僕と彼の愚かな思い出

音羽

僕と彼の愚かな思い出

 僕は今、車や万年筆や、時計や革靴など、高価な宝物にかこまれて暮らしている。僕は貧困な暮らしなどしていないし、今の日常に満足している。

 でも、時折思い出す。あのときの、熱情と愛情と、それから、後悔を。

 

 僕は、この完璧なまでに美しい蝶を目の前にし、この上ない満足感を覚えていた。僕がずっと育ててきたヤママユガを、ついに展翅することに成功したのだ。が、まだ標本は完成ではない。しばらくの間、ヤママユガを乾かさなくてはならない。

 僕は戸締まりをして、部屋をあとにした。

 翌日、学校に言ってみると、教室は僕の話題でいっぱいだった。「あのエーミールが」「ついにやったか」と僕を称賛する声が、あちこちから聞こえてくる。僕はニヤケが止まらなかった。

 3週間後。そろそろ乾燥が終わった頃かと思い、期待と感動に胸をいっぱいにしながら、僕は愛するヤママユガの待つ部屋へと飛び込んだ。


お  か  し  い


 僕の部屋には、「完璧な」ヤママユガがいたはずだ。しかし、そこにあったのは、ヤママユガの「残骸」だった。

 それは、明らかに自然的な要因で起こったことではなく、「人間」の手によって起こされたことだった。

 戸締まりはした。窓も閉めた。なんで?どうして?誰が?なんの目的で?疑問符だらけの頭の中で、どうにか自分を落ち着けて、まずは修理を試みた。が‥‥

「だめだ。」

それもそのはず。ヤママユガの体の一部が、なくなっていたのだ。これでは修理のしようがない。

 僕は絶望した。これは夢だと思いたかった。理不尽な境遇に泣き叫びたかった。が、現実はそうもいかない。僕は先生の息子だ。お父様の顔に泥を塗るわけにはいかない。たかだか蝶ごとき、水に流してしまえるような、そんな冷静さを、お父様は僕に求めていた。お父様は常日頃から言っていた。

「感情に任せて人を責めてはならない。」

そんなお父様が、僕に共感してくれるわけがない。

 絶望の次にやってきたのは、苛立ちだった。僕の大切な蝶を、僕の宝石を、奪い取った人間が、この世のどこかでのうのうと生きているのだ。許せない。絶対に許さない。


 真っ黒に染まった脳内で思考の無限ループを続けていたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。こんな時間に非常識な。

 イライラしながらドアを開けてみると、そこに立っていたのは、意外な人物だった。

 中庭の向こうに住んでいる、小さな家の少年だ。


 彼は一度、僕に蝶の作品を見せてくれた。それは、展翅のしかたも適当で、体の一部が欠けており、とてもじゃないが作品とは名ばかりのものだった。それでも彼の標本からは、どこか蝶への愛情を感じた。僕は、彼にできる限りの手ほどきをした。展翅のしかたにどうやら問題があるらしく、そこを直せば素晴らしい作品が生まれそうだった。だからだろうか。僕は指導に熱が入りすぎて、我に帰ったときには、彼はひどく傷ついた表情をしていた。それ以来、彼が僕の家に来ることはなかった。

 そんな彼がいま、僕の家の前に立っている。要件も目的も皆目見当がつかなかったが、僕は彼を部屋に上げた。それから、心ゆくまでヤママユガの話をした。蝶をこよなく愛する彼なら分かってくれるはずだ。この暴挙を。この理不尽な所業を。

 しかし、帰ってきたのは、思いもよらぬ言葉だった。


 


 「それは僕がやったのだ」




理解するまでには相当な時間を要した。彼は自分がヤママユガを欲していたこと、それを独占したい欲望に勝てなかったことを、詳細に説明してくれた。

でも、そんなことはどうでもよかった。僕にとってヤママユガはこの世に2つとない宝石で、彼はそれを僕の前から奪い去って破壊した盗人だ。

 僕は今すぐにこの盗人を激したり、怒鳴りつけたりしたかった。でも、そんなことをしたらお父様の顔に泥を塗ってしまう。

 僕は心を落ち着けて―――――

 

 「ちぇっ。」


 思わず舌打ちが出てしまった。お父様の息子としての威厳を保たなければなのに。

 ふと、盗人の顔が眼に入った。その顔は蝶を壊してしまったことの後悔と、僕に何かされるのではないかという恐怖に歪んでいた。

 

 頭の中で、何かが切れる音がした。もう、どうでもいいや。お父様の面目も。クラスでの評判も。こいつは盗人で、僕は盗人に宝石を奪われた被害者。ただそれだけで、何者でもない。

 

 「そうか」

 刹那、盗人の顔に光が灯った。許されるのではないか、という期待がかすかに頭を擡げたのだろう。

 

ふざけるな


「そうか。つまり君はそんなやつなんだな。」


 そこからの記憶は曖昧だ。彼は、絶望しきった表情で、「おもちゃをみんなやる」「ちょうの収集を全部やる」とか言っていた気がする。ふざけるな。僕の愛した宝石は、他の何に代えることもできないんだ。僕は彼に、その提案を拒否する旨だけ伝えた。 

 

 盗人は、なにも言わずに立ち去った。

 

 僕のもとにはもはや、蝶も感情も、何も残っていなかった。ただ、中庭の向こうの小さな家から聞こえてくる、何かを押しつぶす音をぼんやりと聞いていた。

  

悲しいほどに月が明るい、そんな夜だった。

 

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