ナイト・フィクション

ねじまきねずみ

.*・°。・⭐︎*・.

「……帰りたくないなぁ」

会社の同僚との飲み会の帰り道。

大通りに差しかかって、行き交う車の灯りに照らされながらぽつりとつぶやく。

目の前には、後輩男子の鷹野たかのくん。

帰りの電車を検索していたスマホからこちらにうつした視線には、少しの驚きと戸惑いが見て取れる。

「帰りたくない」

お酒が入って判断能力が少しだけ鈍っているのは自分でもわかってる。

それでも意識ははっきりしているから、明日になったら忘れて責めてしまうなんて無責任なことはないはずだ。

「鷹野くんは、もう帰りたい?」

先輩らしい口調、弱い女の声色。……我ながら慣れていない感じが出てしまっている気はする。

彼はどこか物言いたげな、迷っているような表情。

だけど鷹野くんはきっと断らない。

日出ひのでさん、酔っ払いすぎじゃないですか?」

私は首を横に振って否定する。

「そんなに飲んでないから酔ってないよ」

本当は酔いたかった。

酔ってしまいたかった。

だけど酔えなかった、あの空間では。

……だって、余計なことを口走ってしまいそうだったから。


鷹野くんこと鷹野壱沙たかのいっさ・25歳と、私こと日出珠理ひのでじゅり・27歳は、家具・インテリア雑貨メーカー『ウェスアンダー』の営業部に所属している同僚同士。

鷹野くんは新人の頃から私が面倒を見てきた後輩だ。

入社当初は着慣れていなかったスーツも今ではすっかり様になっている。

彼は爽やかで優しい表情そのままの人当たりの良い性格で、先輩や上司に可愛がられている。

私は……他人評価では多分、いわゆる強い女。

猫目ではあるけど、性格はそんなにキツくないと思うんだけど。


今夜は同じ部署の仲間たちとの飲み会だった。

そして今は居酒屋での2次会を終えたところで23時。


私がジッとみつめると、彼は「ふうっ」ってため息をついて「やれやれ」って顔をして口を開く。

「まあ終電までまだあるし、もう一軒だけ行きましょうか」



【キネマBar】と書かれた小さくてレトロなネオンサインの看板を目の端に見ながら、狭い階段をのぼる。

「こんなお店あったんだ。あ、あの作品大好き」

カウンター席に隣り合って座って、あたりをキョロキョロと見回す。

二人だけの3軒目に鷹野くんが連れてきてくれたのは、映画をテーマにしたお酒が飲めるバーだった。

仄暗い店内には、ところせましと映画のポスターが貼られている。

アメコミ映画のキャラクターフィギュアや俳優のサイン色紙なんかも飾られていて、店内に流れる音楽も映画のテーマ曲ばかりだ。

そこかしこから、お客さんたちの映画に関する会話も漏れ聞こえる。

「去年できたんですよ。いつか日出さんと来たいなって思ってたから、来れてうれしいです」

どう考えても私の方が無理矢理付き合わせてしまったのに、鷹野くんは穏やかに微笑む。

彼が口にした『日出さんと来たいなって思ってた』は、下心的な意味ではない。

「え、すごい! こんなにマニアックな監督の作品までカクテルになってる」

「200種類以上あるみたいですよ。メニューに載ってない作品でも、リクエストしたらイメージで作ってくれるらしいです」

「そうなんだ、すごいね。何にしようかな……。好きな監督でいくか、作品でいくか……」

映画のタイトルがズラリと並んだカクテルのメニュー表につい興奮してしまう。

そんな私を見て、鷹野くんがクスッと笑う。

そう、私たちは二人とも映画が好きなのだ。

〝ウェスアンダー映画部〟を称して、二人で新作から名作まで映画の情報交換やDVDの貸し借りなんかをしている。

メニューを上から順に見ていくと、ある作品名で人差し指が止まる。

「あ、じゃあ……『マイラズベリーナイツ』にする」

しばらくして、予想していたピンク色よりもどちらかというとオレンジ色に近い色味のお酒がカウンター越しに提供される。

「映画部にかんぱーい」

鷹野くんが注文した、サスペンス映画をイメージしたなんとも言えないグレーのお酒と、グラスを静かにぶつけ合う。

ラズベリー風味のそれは甘酸っぱくて、スムージーのような細かい氷の粒が入っていた。

「あまい……」

そうつぶやいた私の脳裏には苦い記憶が浮かぶ。

もったりとして冷たい舌触りの甘いカクテルが、記憶の苦味を一層鮮明にする。

——『珠理、あのさ』

飲み込むタイミングが一拍遅れた。

「……日出さん、何かありました?」

心臓がギクリと音を立てる。

「べつに、何もないよ」

平静を装って彼を一瞥すると、またグラスに口をつける。

「そうですか」

鷹野くんはそれだけ言って詮索してくるようなことはなかったから、そのあとは二人でポスターを指さしながら映画の話をした。

「最近映画館行けてないなー」

「だめっすね。たまにはスクリーンで観て映画の世界に浸りきらないと」

彼の意見に、「うんうん」と深くうなずく。

配信でもDVDでもストーリーの面白さは変わらないけど、たまたまその日、同じ時間のチケットを取っただけの知らない人たちと、同じスクリーンを見ながら共有するあの時間と空気は他では味わえない。

