第30話 渚、最愛の彼(優良物件)を手に入れる
明くる日。
グレーのカーデガンを羽織った渚は、一礼をして賃貸契約を終えた客を見送った。
昨夜、渚は家に帰ってひとりきりで思い切り泣いた。
でもそれももう終わり・・・未練たらしく引き摺るよりこれからは未来をみつめて生きて行こう。
渚はスッキリとした気持ちで、心機一転仕事に取り組むことを誓ったのだった。
自席へ戻ろうと自動ドアに背を向けた瞬間、誰かに右腕を強く掴まれた。
思わず振り向いた渚の前に、怒ったような顔をした湊が立っていた。
ふたりは無言のままみつめあった。
そんな渚と湊を迷惑そうに睨んだ男性客が、大きな咳払いをひとつして店を出ていった。
渚は何を言ったらいいかわからずパニックに陥った。
けれどいつまでもこんなところでふたりして立っていたら、仕事の邪魔になる。
渚は毅然とした声で湊に話しかけた。
「今日は何の用?今、仕事中なんだけど。」
「口の利き方を慎め。俺は客だ。」
湊の言葉に渚は眉をひそめた。
「客?」
「ああ。お前が窓口対応しろ。」
「・・・わかった。」
渚は窓口カウンターに座り、湊と向き合った。
大きく深呼吸をして気持ちを整え、渚は湊に他人行儀な声で問いかけた。
「お客様。今日はどのようなご相談ですか?」
「ふたりで住む部屋を検討している。優良物件を探してくれ。」
「・・・かしこまりました。」
まさか、もう堀内さんと同棲するの?
早すぎるとは思うけれどふたりとも婚活中であり、付き合うとなったら結婚前提の同棲をしても全然おかしくない。
私の気持ちを知っているくせに、どうして湊はこんな残酷なことをするの?と渚は泣きたくなった。
「どのようなご条件でお探しですか?」
動揺で声が震えないように、渚はつとめて営業モードで対応することにした。
「そうだな・・・。金に糸目はつけない。」
「左様でございますか。」
「優秀な営業社員である岡咲さんの意見を参考にして決めたいと思っている。」
「そう言って頂けて光栄です。けれどお客様のご要望が明確でないと、ご案内も難しいかと存じます。」
「岡咲さん。あんただったらどんな部屋に住みたいか?」
「・・・は?」
「岡咲さんのおすすめの物件を知りたい。」
「・・・そうですね。」
渚はタブレットを操作し、ある物件情報を液晶画面に表示し、湊に向けてすっと置いた。
ここまで話が進んでいるのならば、もう私の出る幕はない・・・
渚は、湊と美和子にぴったりな物件を、精一杯おすすめすることにした。
「おふたりでお住まいなら、こちらの物件なんて如何でしょうか?ちょうど最近公開されました新築マンション『エミールグランドマンション』の503号室です。広さは2LDK、南向きで日当たり良好、ウオークインクローゼット有りで収納スペースも充実しています。」
「・・・・・・。」
「このマンションの特徴的な点はキッチンが広く、ディスポンサーも付いているところです。さらにこちらのキッチンには収納棚がたっぷりと備わっております。週末おふたりで料理されるカップルにぴったりなキッチンとなっております。」
「・・・・・・。」
「住環境も整っておりまして、近所には大きな公園があり、四季折々の自然を目で耳で身体で感じることが出来ます。オートロック付きで防犯面もしっかりカバーされるかと。こちらまたとない優良物件かと存じます。如何なさいますか?」
「ああ。じゃあそこにする。」
え?もう決定?
