5(結末)
何か早急に対策をねる必要があった。容赦も情けもなく、今すぐに。もう時間なんて残されてない。
冷蔵庫に首が現れてから、二週間まであと一日だった。
つまり今日中に解決策を考えだして、それを最低でも明日には実行しなくちゃいけない。
もしも、それに失敗したら――
失敗したら――どうなるんだろう?
「――死んじゃうんじゃないかな?」
花村さんの言葉が、頭の中に浮かんでくる。本当のことしか言わない、どこかの気の利かない鏡みたいに。
でもとにかく、何かが起きるのは間違いなかった。何が起きるのかは、幽霊の気分次第かもしれない。もちろん、幽霊の気分なんてわかるわけない。生きてる人間の気分だって、よくわからないのに。
――落ち着いて、よく考えよう。
幽霊は、首を切られてる。たぶん、誰かに殺されたからだ。だとしたら、幽霊は犯人を探しているのかもしれない。少なくとも、その恨みとか無念とかは、自分を殺した犯人に向けられるのが自然だと思う。
でも、犯人はどこにいるんだろう?
ぼくは警察でもなければ、探偵でもない。虫眼鏡を持って、鳥打ち帽をかぶって、ついでに煙草のパイプをくわえたって、犯人を見つけることなんてできっこない。幽霊の前に犯人を連れてきて、「あなたの探しているのはこの人ですか?」なんてできるはずがない。
もう一つの疑問は、どうしてうちに幽霊が出るのか、ということ。
どう考えても、それは変なことだった。殺人事件とも、幽霊とも、うちは絶対に関係がない。あるはずなんてない。もしも何か関係があるとすれば、それは思いもよらない、全然違ったつながりのはずだった。
ぼくはどっちの疑問も、解けそうにない。
だから、ぼくは名探偵のアイデアに従って、お父さんに向かってそれとなく「引っ越し」を提案してみた。もうほかに、いい方法なんて思いつかない。冷蔵庫も生首も、ここに置いてどこかに行ってしまえば、幽霊があとを追っかけてくることだってないはずだ。
でももちろん、ぼくの訴えはあっさりと却下された。
生首のこと、幽霊のことを話しても、お父さんは笑ってとりあおうとしない。神様に嫌われて、いくら本当のことを言ったって相手にされない、どこかの女占い師みたいに。
「歩は想像力が豊かだな。小説家にでもなったらどうだ?」
そんなことまで言われる始末だった。
このままだと、ぼくは死ぬ。ぼくたちは殺される。幽霊は自分の生首を見つけてしまう。
ぼくは、ぼくは――
※
――ぼくは開いた冷蔵庫から、踏み台を使ってお茶のガラス瓶を手にとった。それをお盆に置いたグラスに注いで、テーブルのところまで持っていく。
そこには、室川さんがいた。
室川清司さん。同じマンションに住んでいる、ごみの片づけをする几帳面な三十歳くらいの男の人。よく山に行って、がっしりした体をしている。ちょっと、親切すぎるくらいの人。
今、ぼくの家には、ぼくと室川さんの二人だけがいた。家族は出かけている。ぼくは仮病を使って、一人だけ家に残った。
最初に室川さんの自宅まで行ってうちに招待したとき、当然だけど室川さんはそれを断った。ぼくと室川さんは、そんなに親しいわけじゃない。いきなりそんなことしたって、怪しまれるだけだ。
だから、ぼくはこう言った。
「女の人を殺したとき、頭を殴ったんですか?」
室川さんは玄関先で、しばらく考えていた。でも結局、いつもみたいににこやかに笑ってぼくの招待を受ける。冗談につきあってやるか、という感じで。
「…………」
ぼくがテーブルにお盆を置くと、室川さんはそのはしっこのほうにあるグラスを手にとった。子供のままごとにつきあうみたいな感じで、室川さんは礼を言う。ぼくはまず、わざわざ来てくれたことに感謝を示した。
「それじゃあ、話を聞こうか」
と、室川さんは笑顔で言った。
「何のですか?」
向かいの席に座って、ぼくは首を傾げる。
「とぼけるのはよしてくれ」
室川さんは、まだ笑っていた。
「さっきのことだよ。僕が誰かを殺したとかって。あれは、何かの冗談なのかい?」
「室川さんが言ったんですよ」
「――ん?」
「困ったことがあれば、相談してくれって」
室川さんの笑顔は、変な形に歪んだ。たぶん、四次元的に。表面的には、それは同じだったけど。
表面的には同じ笑顔で、室川さんは言う。
「もしもこれがくだらないいたずらか何かなら、ご両親に相談しないといけないな」
そう言われて、ぼくは一呼吸置いた。ここからは冷静に、慎重にやっていかなくちゃならない。
「――信じてもらえないかもしれないけど、ぼくには幽霊が見えるんです」
と、ぼくはまずそこから話をはじめた。
四年生の時に見た、影人間のこと。それに殺された友達のこと。そこから導かれる、いくつかの仮説。恨みや無念、呪い。
「で、君は一体何が言いたいんだい?」
室川さんは顔をしかめてみせた。やれやれ、時間の無駄だった、という感じで。
