第2話 渚、新婚夫婦に優良物件を売る

暖かな春の光が、大きなサッシ窓越しに差し込む4月初めの土曜日。


窓の外には雲一つない晴れやかな空の青、遠くには微かに富士山が見え、小鳥たちの春を喜んでいるかのようなさえずりがどこからか聞こえてくる。


不動産会社社員8年目となるやり手営業の岡咲渚は、顧客である新婚の吉田夫妻の新居を探すべく内見の真っ最中だった。


ここは12階建ての中古マンション「ビレッジ桜美南」


その8階部分にある空室801号室の部屋の中は、あらかじめ設置してあるエアコン以外には文字通り何もなくガランとしている。


ダイニングキッチンに6畳と4畳半の部屋が2つの3LDK。


渚が窓を開けると爽やかな風が室内に吹き込んだ。


「この部屋の売りはバルコニーが広いことなんです。バルコニーにチェアを置いて座りながら、春には階下の公園に咲く満開の桜、夏には近場の遊園地があげる華やかな花火を眺めることが出来るんです。」


吉田夫妻は渚に促されて見晴らしの良い景色を眺め、うっとりとした顔を浮かべた。


渚は窓を閉め、再び室内に目を向けた。


ごくごく一般的な内装の中古物件だが、リフォーム済みなので傷や汚れはどこにもなく、新築といっても通りそうな部屋だ。


心なしか室内の空気も温かく、来るべき住人を今か今かと待ち望んでいるように感じる。


よし・・・ここでもう一押しね。


オフではシフォンのシャツに柔らかなシルエットのスカートでフェミニンに決めている渚だが、仕事中はスレンダーな身体を濃紺のパンツスーツで包み、肩まである黒髪を後ろ一本に結んでいる。


少し潤みがちでアーモンド形な瞳を輝かせながら、渚は気合いを入れて片手を大きく掲げた。


「如何ですか?リフォームしたばかりの綺麗な壁とフローリング、見晴らしの良い8階の角部屋、南向きで日当たり良好!駅からたったの徒歩5分!そして最寄りの桜美南駅はもっか大手デベロッパーによる開発が進行中で大きなショッピングモールや映画館を建設中です。近隣には緑豊かな公園や幼稚園、保育園がございますので、お子様を育てるにも最適な環境だと言えましょう。そしてさらにこのマンションはオートロックな上、管理人も常駐しておりますから、防犯面も安心できると思いますよ?」


眼鏡をかけひょろりとした風貌の夫と、そろそろお腹の出っ張りが目立ってきた妻が、お互い相手の表情を伺いながらも、はにかんだ笑顔で見つめ合っている。


その姿を見ながら渚はにこやかに微笑みつつ、心の中でつぶやいた。


新婚2ヶ月なのに妊娠7ヶ月、ということはできちゃった結婚、いや今は授かり婚って言うんだっけ?


ああ、このマンションの一室で繰り広げられる会話が目に浮かぶ。


「お帰りなさい!ダーリン」


「ただいま!マイハニー」


「ごはんにする?お風呂にする?それともわ・た・し?」


なーんてね。


でも結婚5年目ともなると子供の世話にあけくれる妻とマンションローンのためにお小遣いもろくにもらえない夫のバトルが始まる。


「もう少し小遣いあげてくれよ。こんな額じゃ後輩を連れて飲みにもいけないよ。」


「はあ?飲みに行く?私は家事と育児で一日中働いてへとへとなの。外でランチどころか美容院も新しい服を買いに行く時間もないの。飲みに行けないくらい我慢しなさいよ!」


「自分の金を自分で使うのになにが悪いんだ。小遣い上げろ!」


「その稼ぎが少ないから小遣い上げられないって言ってんの!それくらい空気読みなさいよ!」


・・・そう。結婚は人生の墓場というじゃない?


甘い恋愛から無事結婚式にこぎ着けても、それは決してゴールではない。


そこからがスタートなの。


恋も愛も結局は種をつなぐための遺伝子がなせる仕業。


奪われるは己の自由気ままな暮らし。


だから私は一生おひとり様でいいの。


自分のお金、自分の時間を、自分の為だけに使うの。


しかし・・・これらは全部、三十路を迎えても彼氏が出来ずいまだ独身でいる渚の、いつもの言い訳だった。


渚の本音はこうだ。


本当は早くいい男を見つけて結婚したい!


若さが失われる前にマーメイドラインのウエディングドレスを着て式を挙げ、ニューカレドニアへ新婚旅行へ行きたい!!