鷹野くんとこうやって映画談義をする時間も好き。


時刻は23時45分。

「日出さん、終電大丈夫ですか?」

この店での2杯目を飲み終えたところで鷹野くんに聞かれる。

「ん? んー……」

スマホを取り出して乗り換え案内のサイトを表示する。

「だめ」

「だめって……」

彼は脱力したように肩を落として眉を寄せる。

「日出さんて、家どこでしたっけ?」

西荻にしおぎ……」

「まあ、タクシーで一万かからずに帰れますね」

鷹野くんはため息交じりに、自分が悪いわけでもないのにスマホアプリでタクシーを手配しようとしている。

「え、いらないんだけど」

「いや、いいっすよ。俺が確認するのが遅かったのが悪いんで」

そんなわけないのに。

「お金の話じゃないよ」

「え?」

「いらないのはタクシー」

彼の目をまっすぐ見据える。

「言ったでしょ。帰りたくないの」

「……それって——」

言いかけた彼の言葉に、無言で首を小さく縦に振る。

「今度こそ酔ってますよね?」

今度は横に振る。

「私がお酒強いって知ってるよね。わざと逃したの、終電」

断らないよね、鷹野くんは。

少し前から気づいてるんだよ私、あなたの気持ちには。

「帰らなくちゃだめ?」

彼は頬杖をついて無言でこちらをみつめながら考えている。

そんな冷静さは今、いらないのに。

「わかりました。今夜はこのまま二人で過ごしましょう」

冷静なままそう言うと、彼はスマホに視線を戻した。

「空きがあるか確認しますよ」

たしかに金曜の夜はホテルの部屋って満室かもしれない。

空いてなかったらタクシーにまわれ右……か。

「お、意外と空いてる。予約してから行きましょうか」

「う、うん」

思いのほか積極的な鷹野くんに、若干の驚き。

「なんかビビってます?」

「ない。怖がってなんて」

彼がフッと含みのある顔で笑う。

「日出さんて前と後ろ、どっちが好きですか?」

「……へっ!?」

予想外の直球な質問に、思わずまぬけな声が出た。素っ頓狂な声ってやつだ。

「どっち?」

「どっちって……」

「こういうことはちゃんと聞いておかないと」

さすが、普段の仕事でもお客様の要望に寄り添ってるもんね……って、いやいやいや。

「それともやっぱりビビってます?」

鷹野くんはニヤリと挑発的に口角を上げた。

その表情に思わずムッとしてしまう。

「後ろっ」

〝ビビってなんてない〟って、先輩ヅラして答える。

「了解です」

彼は私の焦りを見透かすように眉を下げて、クックッと可笑しさを堪えるみたいに笑った。

……鷹野くんも男だったんだ。

自分から誘っておきながら、今さらそんな当たり前のことを実感する。

「行きましょうか」

店を出て、鷹野くんのナビゲートで二人並んで歩く。

こういう時ってたいてい、気持ちを盛り上げるために手をつなぐとか腰に手を回すとか……スキンシップがあると思うんだけど。彼はただただ、並んで歩いている。

「名前……」

じれったくて、こちらから口を開く。

「珠理って、下の名前で呼んで欲しい」

私を見下ろした鷹野くんは、また黙って考えてる。積極的なのか及び腰なのかつかめない。

「じゃあ、珠理さん」


——『珠理』

