、自宅のパソコンの前に座り、またコードを書き続ける。無機質な数字と記号の中で、彼の存在は次第に薄れていった。どこに向かっているのか、何のために生きているのか、その答えは日ごとに遠のいていった。
和也の部屋は、ミニマリストらしく物がほとんどない。シンプルなベッド、机、椅子、そして壁にかかった一枚のポスター。それが彼の持つ全てだった。しかし、その空間の中でさえ、彼は窮屈さを感じるようになっていた。
机の上に整然と置かれた書類の山の中から、一通の手紙が目に留まった。それは数日前に届いた、過去の恋人、渡辺真奈美からの手紙だった。和也はその手紙を手に取り、再び丁寧に読み返した。手紙の端は少し擦り切れており、何度も読み返したことを物語っていた。
「和也、
久しぶりに手紙を書くわね。お元気ですか?私は元気にやっています。実は、最近一人で旅に出て、いろいろなことを考えたり、感じたりしてきたの。その旅で得た気づきをあなたにも共有したいと思い、この手紙を書いています。」
真奈美の手紙には、彼女が訪れた場所やそこで得た気づきが詳細に書かれていた。彼女の言葉は、和也の心に深く響いた。それは、彼が長い間求めていた答えのように感じられた。真奈美の書く一文字一文字が、彼の胸の奥に深く刺さり、じわじわと染み渡っていく。
和也はふと、窓の外の風景に目を向けた。ビルの谷間に広がる空が、どこか寂しげに見えた。彼は決意した。自分も旅に出て、自分自身を見つめ直し、未来への扉を開く旅を始めるのだと。日々の喧騒から離れ、真奈美が見つけたような何かを、自分も見つけられるのではないかという淡い期待が心に芽生えた。
その思いが心を満たしていく中、和也はイヤホンを取り出し、スマートフォンに繋いだ。彼の指はミスターチルドレンの「Tomorrow Never Knows」を選び、再生ボタンを押した。心地よいギターの音色と、桜井和寿の歌声が耳元に流れ込み、和也の心を静かに包み込んだ。
「心躍る明日も知れぬまま...」
歌詞が彼の心に染み入り、まるで自分自身の気持ちを代弁しているかのように感じられた。彼はキッチンに向かい、コーヒーメーカーをセットし、豆を挽き始めた。コーヒーの香ばしい香りが部屋に広がり、和也はその香りを深く吸い込んだ。温かなコーヒーをカップに注ぎ、彼はソファに腰を下ろした。
コーヒーを一口飲みながら、和也は再び真奈美の手紙を読み返した。彼女の言葉とミスターチルドレンの歌詞が、彼の中で共鳴し合い、新たな決意を固めていくのを感じた。心の中に浮かび上がる疑問や不安を振り払うように、和也は手紙を丁寧に折りたたみ、ポケットにしまい、ゆっくりと立ち上がった。
彼はこのままではいけないと強く感じていた。東京での生活は便利で、仕事もそれなりに順調だった。しかし、何かが足りなかった。心の底から湧き上がる充足感や、生きている実感が薄れていたのだ。真奈美の手紙を読んだ瞬間、和也はその感情を再認識した。彼は何かを変えなければならない、今こそ行動を起こさなければならないと感じた。
背筋を伸ばし、深呼吸を一つ。彼は荷物をまとめ始めた。最小限の衣類と日用品、そして真奈美の手紙を持って、旅の支度を整えた。心の奥底で芽生えた新たな希望が、彼の胸を少しずつ温めていく。
玄関のドアを開け、和也は外に一歩踏み出した。冷たい朝の空気が彼の肌に触れ、新しい始まりを予感させた。その瞬間、彼の心の中に小さな希望の光が灯った。真奈美が旅で見つけた気づきと、彼自身の心の変化が、彼を新たな道へと導いている。
これから始まる旅が、彼の未来をどのように変えていくのかはまだ誰にもわからない。ただ一つ確かなことは、和也が未来への扉をノックしようとしていることだった。そして、その扉の向こうには、彼がこれまで見たことのない新しい世界が待っているに違いなかった。
和也は静かに玄関を閉め、初めての目的地、北海道の函館に向けて歩き出した。真奈美の手紙が示した最初の場所で、彼は何を見つけるのだろうか。和也の心は期待と不安でいっぱいだったが、彼は一歩一歩前に進む決意を固めた。彼の心の中で響く「明日なんてわからない」という言葉が、新たな希望と共に彼を包み込んでいた。
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