0-11 2044年10月11日午後一時四十一分
「あ、そろそろ次の会見の準備が始まりそう。サホ、腹ペコだったんでしょ? ランチ、早く手をつけたら? ソニアもちゃんと食べてしまって」
急にアヤがきびきびとした声で世話焼きマネージャーのようなことを言い出したもんだから、サホはちょっとびっくりした。会話でイニシアティブを取るような性格じゃなかったはずなのに、まるでこの場は私が仕切る以外に道はない、と思い詰めた苦労性の陰キャラみたいだ。いったい何が起きたんだろう?
「ほら急いで。残しちゃダメよ」
「う、うん」
こちらも目を白黒させているソニアと一緒に、言われるままにカツサンドみたいなものをつかみ、スポーツドリンクみたいな飲み物に口をつける。元々食いっぱぐれたアーティストたちへ迅速に栄養補給させるために考えたようなコンパクトなメニューなので、ものの二分程度であらかた食べ終えてしまう。
「そ、そういえば、サホはどうして人に食事をおごってもらうのをあんなに嫌がっていたの? 何か理由があるんでしょう?」
「え、訊きたいの?」
「ぜ、ぜひ」
次の予定のことを言い立てておいて、思いついたように新しい話を振ってくる。何か別の話題からサホとソニアの意識を必死になって逸らそうとしているようにも見えるアヤである。サホは内心首を傾げつつ、尋ねられたことには率直に答えた。
「ちょっとした事情があんのよ。……食費を出してもらうってことは、今現在その人にお金がないってことでしょ?」
「それはそうだけど」
「お金がないのに誰かから借りを作るってことは、家計収支がマイナスになったってことよね?」
「まあ、それは」
「財布の中身がマイナスになったら、私は日本に帰らないといけないの」
一拍置いて、アヤとソニアが同時に素っ頓狂な声を上げた。
「「はぁっ!?」」
「ゲームセットってこと。所持金がなくなったら私のヨーロッパ生活は終わり」
「何なん、そのルールっ。そんな世知辛い法律が日本にあるわけとちゃうんやろ!?」
ソニアが目を三角にしてテーブルの端をバンバン叩いた。こっちはこっちで妙に「らしさ」をむきだしにしているような演技っぽさを感じる。やや無理をして話にのっかってるのをごまかしているような。
「日本にはないけど、うちにはあるの。というか、私と母親との間でね。個人同士の取り決めってことで」
「そらつまり、そういう約束と引き換えに、旅の準備金とか援助してもらったってこと?」
「準備金? ハッ。私は十八以降、親からお金なんてびた一文もらってない」
ソニアとアヤが顔を見合わせる。あまり立ち入ったことを訊かれる前に、サホは自分から一息で事情を語った。
「まあ、ただの意地の張り合いよ。母親は娘に、ヨーロッパでピアノなんか続けられるはずがない、そもそも食べていけるはずがないと言い、娘は母親に、だったらやってみせようじゃないのと啖呵を切った。ピアノで成功してるかどうかなんてうちの母には判断できないから、単純に所持金がマイナスになったら私の負けってことにして」
「え、じゃあ……うちがこのランチおごったせいで……サッフォーは日本に帰らんとあかんってこと?」
愕然とした表情のソニアに、サホは曖昧に苦笑して、
「ああ、まあ……厳密に言えばそうなるけど……いいんじゃない? 気がついたら目の前に食べ物が並んでたから食べた、とか、そういうことにしといたら」
「……あんだけ揉めといて、えらい簡単に割り切ってくれるもんやな。って言うか、そもそもお母さんがこの配信見てたら即アウトなんとちゃうの?」
「見てるわけないから大丈夫」
妙に乾いた口調のサホに、またソニアとアヤが顔を見合わせる。まだ何か訊きたそうな二人を牽制するようにサホがやや強引な感じで立ち上がり、さりげない口調でちょっとした難題を投下した。
「そろそろさっきのとこに戻っとかないと。でも、できたらその前に私、トイレに行っときたいんだけど」
ただでさえ正体不明の襲撃者を警戒しなければならないというのに、その上さらに手錠の付いた状態でコトを済ますというのは実に厄介である。
アヤは渋い顔で、このまま夕方まで我慢して、と無体なことを言った。ホワイエ近くのレストルームは尋常でなくバカでかく、ステージが跳ねた直後の今は大人数が出入りしているから危険すぎるのというのだ。
途端にソニアが目を輝かせた。
「じゃあ、うちが手ぇ貸したるがな。三人で一緒に行ったらええんや」
また何か変なスイッチが入ったらしい。そういえばさっきも「三人そろってトイレに行こう」みたいなこと言ってたな、とサホは胡乱な目を向けた。
「手を貸すってナニに!? そもそもあれは一人でやるもんです!」
「普通はそうやけど、あんたたち二人くっついてるし、色々不自由やろうし、まあこういう場合は三人おるのがベストなんとちゃう?」
「なんで三人目!? だいたい個室に入り切れないでしょお!?」
「いや、だから三人いるんやて」
「どういう意味!? その人数の内訳は!?」
「えっとな。一人が出す役で、一人がそのパンツ上げ下げしてやる役。んで、最後の一人がパンツ係のためにドアを押さえながら悪者が来んように見張る役」
「…………」
単純に、個室の前で一旦手錠を外すとかすれば面倒なことは何一つなく、かつ最低限の人数、最小限の危険でミッションはクリアできるのである。
ということをさっさとツッコむべきだったのだが、口にするのもアホらしい気がして、サホは何秒間か言い返せないでいた。