それとも信用されていると喜ぶべきなのだろうか。
湊のあまりにも早い決断に、渚は驚きを隠せなかった。
「・・・ありがとうございます。ではご契約はいつになさいますか?」
「その前に・・・部屋にオプションを付けたい。」
「何でしょう?プラスご予算を申しますと、ビルトイン食洗機でしたら30万、IHクッキングヒーター30万、IHオーブン56万、浴室テレビ45万となっておりますが。」
「岡咲渚。」
「は?」
「岡咲渚をオプションに付けたい。」
「・・・ええっ?」
「逆に言えば、岡咲渚がオプションで付けられれば、部屋はなんでもいい。」
「なっ・・・何言ってんの?!ふざけないでよ。」
「ふざけてない。俺は本気だ。お前と一緒に住めるのならば、部屋なんてどこだってかまわない。」
「・・・堀内さんはどうするの?デートしたんでしょ?」
「お前の大切な客に無下なこと出来ないだろ?一回だけ一緒にスイーツを食ってから交際を丁重にお断りした。心に決めた女がいるからってな。」
そう言うと湊は渚の目を真剣な顔でみつめ、その両手を握りしめた。
「俺に告ってきた昨夜のお前・・・めちゃくちゃ可愛いかった。あんなの反則だろ。」
「なっ・・・。」
「俺の為に仕事を辞めてもかまわないとまで言ってくれて、本当に嬉しかった。俺はその言葉を一生忘れない。」
「・・・・・・。」
「俺は渚と一緒に幸せになりたい。」
「湊・・・。」
「渚・・・好きだ。結婚してくれ。いや、俺と結婚しろ。俺ほどの優良物件はないぞ。そして俺にとっての優良物件は、渚、お前しかいない。」
「普通こんなところでプロポーズする?!」
「ここなら逃げ場がないだろ?昨夜は俺の話も聞かず逃げやがって。」
「だからって・・・」
「俺のスペックだ。よく聞け。」
「・・・・・・。」
「ルックス良し。」
「自分で言う?」
「健康状態良し、金銭状態良し。」
「・・・・・・。」
「結婚後、共稼ぎ可。」
「・・・え?!」
「家事育児分担可。おまけに旨いスイーツ付き。どうだ?」
湊の言葉がにわかには信じられなかった。
自分の主張を一切曲げなさそうな湊が、共稼ぎでもいいって言ったの?
途端に、渚の目から涙が溢れた。
昨夜散々泣いたのに、涙が止まらない。
でも昨夜の涙とはまったく違う・・・嬉し涙だった。
渚は当然の如く答えた。
「そんなの・・・・・・即決に決まってる・・・」
「そうか。」
「うん。」
「泣くほど嬉しいか?」
「うん。」
渚の涙を湊が指で優しく拭った。
「珍しく素直だな。」
「いいでしょ?こんなときぐらい素直になっても。」
「こんなときだけでなく、いつも素直になってもらいたいもんだ。」
渚は鼻をすすりながら、念を押すように湊に聞いた。
「本当に共稼ぎでもいいの?」
「俺は何事にも真摯に向き合うお前が好きだ。もちろん夢中で仕事をするお前もな。」
「ありがとう・・・。私も不器用だけど優しい湊が好き。」
「・・・ああ。良かったぁ。」
渚の言葉を受け、湊は大きく息を吐き、情けない声を出して脱力してみせた。
「湊・・・?」
「また振られたら今度こそ立ち直れないところだった。」
「もしかして緊張してたの?」
「当たり前だろ?一世一代のプロポーズだ。」
「あのいつも偉そうな湊がね。」
そう言って渚はクスクス笑った。
「大体お前のせいで俺は連日寝不足だったんだ。どうしてくれる?」
「私だって湊のせいでお肌は荒れるし、食事も喉を通らなくて痩せちゃったわよ。どうしてくれるの?」
「ダイエットになって良かっただろ?」
「はあ?これ以上綺麗になって私がモテちゃってもいいの?」
「お前みたいなじゃじゃ馬、乗りこなせるのは俺くらいだろ。」
「ん、んん!」
隣のブースを対応していた綿貫の咳払いが聞こえ、渚と湊はあわてて口を閉じ、お互いの指を絡ませ微笑みあった。
「ねえ。私からも条件出していい?」
「なんだ。言ってみろ。」
渚はたたずまいを直し、かしこまった顔で湊に告げた。
「お客様。この物件は契約解除永久不可でございます。よろしいですね?」
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