第19話 ラブコメ的観点から見る七海の変化
悩める若者の気持ちが少しでも和らぐようにと、それなりにいいことを言ったつもりだったが、その後のレクチャーは諸事情によって失敗に終わった。
「そ、それで……、大人の気晴らしを見せてやるぜって、格好つけて向かった先がただのバッティングセンターで、しかもそこが……、せ、先月で閉店してたって……」
古井河は呼吸が困難なくらい笑っていた。
二人そろって帰りが遅くなった理由を問い詰められ、七海のプライベートな事情を伏せて説明したところ、このような反応をされている。バカ受けであった。
テーブルをバシバシ叩いてようやく笑いの発作が落ち着いたのか、古井河は目尻の涙を指先でぬぐいながら、
「あーおかしい……、すごく長谷川君っぽいオチね」
ひどい言い分だが、それが納得できてしまうので返す言葉がない。
そんな僕に代わって口をはさんだのはもう一人の同居人だった。
「――センセ、笑いすぎ。長谷川さんはあたしのために気を遣ってくれたのに、そういうの良くないと思う」
七海はむすっとした口調で言いながら、テーブルの上に湯気の立つ皿を置いた。まるで僕と古井河の間に割り込ませるかのように。
「これは?」
「冷蔵庫にあったキノコ類をちぎってきざんで適当に調味料を振って炒めたやつ。味付け濃いめだから」
「あらあら……、ありがとう水渡さん」
古井河が頬をゆるめる。ちょうどワインを飲んでいた彼女にはもってこいのおつまみだ。皿に添えられていたフォークを手に取ろうとするが、
「カロリーなんて気にせずにいくらでもどーぞ。あたし先にお風呂入りますね」
七海の余計なひと言によってピシリと硬直してしまう。
「食べないのかい?」
「……この炒め物、ベーコンも入っているわ。あと香りからしてバターとオリーブオイルも。この家のバターは無塩?」
「いや普通のだよ」
「なんてこと……」
カロリーが、塩分が、コレステロールが……、と呪詛を吐いていた古井河だが、意を決してフォークを握り直す。
「悔しい、でも食べちゃう……!」
「まずアルコールを控えたらどうかな」
古井河は結局、ワインのハーフボトルとキノコ炒めをすべて平らげた。
「気づいてる? 長谷川君」
「大丈夫、古井河の二の腕にたるみはないよ」
「贅肉は遅れてやってくるの」
古井河は半袖からのぞく二の腕を不安そうに揉みしだく。
「……そうじゃなくて、水渡さんのことよ」
「何か、変わったことがあった?」
「呼び方。今まで〝副店長〟だったのが〝長谷川さん〟になっていたわ」
「いつまでも役職名で呼ぶのはおかしいと思ったんだろう」
「甘いわね。呼び方の変化は距離感の変化よ。ラブコメでは一大イベントなんだから」
「ラブコメ? せいぜいホームコメディじゃないかな、これ」
「それにさっきも、長谷川君をかばうような言動だったし」
「気のせいだと思うけどなぁ」
七海は以前から古井河に対して当たりが強いところがある。ケンカ腰というほどではないが、何かにつけて張り合おうとしているように感じていた。
それは、前方に自分と同じくらいの速さで歩いている人を見かけたら、歩調を速めて追い抜かそうとするような、ささやかな対抗心ではあったが。
「高校生は多感な時期だってわかってる?」
古井河は足を組み直し、空になったワイングラスの縁を指先でなぞる。透明なグラスに口紅が色移りして、わずかに赤くなっている。
「それはもちろん。僕たちにとっては些細なことでも、大きく気持ちが落ち込んでしまう」
「逆もしかり、よ」
「逆?」
「心を覆う暗雲が些細なことで払われて、雲間から光が差せば、世界はその明るさによって見え方が一変する。良くも悪くも、あの年頃の変化は急激なのよ」
「どうしたの、急にポエミーなことを言いだしたりして」
「わたし今、文芸部の顧問をしているの」
「キャラ付けかい?」
「若者の取り扱いには細心の注意を払いなさいってこと」
「わかってる」
「わかってない」
古井河が両肘をテーブルについて身を乗り出した。胸が強調されるポーズはわざとだろうか。古井河はアルコールには強いが、飲むと言動が大きくなる。
かすかに上気した頬、しかしその瞳はどっしりと構えていて、ゆるぎなくこちらを見据えている。戦艦の主砲を向けられているかのようだ、などとミリタリーな比喩が浮かんだのは、ポエミー古井河の影響だろうか。
しかし、主砲はすぐに彼女の顔ごと逸らされてしまう。
「……たった数日でデレるなんて、案外チョロイ娘ねまったく……」
「古井河?」
「わたしなんてひと回りも拗らせてたのに、最近の女子高生は
古井河のつぶやきは小さく、室内に流れる音楽も重なってはっきり聞き取れなかったが、それまでの会話から、僕に対して何を言わんとしているのかは、あるていど察してしまう。
「大丈夫。水渡さんはなんというか……、僕を軽視しているからね」
「だからそういう対象には入らないって言いたいの?」
「ああ」
「その認識が間違ってたとしたら?」
「大丈夫」
僕はその単語を繰り返す。
「あの大雨の日、水渡さんが初めてこの部屋へ入ったとき、古井河はまだいなかった。二人きりだったんだよ。それでもあの子は平然とひと晩すごして出ていった」
その警戒心のなさは、水渡七海が僕を――というより大人の男性全般を軽く見ている証だろう。だから決して、好意の対象にはなり得ない。
しかし古井河は納得いかない様子。
「だからぁ、若者の変化は急激なの。ガワが同じでも中身の更新は進んでるんだから、同じバージョンだと思っていたら痛い目を見るわよ」
なおも忠告――のような牽制のような――をしてくる古井河に、どう答えたものかと考えていると。
扉越しに聞こえていたドライヤーの低音がとぎれた。
風呂上がりの七海がこちらへやってくる合図である。
おかげでこちらのやり取りは中途半端な状態でストップしてしまい、愛好するアーティストの音楽をもってしても誤魔化しきれない、微妙な空気がただよう。
湯上り女子高生はさっそくそれを察したのか、
「あれあれ? 痴話ゲンカですか?」
などと嬉しそうにのたまう。
単純に面白がっているだけという態度だ。
古井河が心配しているような、異性へのアピールのそぶりはない。
服装にしてもそうだ。
過度な露出のない七分丈のパジャマで、こちらもいつもと同じ格好である。
つまりどこも変わっていない。心配することなど何もないのだ。
そもそもこの生活は、夏休みの間だけという短期契約のもとに成立している。期間を区切らなければ立ち行かない、不安定きわまりないものだ。三人のうち誰か一人がバランスを崩せば、簡単に失われてしまう。
特殊な条件下でしか発生しない、陽炎のような、夏の幻。
「そんなのじゃないわよ」
「あえて言うなら、音楽性の違い、みたいなものじゃないかな」
「そうそれ」
「むっちゃはぐらかされてる……」
大人二人は適当に答え、子供一人はその返答にむくれる。
これが僕たちのバランスだ。
大丈夫。
心の中でつぶやいて立ち上がる。
「それじゃあ僕も風呂に入ろうかな」
「あっ、長谷川さん」
僕を呼び止める声は、今までよりも語尾が上がっているように聞こえた。
その甘やかな響きを誤差と断じるより早く、七海は次の
「背中、流しましょうか?」
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