「失礼、お嬢さんがた」
不意に改まった口調でカーディンが寄ってきた。機材を肩の上に構えたまま、妙に生真面目な顔をしている。
「たった今、契約視聴者の相当数から、ほぼ同一のちょっと無視できない意見が寄せられたんだが」
ああ、と少しだけ安堵したい気分になった。きっとあまりにバカバカしすぎるソニアの案に、ええかげんにせいとの苦情が殺到したのだろう。そう、曲がりなりにも国際コンクールの実況なのだ。やはり、譲れない一線というものが存在したのだ。品格とか、常識感覚とか。
カーディンは威厳あるディレクターの顔で三人をぐるっと見回し、言った。
「実は今のソニアのジョーク、めちゃくちゃ受けてて、PV数がまたどかっと膨らみそうな気配なんだ。ってことで、さっきのアレ、実演する気ないか? 何なら今からでも女の撮影係手配するから、このままそこの女子トイレ行って――」
「うわあああああああっっ!」
今日何度目かのストレス性の発作に見舞われて、サホは頭を掻きむしり――右手が使えなかったんで左手だけで――カメラへ向かって吠えかかるように怒鳴った。日本語だった。
「実写が見たけりゃてめえらで勝手にショートムービーでも撮ってろや! 人のプライバシーおもちゃにしてんじゃねー! おとといきやがれ!」
それから今度こそ毅然とした仕切り役の顔になり、威厳に満ちた大英帝国流のクィーンズ・イングリッシュで一同に号令をかけたのである。
「全員、集結! これから私の楽屋に向かいます! ホール規定に従い、カーディンのカメラは楽屋エリア入口まで。そこの男の子たちは、楽屋のドアの前で待機して。ソニアとアヤは一緒に部屋の中に入って。これで全部問題ないよね? ないでしょ!? では移動!」
サホ本人の実況が一時途切れることには難色を示したものの、まあカーディンだって休憩が必要だし、何よりも視聴者サイドにも一息入れてやるべき頃合いだったのだろう、特に揉めることもなく話はサホの提案通りになり、一行は楽屋エリアに入った。歩哨のように常時警備員が突っ立っている扉をくぐると、そこはもう関係者オンリーの世界。さすがにここなら外部からの襲撃はほぼ心配しなくていいはず。
テアトル・アドリアーナの楽屋は小さいながらもちょっとした三ツ星ホテルぐらいの内装で、シャワーもトイレもある。ファイナルの今は各出演者が一室を独り占めできるぜいたくが許されていて、プライバシーは保たれているのだけど、今現在もアヤとは手錠でつながったままだから、この体勢で広くはないトイレを使うのはやはり難題である。さて、と楽屋に入って思案顔をしていると、思いがけずアヤの方から引き上げを宣言された。もう手錠付きの警護は必要ないとのことらしい。
「え、いいの? それって、警戒段階が下がったってこと?」
「そういうわけじゃないらしいけど、外にはあの四人が待機してるし、後は会見場に戻るだけだし」
「あ、じゃあ、少しゆっくりしていきなよ。アヤにも休憩が必要でしょ?」
「……ありがとう。でも、いいから」
そう言って退出してしまった。案外、一時五十分までとかしっかり勤務予定が決められていたのか、何か用事でもできたんだろうか? 思い過ごしかも知れないけれど、扉の向こうにそそくさと消えていくアヤの姿は、何かの不快感をごまかしているようにも見えた。それにしても、ちょっと親しさが増したな思うと、ふいっと自分から距離を取るような、ネコのような娘だ。
何はともあれ、久しぶりに五体の自由を確保し、静かで落ち着ける部屋に戻れて、サホはこのままソファで昼寝に埋没してしまいたい気分だった。いっそのことソニアを人質に取って、楽屋に籠城してやろうかとも思うのだけれど(ソニアなら面白がって協力するだろう)、そういうわけにもいくまい。会見の再開時刻とやらはもう過ぎている。ラジューたちにはカーディンから話が伝わっているはずとは言え、急に楽屋へ雲隠れした主演女優のわがままに、ホワイエの面々はさぞやきもきしているだろう。せいぜいうるさい催促が来る前に戻ってやらないと。
当初の目的だった用足しを済ませ、洗面台で丁寧に顔を洗う。水を使うのは、朝のステージが終わって以来初めてのことだ。べたついていた皮膚もだいぶんさっぱりした。よしよし、とささやかな快感に浸っていると、ふと、洗面台の鏡の隅に小さなひび割れがあるのを見つけた。
テアトル・アドリアーナは、音楽ホールとしては新築と言ってもいいぐらいで、内装も備品も基本、下ろしたてのピカピカだ。そのテアトルの貴賓室のような楽屋の鏡に、ひび割れがある。
驚くことではなかった。実はサホは、警備の仕事の一環で楽屋エリア全域のガサ入れみたいな作業も経験したのだ。この部屋だって、天井裏から下水管まで全部確認した。だから、その時にこのひび割れも一応見てはいる。いるのだけど、何だろう、今になって目の当たりにすると、妙に気になる。ひびは本当に微かなもので、その裏に誰かが何かを仕込んでるとまでは思えない。だから何の問題もない、はずなのに――
視線を戻すと、鏡の中の自分自身と目が合った。なんだか、頭の芯が急速に冷え冷えと冴えわたっていくような感覚を覚える。いや、違う、これは危機感のぶり返しだ。何か、ここまでの経緯で大きな齟齬が露わになっているのを見逃しているような気がする。それも、早急な対処が必要なはずのところで。なんだろう?
