聖女に逢いたくて

時田五郎

第1話 プロローグ


*** アクアリア東領、トライア公爵邸 ***


しとしとと数日前から雨が続いている。作りの良い邸宅の客間では雨の音が微かに聞こえる。


「君たちに、聖女を探してきてほしい。」

身なりのいい初老の男が俺たちに告げた。


水の公国と呼ばれるアクアリア公国。彼はこなアクアリアの東部の広い地域を統括する領主で、俺と姉がこちらの世界に来てからずっと面倒を見てくれていた。

その領主━トライア公が頼みがあると遣いを寄こしてきたので、今日は姉と共に邸宅を訪れていた。


「…その前に言うべきことがあったね。美月さん、陽くん。よく来てくれた。少し話をするが、ゆっくりしていってくれ。」

美月が姉で、俺が陽。この名前は元の世界からの名前だ。


「君たちも街で噂を聞いたことがあると思うが、2年くらい前…ちょうど君たちが私のところに来たくらいだ。

この東領の北部を中心に、聖女を見たという噂が流れていたね。」

短いあごひげを撫でながら、都市伝説のような話を振り出してきた。真面目に語るには、少々話しづらいようだ。

「少しだけ、聞いたことがあります。夜になると大蛇に化けたとか、ピレネ湖の上で馬車を走らせていた、とか。」

「そう、あとは…街道沿いの池の水を全て飲み尽くした、だったかな。これは少々無理があるね。

…これらの噂の信憑性についてはさておき。その聖女は、しばらくの間、人々に目撃されていたが、ピレネ湖での目撃を最後に、ぱったりと姿を消している。

北領に向かったとも、そのまま湖の水となって消えたとも言われているね。」

こちらの顔を伺いながら話を続ける。与太話を聞かせに呼んだのではない、と言いたそうだ。


「ほとんどの人はそれでお終いだ。場末の酒場で、稼ぎのない旅芸人が吹いて回った作り話だと思っている。しかし私はそうではない。君たちを知っているからね。」

トライアは立ち上がり、落ち着きのない様子で窓に向き合った。


「君たちと同じだ。聖女は突然現れたんだ。別の世界から来ているのだと私は考えている。

そもそも君たちは別の世界から来たと言っているが、あまりその世界のことを覚えていない。

聖女が君たちと同じなら、君たちが聖女と会えばその世界のことを知ることができるだろう。

当の聖女が噂通り湖に溶けたとして、別の世界に帰っていたとしても、聖女の足跡を辿ることは、きっと君たちにとって意味があるだろう。」


「もう一つ、…ここからは、この話を私から頼む理由を話そう。

私たち一部の者にしか知らされてはいないのだが、長らく病に伏せっていた公王陛下がもういよいよ長くないそうだ。

西領と北領、南領それぞれの公爵家が次代の公王の座を狙っている。」

男はまた椅子に座り直し、ここからは落ち着いた様子で話を続けた。

「順当に行けば、今最も力のある西領の領主シンバル公になるだろう。ただ、当代の公王もシンバル家の出、反発があるだろう。

次点で東領の領主…私が有力と言われている。」

怪訝な面持ちでこちらを見ながら続けた。

「…私に野心があると思わないでくれ。ぼんくらの躾けもできない北領主や、業突く張りの南領主に公王の座を渡すわけにはいかない。

奴らは次代の話が出た途端、急に聖女の噂を持ち出して、聖女を王都に差し出した者が公王になれると言い出した。特に南の奴はこんな話に随分ご執心の様子だ。」

トライアは大きく溜息をつき、更に難しい顔になった。白髪混じりの髪が、一層白く見える。

「女一人の取り合いのような真似をして、国が乱れるようなことがあってはならない。取り返しのつかない事態が起きないよう、聖女がいるというのなら手元に置いておきたい。

この世界のどこにも聖女がいないのであれば、尚いいことだ。

表立って聖女を探せないが、東領からもいくらかは人を出している。君たちにも、いや君たちには特に期待を込めて、是非頼みたいと考えている。」

トライアの話はアテのない、信憑性もない話だったが、快諾した。

トライアはこの世界に迷い込んだ自分と姉を拾い、住処を与えて仕事の面倒も見てくれた。

彼の野心を疑っていないわけではないが、彼には恩があり、何より彼が王になればきっとこの国にとって最もいい形になるだろう。

であれば聖女がこの世界で身を隠しており、自分らの手によって連れ出され、彼を支持してくれるのが最もいい。


「王都にいけば、聖女の言い伝えに関する知識を得ることができる。私の紹介状があれば、君たちでも王都の図書館に入ることができるだろう。」

アクアリアの言い伝えでは、聖女のために世界があり、聖女のために世界が動くのだという。

それが本当だろうが作り話だろうが、そう信じられているならそのように事態は進む。


帰りの馬車、まだそう遅くない時間だが雨雲が夜のように空を閉ざしている。

「姉ちゃん、俺はいいんだけどさ、姉ちゃんはどうする?」

気にかけていると思われたくないので、関心なさげに聞いてみた。

「何で? 一緒に行くよ? 私も呼ばれてたんだから、私も行くって話じゃないの?」

「いや、王都遠いよ? 今、道が悪いから行くだけでも数日じゃ済まないかもってさ。」

「もしかして、一緒に行きたくないの? 別に気を遣ってもらうつもりはないから、大丈夫だよ?

それに聖女って言われてる人も、連れて帰るなら私と一緒がいいでしょう?」

「そういうわけじゃないよ。誰もマトモに見てないんだったら男かもしれないし。

俺はやるって言ったけど、姉ちゃん実は嫌じゃなかったかなって。」

「そんなことないって。わざわざ確認しなくていいってば。」

それからは家まで静かに馬車に揺られていた。悪路の割に、乗り心地は悪くないようだった。


それから同行者が迎えが来るという日まで、旅立ちの準備を進めた。

ずっと雨が続いており、これからもまたしばらくずっと、雨が続きそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る