「仮に、君の妄想と君の友達の死に関係があったとしても、それと僕には何の関係もない……違うかな?」
「ぼくの家の冷蔵庫には、生首があります」
「…………」
ぼくはただ時間をはかるみたいに、淡々と続けた。
「それは、ぼくにしか見えません。つまり、幽霊です。ずっと怖くて見れなかったけど、ちゃんと調べてみました。そしたら、頭の一部が大きくへこんでるのに気づきました」
「つまり、殴られたわけだ」
「ええ――」
室川さんは、「はっ」と相手をばかにするように息を吐く。
「面白いな。じゃあ仮に、僕がその幽霊だか君の妄想だかの生首と関係があるとしよう。だとしたら、何でその生首は僕のところじゃなくて、無関係な君の家になんて出てくるのかな?」
「勘違いしたんですよ」
ぼくはいつか花村さんに言われた、わりと衝撃的な発言を口にした。
「何だって?」
「生きてる人間だって勘違いするんだから、死んだ人間だって勘違いしたっておかしくありません」
室川さんは「お話にならない」と言いたげな、相手を憐れむ目つきをした。
「じゃ、これまた仮に幽霊が勘違いしたとして、何を勘違いしたっていうのかな?」
「犬と猫は、人間に似てるからペットとしてよく飼われてる――と思いますか」
「――ん?」
「それで、犬はヒトについて、猫はイエにつくんだそうです。人か、場所か、関係性の強弱に違いがある」
「何が言いたいんだ、君は?」
室川さんはつきあいきれない、というふうに首を振って肩をすくめた。
だから、ぼくは説明した。
「つまり、勘違いです――幽霊は室川さんに憑いてここまでやって来たけど、場所は間違えてぼくの家に憑いてしまった」
「はっはっは」
と、室川さんは突然笑いだした。でも、目だけはぼくを見たまま笑っていない。
「君は想像力が豊からしいけど、話の作りはいまいちみたいだね。幽霊も含めて全部が君の妄想の産物だとしか言えないし、実質的には僕とその幽霊だかを結びつける接点がない。君が言ってるのは、全部いいがかりにすぎないよ」
「一年」
「うん?」
「この前ぼくは、影人間に殺された友達の幽霊を見ました。正確には、見た気がするだけなんですけど――。ここで仮に、死んだ人間が幽霊になるまで、一年かかるとします。友達が死んだのは四年生の時で、だからちょうど一年です」
室川さんは変てこな機械でも見るみたいな目で、ぼくのことを見た。ぼくは気にせず、ゆっくり話を続ける。
「そうすると、生首が幽霊になるまで、一年がかかったことになります。一年――それって、ちょうど室川さんがこのマンションに越してきたのと同じくらいですよね?」
今度は、室川さんは何も言わなかった。ぼくはお盆の上を見て、ちょっとあたりを見まわして、それから言った。
「こうなると、一応筋は通ってると思いませんか? どうして、ぼくの家に幽霊が現れたのか、どうして、今頃になって現れたのか」
「…………」
「ここからは本当にぼくの想像になるけど、こういうことなんじゃないかな、と思ってます。室川さんは、女の人を殺した。それで首を切り離して、大きくて厄介な体のほうはどこかに捨ててしまった。頭がないと、発見されても身元の特定が難しいからです。それで首のほうはしばらく冷蔵庫に保管して、どうするか考えた。結局、引っ越してしまうことにした。よくわからないけど、そのほうが近所の人に怪しまれずにすんだからだと思います。殺した女の人といっしょに、自分も行方をくらましてしまえば、誰かに捕まる可能性が低くなる」
「全部、君の妄想だよ」
「だとしても、ちょっと調べてもらえれば、いろんなことがわかるはずです。たぶん、室川さんが前に住んでたのは、ぼくのこの家と同じ号室ですよね? そこには、似たような冷蔵庫があったのかもしれない。それで、幽霊が勘違いした。警察に匿名の投書でもして、その辺のことを捜査してもらえば、殺された女の人についても何かわかるんじゃないですか?」
室川さんは背もたれに体をあずけると、一度深く息をした。
それから急に、ぞっとするような冷たい目を浮かべる。太陽がなくなったあとの宇宙みたいな、どこまでも暗い瞳だった。
「その話、誰かにしたのかい?」
と、室川さんは言った。
ぼくは首を振った。本当に、まだ誰にも話していない。
そんなぼくのことを、室川さんはじっと見つめた。どっちかというと、獲物を狙っているときの肉食動物みたいな目で。
「じゃあ、せっかくだから本当のことを言うと――君の言ってることは全部正しいよ」
「…………」
「幽霊のことは、まあ、知らないが、確かに僕が殺した。ああ、確かに殺したんだ、あの女を」
何故だか、室川さんは愉快そうだった。まるで、自慢でもしてるみたいに。