新築のデザイナーズマンションで彼と一緒にモーニングコーヒーを飲みたい!!!


ううん。贅沢は言わない。


せめて・・・せめて一瞬でもときめくような恋愛がしたいの。


私だけをみつめてくれる、そして私の全てを受け入れてくれる、優しい夫が欲しいだけなの。


そしたら夫へのお小遣いを出し惜しみなんてしない。


だって私もしっかり働いて稼ぐもの。


二人で働けばお金に困ることなんてないはずよ?


もちろん家事育児は夫にもしっかり担ってもらうけどね・・・。


そこでハッと我に返った渚は、コホンとひとつ咳払いをしたあと、営業トークの続きを始めた。


「この物件は中古といっても前のオーナーがたったの1年で手放したので、ほぼ新築のようなものなんですよ?」


「どうしてこんなに良い物件を前の方は手放してしまったのでしょうか?」


お腹をさすりながら、若い妻が少し不安そうな顔をして室内を見回した。


「もしかして事故物件・・・とか?」


「まさか!決してここは事故物件などではございません。」


渚は大袈裟に首を横に振った。


「前のオーナー様はこちらに住居を構えて、いずれ家庭を持つご予定だったのですが、タイミングが悪く田舎のご実家に住まわれていたお母様の体調が思わしくなくて・・・泣く泣くこの物件を手放されたんです。だからここでどなたかが不幸な亡くなり方をされたとか、そういったことは一切ございません。そんな不吉な物件を幸せあふれる新婚夫婦におすすめするなんて、滅相もございません。スマイリーでピースフルな住空間をお届けするのが私どもの願いですから。」


渚の言葉に若夫婦はホッとした顔をして見せた。


「そうは言っても中古は中古。新築時よりかなりお安いお値段となっております。これまでご案内させて頂きました物件の中でこれほどお客様のご要望を兼ね備えたお部屋はございません。ここまで好条件な優良物件はそうそうないと思いますよ?」


渚がゆるやかなウエーブをひとつにまとめた妻の顔に焦点を絞りじっとみつめたのは、この夫婦の主導権は一見大人しそうに見える妻の方だと踏んだからだった。


さっきから積極的にこの物件について細かく尋ねてくるのは妻ばかりで、夫はその受け答えをうんうんと頷くばかりだ。


でもそれくらいで丁度いいのかもしれない。


この部屋で長い時間を過ごすのは、主に専業主婦であるこの妻なのだから。


それでも答えを出し渋るこの夫婦に、渚は不動産営業の常套句を囁いた。


「この物件、かなりの好条件ですので大変人気がございまして・・・早めに決めてしまわないとすぐに別の方が契約してしまう可能性が大なんです・・・」


この物件に関して言えば、これは決して契約を急かすための嘘や強引な誘導ではない。


事実この物件には問い合わせがもう何件か入っている。


それを渚はいち早く、この夫婦を優先的に内見させたのだ。


部屋と住人にも相性がある、と渚は思う。


どんなに良い部屋でも住人との相性が合わなければ住みづらく生活に支障を、大袈裟に言えば人生をも狂わせる。


逆に日も差さず薄暗い部屋だったとしても、その住人の生活様式にぴたりとハマるケースもある。


そしてこの新婚夫婦とこの部屋はきっと相性抜群だと渚の勘がそう訴えている。


不思議と渚のこうした勘は外れることがない。


それは顧客の生活スタイルや要望を細かく聞き、部屋だけでなくその物件の周辺環境なども考慮した提案を心掛けているからだと渚は自負している。


「岡咲さん。私、この部屋に住みたいです。」


若妻は窓からの景色から視線を外し、強い意志を込めた眼差しを渚に向けて力強く頷いた。


「この部屋で新生活を始めたいと思います。公園で子供を遊ばせたり、駅前で親子3人ショッピングをしたい。ね、そう思わない?マー君。」


妻に腕を強く揺さぶられた夫はデレデレとした顔で若妻に微笑んだ。


「カナちゃんがいいなら、僕も異論はないよ。ここでカナちゃんと僕と僕たちのベビーと3人で楽しく暮らそう。」


「ありがとうございます!素晴らしいご決断だと思います。では早速店舗に戻って売買契約書にサインをよろしくお願いしますね。」


渚は大きくお辞儀をし、顔を上げてにっこりと微笑みつつ、右手を握りしめ小さくガッツポーズをした。


そして心の中でふたたびこうつぶやく。


新婚のおふたりさん。


どうか喧嘩などせず、この部屋で末永くお幸せにね。




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