不意に、聞き慣れた声が頭に響いて胸にチクッと小さなトゲが刺さる。


「……壱沙くん」

私も彼の下の名前で呼んで、ニコッと笑顔をつくる。

一瞬、彼の顔が切なげに曇ったように見えたから、つなごうかと思っていた右手は、ぼんやりと空気をつかんで引っ込めた。



「え……?」

鷹野くんの足が止まった場所で、今度は私が戸惑いを浮かべる。

「ここ?」

思わず彼の顔を見ると、コクッとうなずかれる。

「今夜の宿です」

そしてニッコリと微笑まれる。

視線を少し上に向ければ、【大崎シネマ】の歴史を感じる書体の看板。

この名前は聞いたことがある。

新作じゃない、少し前の作品から昔の名作までオーナーこだわりの作品を上映している映画館。

いわゆる〝名画座〟というやつだ。

都内にいくつかある名画座の中でも、大崎シネマは映画好きの間では有名だ。

「ここ、たまにオールナイト上映してるんです」

オールナイト上映……。

「最近リニューアルオープンしてイスが新しくなったんです。座り心地が良いからオールナイトでもキツくないと思いますよ」

「へ、へぇ……私、名画座って初めて」

鷹野くんに顔をのぞき込まれる。

「思ってたのと違いました? 〝珠理さん〟」

わざとらしく下の名前で呼んで、いつになくイタズラっぽい笑みを向けてくる。

羞恥心で赤くなっているであろう顔を半笑いにしながら、私は首をぶんぶん横に振った。

「じゃ、入りますか」

映画館の前のガラスのウインドウには、上映中の作品のポスターとタイムスケジュールが貼られている。

「あ、これ。3部作のやつ」

「今夜はその3作を朝6時半まで一挙上映です」

それは連続するストーリーで構成された3部作の恋愛映画。

3作すべて配信で観たことがあるけれど、好きな作品だからスクリーンで観られるのがうれしい。

しかも新作でもない作品の一挙上映なんて機会はそうそうない。

「〝朝6時半まで〟に全く臆さないって、相当ですね」

滲み出てしまううれしさを隠せていなかった私に彼が言う。

「そっちこそ、映画オタク」

まさか今夜、映画館に来るなんて思わなかったけど、これはこれで楽しそうで良かったのかもしれない。

地下の劇場に向かう階段の脇にも、壁に貼られたたくさんの映画のポスターやラックに置かれたさまざまなフライヤーがある。

映画館の建物は古いようで、紅色の階段が年代を感じさせる。

一段一段、階段を下りるたびに外の喧騒と切り離されていく空気が、映画館特有の密な世界へと私たちをいざなっていく。

階段の下には古めかしい券売機と受付の女性。スタッフは案外若い子が多いようだ。

予約を済ませていた私たちは、この空間に似つかわしくない、スマホ画面の2次元バーコードを機械にかざして入場する。

「あ、チケット代」

「いや、大丈夫ですよ。1本分の金額で3本観れるし」

「そういうわけには……」

「じゃあ、あれ買ってくれます?」

鷹野くんが指さした先はこれまたレトロな……というよりも、さびれた雰囲気の売店。そのカウンターの上にはポップコーン。

それは大きなシネコンの売店で売られているようなできたての温かいポップコーンとは違って、丸い文字で『POP CORN』と書かれたオレンジ色の紙箱ごとビニール袋でパックされた、冷めた作り置きのものだった。