「同棲してるだけで籍は入れてなかったから、身元がわかってもすぐには僕のことには結びつかないだろうね。そもそもの話、あいつがいなくなったからって、警察に届けでるような人間はいないはずなんだ。家出同然で、勤め先もなくて、友達だっていない。だから今になっても、行方不明者にすらなってない。最初からいなかったも同然の女なんだからな、あいつは」
室川さんは得々と語っている。あまり気は進まなかったけど、ぼくは訊いてみた。
「どうして、殺したりなんてしたんですか?」
「ん、ああ、それか――それはね、あいつがもう嫌だって言ったからだよ。僕の世話になるのはもう嫌だ、って。僕に世話されるだけの価値しかない女のくせに、何とも恩知らずな話さ。住むところから、着る服から、食べるものから、何から何まで僕が決めてやったっていうのに。僕が決めてやらなきゃ、何もできない女のくせに。
それでね、ついかっとなっちゃったんだよ。だって、仕方ないだろ。そんな生意気な口をきかれちゃ、いくら温厚な僕だって黙っちゃいられない。それでケンカになって、とうとう殴っちゃったんだよ、ビール瓶でね。まったく、あれくらいで死ぬなんて迷惑な話だよ。おかげで僕は余計な苦労をしなきゃならない。あいつは死んで、もうそれまでだっていうのにさ」
ぼくは何を言っていいのかわからなかった。室川さんは全部、本気でしゃべっていた。本気で人を殺したことについて何とも思っていなくて、本気でただの迷惑だと思っていた。
「僕はよく山登りに行くからね。ちょっと大きめの荷物を持ってたって、誰も怪しんだりしない。それでおよそ誰にも見つけられないところに、胴体も首も捨ててきたんだ。おかげで今になっても、死体は見つかってないみたいだし、何の事件にもなってない。ま、さすがに幽霊になるのだけはどうしようもなかったけどね」
そう言って、室川さんはまた「はっはっは」と笑った。
「さて――」
と、室川さんはそれから、またぼくのことを見つめた。例の、狙いを定めた肉食動物みたいな目で。
「ここまで話しちゃった以上、君のことを放ってはおけないね。まったく、残念だよ。僕みたいに親切な人間はどこにもいないっていうのに。それにしても、迂闊だなあ。誰にも言ってないっていうのは、本当のことなんだろ? わかるんだよ、僕には。そいつが本当のことを言ってるかどうかなんてことはね。まあ何だかんだ言ったって、君はただの子供だよ。ちょっと幽霊が見えるだけの、ただの子供さ――」
室川さんがそう言って立ちあがるのを、実のところぼくは見ていなかった。ぼくが見ていたのは、室川さんの後ろだけだったから。
「ぼくに必要なのは、時間を稼ぐことだったんだ」
「――?」
「あなたを捕まえたって、首のない幽霊は気にしないかもしれない。やっぱり勘違いしたままで、ぼくの家に憑き続けるかもしれない。それじゃ、意味なんてない。だったら、方法は一つしかない。幽霊にきちんと、あなたに憑いてもらうしかない」
「何を言ってるんだ、君は?」
「もしかしたら、今なら見えるんじゃないですか。あなたの後ろにいる、首のない幽霊が――」
室川さんははっとしたように、背後を振り返った。
――そこには、首のない幽霊が立っていた。
すぐにまた、室川さんは向きなおってテーブルに置かれたお盆の上を見る。生首が乗せられていたせいで、グラスがはしっこのほうによせられていたお盆の上を。
でも、それはもう手遅れだった。
ぼくの目の前ですっと消えてしまった生首は、今はもう首のない幽霊の頭のところにあったから。
室川さんは再び、幽霊のほうを振り返る。
完全な姿を取り戻したそれは、室川さんにも今は見えているみたいだった。思わずあとずさりしようとして、テーブルに足をぶつける。がちゃんと音がして、グラスが倒れる。グラスの中に入っていたお茶が、自由を喜ぶみたいにテーブルの上に広がる。
そのあとに起こったことは、一瞬だった。
幽霊の口元が裂けて、蛇みたいにぱっくりと大きく開かれる。そして悲鳴を上げる暇もなく、室川さんの顔面が食いちぎられる。
あるいは、悲鳴もろとも。
顔の前半分を失った室川さんは、そのままどさっと音を立てて床に倒れた。テーブルに隠れて見えなくなったそれに、幽霊が覆いかぶさる。肉をちぎったり、骨を砕いたりするいろいろな音が――いろいろな音だけが、しばらく続いた。
そうしていつのまにか、何の物音もしなくなる。いろいろな音もいっしょに、幽霊に食べられてしまったみたいに。
「…………」
ぼくは恐るおそる、テーブルの反対側にまわってみた。
そこにはもう、何の痕跡も残っていない。
室川さんも、幽霊も、何も。まるで全部が、ぼくの夢だったみたいに。
それでも――
倒れたグラスと、テーブルから落ちるお茶のしずくは、それが本当のことだったんだと教えていた。
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