ようやくにして本命の懸案事項へ集中できそうな予感の中、真剣に考え込みながら洗面所から戻ると、妙な光景が目に入った。ソニアがドアに向かって何か棒を携えて身構えている。今にも暴漢か何かが突入してくるのを迎え撃とうとでも言うように。
一瞬ぎょっとするが、耳をすませばドアの外側で警備アルバイト君たちは平和にだらだらと歓談している。別に異状が差し迫っているということでもないようだ。
「ソニア……何やってんの? 何か問題?」
「いや」
そう返しても、ポーズを崩す様子はない。
「えっと……ソニア?」
「……気のせいかも知れんけど……何かろくでもないもんがやって来るような気が……すごい気になって」
一心不乱にドアを睨み続けながらそう言われると、異様な説得力がある。とはいえ、ここまでの彼女は予知とか第六感持ちとかのタイプと真逆の振る舞いしか見せていないのだけれど――
「うん、わかったから、その棒いったん置いて……って、そのステッキ何? どこにあったの?」
「え?」
今さら気がついたように、ソニアが自分の手の中の得物を見る。それは一見ただの散歩用のステッキに見えたが、木目っぽい表面というだけで、どうやら総金属製らしい作りで、石突きはカバーを外すと杭のようにとがっており、握りの部分がハンマー様になっている。
「警備のアルバイト講習でちらっと見たような気がする。これ、護身用じゃない? 杖って言うより、ほとんど
試しに受け取ってみると、ずっしり重い。こんなの振り回されたら、ピストル持ち出されるより厄介かも知れない。
「えっと、ソニアが持ってきた……わけはないよね?」
「うん。そのへんに置いてあったの、手に取っただけやから……てっきりサッフォー愛用の護身道具や思うてたんやけど」
「いや、私は――」
再度強烈な違和感が脳裏を駆け巡る。こんなもの、ガサ入れ検査の時にあったっけ? あったかも知れない。部屋のクロークの中に、ちょっとした忘れ物がそのまま備品になったような体裁で。だとしたら、検査でスルーしたのもわかる。けど……なんだろう。何かが出てきそうで、出てこない。
「ええと。……よくわからないけど、そんなの振り回したら、逆にこっちの腕とか痛めそうだから、止めといたほうがいいよ」
「ああ、それなら平気。うち、小さい頃はケンドーも習ってたんよ。木刀で素振りとか、何十回も」
「え、そ、そうなの? いや、でも、危ないことは――」
そこでにわかにソニアは大真面目な様子になって、サホへ向き直った。
「サッフォー、あんた、危機感あるんか? 警備が何人も人間割いてあんたをガードしようとしてるほど、ヤバい状況かも知れんねんで? 何しろ相手がわからへん。最悪、何十人巻き添えにしてでもあんたを殺しに来るような過激派かもしれへんねんから」
「いや……そんなのが来たら、どうせ助かりようが……」
「腰引いてどうすんねん! せめて身を護る努力ぐらいせんと!」
「それはわかるけど、あまりに極端な状況を想定して極端な対応を取るって言うのはね――」
急にドアの向こうが騒がしくなった。安物の扉と言うわけではないのでよくは聞き取れないが、アルバイト君たちが誰かと声高に言い合っているような雰囲気だ。通りすがりの誰かとトラブルでもあったのか、あるいは通りすがりを装った誰かがわざとトラブルを起こしているのか。
ソニアがドアに取りついた。完全密室は万が一の時に却ってよくないということで、ドアのカギは開けたままにしていたのだ。が、その配慮が仇になったようだった。ソニアがロックのノブに指を伸ばす前に、ドアは外側から押し開けられた。途端に、外側で湧き起っていた喧騒が楽屋の中になだれ込んでくる。ドアにタックルしてきた、招かれざる侵入者の体躯と一緒になって。
思わず身を引いたソニアが、その相手の顔を見て、悪鬼のような形相になった。
「あ、あんたは! ……何であんたが!?」
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