それとペットボトルの炭酸飲料を2本購入して、席に向かう。

「珠理さんの好きな〝後ろ〟にしておきました」

学校の教室2つ分くらいの小さな劇場の最後列で、鷹野くんが言う。

「……それ」

また恥ずかしくなって眉を寄せると彼は笑う。

「〝俺も〟映画は後ろの方の席で観るのが好きです。後ろの人を気にしなくていいし、他の人の反応も見れておもしろいし」

「同感」

二人で「ふふ」っと笑い合う。

「うーん……」

席についてつまんだポップコーンの、ふにゃふにゃした湿気たような食感に顔をしかめる。

「まずいっすよね、これ」

そう言いながら彼もつまむ。

「なんで買わせたのよ」

「これ食べると、大崎シネマに来たなーって感じがするんですよ。家じゃ絶対食わないでしょ?」

たしかに。

映画館では非日常をとことん楽しみたい、そこも彼と同意見。

「そろそろかな」

鷹野くんがつぶやいたのとほとんど同じタイミングで〝チリーン、チリーン〟と上映開始を知らせるベルが鳴らされ、劇場の厚い扉が閉ざされる。

それからブザー音が響いて、劇場内が徐々に暗くなっていく。同時にスクリーンの端にかかっていたカーテンが開いて、白い画面が全貌を現す。それでもシネコンのスクリーンよりはずいぶん小ぶりで、どこか愛らしい。

どうやらコマーシャルや予告編の上映は無いらしく、注意事項がアナウンスされるとすぐに、映画会社のロゴと作品のタイトルが映し出された。


その時まではわくわくとした高揚感に胸を躍らせていたのに、冒頭、遠景の街並みが映っただけで〝しまった〟という後悔の念に心臓がドクンと脈打つ。


この映画は、別々にロンドンを訪れた20代の男女が偶然出会って恋に落ちる物語。

出会って、恋に落ちて、旅先で一夜を過ごす。

それを旅先の思い出にするべきか、それぞれの国に帰ってからも恋人としての関係を続けるのか……紆余曲折を経て、二人の想いは通じ合う。

そして二人でロンドンに住むことを決め、長い時間を過ごす恋人同士になる。


それが3部作の1作目。

ひたすらに、お互いを想い合う幸せな恋人たちを描いたストーリーだ。

ひさびさに観たその映画は、変わらずに私の胸をくすぐった。

前に観たときの、キュンとときめいた気持ちが蘇ってくる。


——『くすぐったいよ』

——『なんかこの話観てたら抱きしめたくなった。珠理、いい匂いがする』


……同時に、わたしの家で一緒に観た相手の声や匂いや温もりがフラッシュバックしてくる。噛みしめたポップコーンの食感にシンクロするみたいにキュ……って、泣いてるみたいに胸が軋む。

