第10話 三人ぐらし初日 シュレディンガーの裸婦


「あのぉ~、わたくし、一番風呂いただいてもよろしいかしら?」


 夕食が終わったあと、漫画に出てくる貴族みたいな口調で先生が言った。


「ほら、炎天下をスーツで歩き回ったし、そのうえ帰ってきてからはお肉を焼いたりもしたし……」


 恥を忍んで……、って感じでうつむいて、左右の指を合わせながら、ぼそぼそとつぶやいている。


「僕は最後でも構わないよ、いつも涼しい店内で仕事してるからね。汗もかいていない」


 思ったとおり副店長はあっさりOKした。


「あたしも別に、まだ洗い物してるし」


 同居人二人の許可を得た先生が、脱衣所へ入ってくのを見送ると、自然と口元がつり上がる。絶好のチャンス到来。からかい甲斐のあるシチュエーションだ。


 なんといっても、扉の一枚向こうで、古井河先生がお風呂に入ろうとしているのだ。この状況に興奮しない男はいないと、あたしは信じている。


 古井河愛佳は全校男子の憧れの的だ。

 美人だし授業はわかりやすいし、生徒への態度も基本的には優しいけど、締めるところはきちんと締める厳しさも持っている。そして何よりその身体。思春期の高校男子には目の毒だし、大人だってつい目で追ってしまうナイスバディなのだ。


 それに対して副店長は、女性店員の間で悪い話は聞かないけど、格好いいとか付き合いたいとか、そういう話が出ることもない。完全にいい人枠、人畜無害の男なのだ。もちろん、誰かと付き合っているという浮いた話も一切ない。


 大雨の夜にあたしを泊めてくれたときだって、手を出すそぶりすらなかった。三十を過ぎると、そういうことに興味を失くしちゃうんだろうか。


 そんな風にちょっとかわいそうに思ってたんだけど、それはどうやら間違いだったみたいだ。女性を二人も部屋に泊めるなんて、下心なしにはありえないもの。


 あたしは目を泳がせて年甲斐もなくキョドる姿を期待して、コーヒーを淹れている副店長に声をかけた。


「副店長」


「うん?」


「あの扉の向こうでセンセが全裸になってますけど、どう思いますか?」


「水渡さんはシュレディンガーの猫という言葉を知っているかな?」


 わけのわからない質問が返ってきて、あたしは内心、首をかしげる。


「いえ、知りません。猫の品種ですか? ペルシャ猫みたいな……」


「詳しいことはネットで調べればわかるんだけど、かなり大雑把に言うと、〝物事は実際に観測するまでは、本当にコトが起こっているかどうかわからない〟という話さ」


「はあ……」


「つまり、いま扉の向こうで古井河が全裸になっていると君は言ったが、果たしてそれは事実だろうか? 水着で風呂に入っている可能性は? あるいは脱衣所で突っ立っているだけで、そもそも入浴していないかもしれない」


「いや、でもセンセはお風呂に入りたいって言ってましたし」


 確かに、と副店長は大げさにうなずく。


「私の言ったことと君の言ったこと、どちらが事実なのかはこの場ではわからない。すべては可能性に過ぎないのさ」


「それはそうですけど……」


 話はそれで終わりとばかりに、副店長はコーヒーカップを持って二人掛けのソファへ移動する。


 あたしは釈然としない気分でその背中を見つめた。睨んでいたかもしれない。わけのわからない屁理屈で煙に巻かれてしまった。からかおうとしたのをうまく避けられたみたいでなんか悔しい。


「水渡さん」


「……なんですか」


 ああ、ほら、あたしの返事、自覚できるくらいつっけんどんだ。


「これから音楽を聴くんだけど、大きい音は平気?」


 オーディオセットをつつきながらそんなことを聞いてくる。


「大きい音って?」


「これくらい……、かな」


 副店長はリモコンを操作して音量を上げていく。そこそこ大きい音量だったけど、これくらいなら問題ない。ただ、あたしは音楽を聴くときはもっぱらイヤホンなので、隣の部屋に聞こえてしまわないかどうかの方が気になった。


「あ、全然だいじょぶですよ。ていうかお隣さんの方は」


「ああ、窓さえ閉めていれば聞こえないよ」


「ほへぇ~」


 あたしは壁を手のひらでぺしぺしと叩いてみた。


「きちんと中身が詰まってる感じの壁ですね、ここ」


「防音はそれなりのものだよ」


「ウチの安アパートはひどかったですから、つい心配になっちゃって。隣の部屋の情事が聞こえてきても、そういうので文句は言いづらいし……」


「私もコメントがしづらいよ」


「あ、このアーティストならあたしも知ってます」


「まあ知らない人はいないだろうね、老若男女ろうなくなんの


「副店長、いま老若男女ろうにゃくなんにょサボりましたよね」


「伝わったからいいじゃないか。水渡さんだって厳密には〝副店長〟じゃなくて〝副てんちょ〟だろう」


「そっちの方が可愛くないですか?」


 無駄話をしているうちに、先生がお風呂から出てきた。

 美女の湯上り姿は男心を揺さぶる色気にあふれているだろうと期待してたのに、


「ちょっとセンセ、なんでまたジャージなの」


「着やすいし動きやすいし、部屋着として最適でしょう」


「セクシーさが足りない」


「盛りのついたオスみたいなことを言って……」


 その言葉で当初の目的を思い出した。湯上りジャージ残念美人の出現に、副店長はどんな反応をしているんだろう。


「ん~ふ~……♪」


 副店長は目をつむったまま、音楽に合わせて軽くリズムを取っていた。鼻歌なんか歌っちゃったりして。その呑気さにイラッとした。


「ああ、古井河。あまり広くない風呂だけど、どうだった?」


「浴槽のサイズなんてどこも同じようなものでしょ。一番風呂、ありがと」


「どういたしまして。……ん? どうしたんだい水渡さん、そんな怖い顔をして」


「別に。二番風呂入ります」


 休憩入ります、みたいなノリで言って、お風呂セットを準備する。

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