炭酸水で流し込めば、ピリピリとした刺激が絡みついてくる。


「やっぱり何かあったんですね」

1作目の上映が終わると一旦劇場内が明るくなる。10分間の休憩らしい。

そのタイミングで鷹野くんに話しかけられた。

「今にも泣きそうな顔してますよ」

何も言えずに押し黙ってしまう。

左門さもんさんと、何かありました?」

「え……」

左門悠真さもんゆうまは私と同期で、私たちと同じ部署の仲間。今夜の飲み会にも参加していた。

そして、私の4年越しの彼氏……だったけど、今週からはもう元彼、か。

「どうして……」

同じ部署で気まずいからと、私たちが付き合っていたことはずっと秘密にしてきた。

「珠理さんの表情見てればわかりますよ」

鷹野くんは小さくため息をつく。

「さっきのカクテル、失恋がテーマの映画でしたよね」

「……さすが、映画オタク」

笑おうと思ったのに、声が少し震えてしまった。

「……別れたの。この前の日曜に」


——『別れて欲しいんだ。俺——』


「4年も付き合ってたのに、あっさり」

「4年……」

私なんかよりよほど映画に詳しい彼にはピンと来たはずだ。

この空間で〝4年〟という長さの持っている意味が。

「……別れた理由、聞いてもいいですか?」

少し迷ったけど、吐き出してしまいたいと思った。

あのカクテルを選んだ自分は、本当はきっと聞いて欲しがっていたから。

「彼の、心変わり」

つまりは浮気だ。

「最低ですね、左門さん……」

そのひと言と、自分の中の抑えていた感情で、喉の奥がギュッと何かにつかまれたように苦しく、そして熱くなる。

「2作目、やめておきますか?」

私の頬を伝ったものを見て、鷹野くんが気づかってくれた。

だけど首を横に振る。

「……観たい」

今夜は物語の中にいた方が、気が紛れそうだから。

そんな私に彼はハンカチを差し出してくれた。


映画の2作目は前作から4年後の話だ。

実際の撮影も前作の撮影から4年後に行われていて、演者にも風景にも物語の中と同じだけの時間の経過が刻まれている。

そのリアリティがこの作品の人気の理由だ。

恋人たちの4年後。

その時間がもたらしたものは残酷で、男性主人公には他に好きな人ができてしまう。

2作を続けて観ると、二人の過ごした甘い日々の記憶が鮮明で、胸がより重く押し潰される。


——『取引先と飲み会だよ。珠理だっていちいち全部カレンダーに入れないだろ?』

——『でも……』

——『最近しつこいよ。あっさりしてて詮索してこないのが珠理の良いところなのに』


絶えないケンカと4年分の思い出の中でせめぎ合い葛藤する感情が、今の私にとってはあまりにもリアルだ。


——『入社した頃からずっと、日出のことかわいいなって思ってて』


悠真との思い出が、甘いものも苦いものもないまぜになって、私の頭の中も胸の中も埋め尽くされていく。


——『珠理がいないとだめだな、俺』


この作品の中では女性主人公の方も、新しく出会った男性と恋をする。

ロンドンの街を彼と歩いて、彼と食事をして、彼と——


映画終盤のヒロインと彼のキスシーンのタイミングで、私の目の前が暗くなる。

鷹野くんと私の唇が、重なる。


それは一瞬のできごとで、彼はすぐにスクリーンに視線を戻した。

その瞬間から涙がボロボロと大粒になって、拭っても拭っても止まらなくなってしまった。


ほどなくして2作目の上映も終わって、また劇場内が明るくなる。

けれど私は目にハンカチを当てたまま、顔を上げられない。

「……ごめんなさい……」

それだけ絞り出すのが精一杯だった。

彼の表情を見ることもできない。


鷹野くんは、きっとはじめからわかっていたんだ。

私が彼を利用しようとしていたことが。

映画の男性と同じ存在だということが。


2作目で、女性主人公は別の男性と恋に落ちる。

しかしそれは、長年の恋人を忘れようと自分の感情をごまかすためのまやかしでしかなかった。

彼女は、彼を利用しようとしたことを後悔して別れを告げる。


「俺は珠理さんの思っている通り、たしかにあなたが好きですよ。左門さんと付き合ってたことなんてずっと前から気づいてたくらい、あなたを見てました」

彼は、いつも通りの落ち着いた穏やかな声で言う。

「今夜だって本当はホテルに行ったって良かったんです——」

やっぱり、本当はわかってたんだ。

「それで気持ちが俺に向いてくれるなら」

ゆっくりと、顔を彼の方に向ける。

「だけど、珠理さんはまだ左門さんが好きでしょ?」

否定も肯定も、声にできない。

「今夜だけの関係で、こういう時間を共有できる存在を失うのは勿体ないって気がします。俺は」

切なげに眉を寄せて笑う彼の言葉に、胸が締めつけられる。

「私……最低」

言葉はゆっくりとしか紡げない。

「彼の相手、毬谷まりやさんなの……」

同じ部署で、さっきまで一緒に飲んでいた後輩。彼女が私たちのことを知っていたのかはわからない。

「だから、私も——」

愚かで浅はかな自分が情けなくて涙がこみ上げる。

「当てつけに鷹野くんと、って……」

惨めな自分から逃れるために。

「大事な後輩なのに、利用、しようとした……」

こんなにかけがえのない時間を過ごしてくれる相手なのに、自棄になって簡単に関係を壊そうとした。

「本当に、馬鹿……」

下を向いていても、彼が小さくため息をついたのがわかった。

「今夜は〝壱沙くん〟じゃないんですか? 珠理さん」

「え……?」

「普段とは違う、フィクションてことにしませんか?」

「フィクション?」

「次の映画が終わって朝になったら、元の〝日出さん〟と〝鷹野くん〟に戻るってことで。朝が来たら、全部忘れましょう」

「なにそれ……かっこつけすぎ」

優しすぎるよ。


そして3作目の上映が始まる。

また前作から4年が経過している。

主人公たちがお互いの存在の大切さを改めて感じ、彼がプロポーズする場面が2作目のラストシーンだった。

4年後の彼と彼女には子どもが生まれている。


——『別れて欲しいんだ。俺、毬谷さんと結婚するから』


私と悠真には訪れない展開。

「ずっと一緒にいられるって思ってたのに」

思わず小さな声でこぼしてしまった。

悠真と二人でこの映画を観たときは、別れなんて想像しなかった。


——『いいな、こういう関係』


——『4年後も一緒にいようね』


私への気持ちが無くなったのとあの子を好きになったのは、どちらが先だった?

怖くて聞けなかった問いが、喉の奥にこびりついて離れない。

私には何が足りなかったんだろう、なんて考えてしまう。

ふにゃふにゃで味のしなかったポップコーンは、ますますふにゃふにゃで、さっきよりしょっぱい味がする。

今だけじゃない。うまくいかない空気を感じ始めてからずっと自問自答し続けてる。

私は強くなんかない。

あっさりしているわけでもない。

不機嫌な顔を見たくなくて、ただただ嫌われることを恐れて、大事なことほど何ひとつ聞けなかっただけなんだ。

最後の最後まで。

聞けばよかったんじゃないの?

縋ればよかったんじゃないの?

自分の弱さを口に出していれば、彼はまだ、私のもとにいてくれたんじゃないの?

今さらどうすることもできない後悔がずっと私自身を責め立ててる。

喉の奥につかえたものは、吐き出すこともできないけれど、飲み込むのにも時間がかかる。


——『朝が来たら、全部忘れましょう』


この映画が終わったら、悠真のことも全部忘れられたらいいのに。

いい思い出なんか、全部消えてなくなってしまえばいいのに。

声も、匂いも、体温も——

全部、全部——


——ラブストーリーは、幸せそうな二人の未来を予感させるシーンで幕を閉じた——



「あー目にくる……」

朝の6時半を過ぎて映画館を一歩出ると、暗がりで過ごした私たちにはまぶしすぎる世界に変わっていた。

つい先ほどまでそこにあった夜の時間が、すごく遠いもののように感じられる。

「疲れてないですか?」

「疲れた、いろんな意味で。たしかにイスはふかふかだったけど」

俯き気味に苦笑いを浮かべる。

「……いろいろありがとう。泣いたら少しすっきりした」

こんな風に人前で気持ちを吐き出すように泣いたことなんて、今までなかった。

冷静になると少し恥ずかしい気もするけれど、案外気分は悪くない。

「〝日出さん〟会社、辞めないでくださいね」

それについての本音を言えば「わからない」だ。

辞めてしまいたい気持ちもあるけれど、今は曖昧に小さくうなずく。

「あ、ハンカチ。洗って返すね」

きっと泣き腫らしたひどい顔をしているだろうな……なんて、涙で濡れたハンカチを見ながら自分の顔を想像する。

「日出さん」

「んー?」

「……いつかまた、〝壱沙〟って呼ばれる日が来るのを待っててもいいですか?」

思わず顔を上げて、彼を見る。

「でも、私……」

きっと当分、次の恋には踏み出せない。

「まあ、もう一年以上も待ってますけど」

「……」

言葉を発せないでいる私に、彼は困ったように笑う。

「またまずいポップコーンを食べに来るのに付き合ってもらうくらいは、お願いしてもいいですか?」

「うん……」

「じゃあ、映画部員同士の——」

彼が右手の小指を差し出したから、つられて私も小指を絡める。

「約束」

そう言って指切りをすると、彼はあくびを噛み殺しながら駅とは別の方向に歩き出した。

私はくるっと向きを変えて、とっくに発着のベルを鳴らしている駅に向かう。


二人の過ごした夜が幕を下ろして、ゆっくりと日常に溶けていく。


fin.

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