2(影人間)

「――で、どうなったの? 例の生首」

 五年生の教室でぼくが自分の席につくと、いきなりそう訊かれた。

 声のほうを見ると、花村はなむらさんがそこに立っている。もちろん、それは確認するまでもないことだったけど。

 花村さんは、全部の名前は花村ちね。ちょっと大きめで四角な眼鏡をかけていて、わかめみたいな――といったら、本人は怒るのだろうけど――癖がかった髪をしている。傍若無人な――といったら、やっぱり本人は怒るのかもしれなかったけど――わりと性格をしている。

 それは例えば、髪のことだったりする。

 昔、彼女はその髪のことで男子たちにからかわれたことがあった。髪が波うってるのが、わかめみたいだとはやしたてられたのだ。

 その時、彼女がした返事はこうだった。

「知らんのか。わかめはミネラル豊富な、健康優良食品じゃわい!」

 以来、男子も含めて誰一人、彼女の髪のことをからかう人間はいなくなった。

「……相変わらずだよ」

 ぼくはランドセルの中身を机の引き出しに移しながら、花村さんならしないような、気のない返事をした。

「相変わらず冷蔵庫の同じ場所にあって、消えてなくなったりはしてない。幸い、増えたりもしてないけど」

「髪が長くなったりとかは?」

 花村さんは投げられたボールをとってきた犬みたいな、嬉々とした感じで訊いてくる。

「人形じゃないんだから、それはないんじゃないかな。というか、怖くてそんなの確認できてないよ」

「臆病者めが」

 ぼくは花村さんに罵られた。

 この手のことに関して、花村さんはぼくなんかよりずっと熱心だった。つまり、幽霊とか、怪奇現象とか、そういう怖い話について。「水を得た魚」みたいに「怪談を得た花村」みたいなことわざが作れそうなくらいに。

 ちなみに、ぼくの家に生首を見にきたけど見えなかった友達というのは、彼女のことだった。そもそも、ほかには誰にも言っていない。そんなことをしたって、普通は気味悪がられるだけだから。

「せっかくなんだから、もっとちゃんと調べないと」

 何が〝せっかく〟なのかはわからなかったけど、花村さんは不満そうに言った。

「無理だよ、人の生首をまともに見ろだなんて。花村さんだって、そんなのは嫌でしょ?」

「わたしなら平気よ」

 その言葉には、わりと説得力があった。

「大体、それが見えてるのは村瀬くんだけなんだから、ほかの誰がやるっていうわけ。だったら、自分でやるしかないでしょ?」

「かもしれないけど……」

「〝カモ〟でも〝ハト〟でもなくて、そうなの!」

 花村さんは容赦なく断定した。

「それにあの〝影人間〟と同じで、今度のことだって何か理由があるはずなのよ」

「――――」

 花村さんの言う〝影人間〟というのは、クラスメートの一人が死ぬ原因になった(と思われる)ものだった。そしてそれと同時に、ぼくと花村さんが知りあうきっかけになったことでもある。



 四年生の時、通学路に〝影人間〟がいた。

 影人間というのは、ぼくが勝手につけた名前だ。実際には人間というより、平べったい板みたいな形をしている。その姿は影みたいに真っ黒で、ちょうど大人の背丈くらいの高さがあった。縁の部分をよく見ると、細かく砕けた黒い塵が、みたいに空中に漂っている。汽水域で、真水と海水が混じるときの様子に似ていた。

 たぶんそいつは、それ以前からいたのだけど、はっきりそういうものとして形が現れたのは、その頃のことだった。画面の一部をゆっくり変化させていっても、なかなか気づかないのと同じで。

 実のところ、ぼくはよくを見た。つまり、幽霊とか、本当は存在しない、ほかの人には見えないものを。

 簡単に言ってしまうと、ぼくには霊感みたいなものがあるらしいのだ。

 いつ頃からそういうものが見えはじめたのか、はっきりしたことはわからない。たぶんずっと小さい頃からそうだったのだけど、それが大抵の人には見えないんだと気づいたのは、わりと最近のことのような気がする。そしてそのことは、あまり人には言わないほうがいいらしい、ということに気づいたのも。

 見えるものは、いろいろだった。黒くて濃い霧みたいな、形のはっきりしないものもあれば、空にくっついた大きな目だったり、どう見ても人の入れない、狭い壁の隙間からのびる手だったりする。

 でもそういうのを目にすることは、滅多になかった。たぶん、猿が木から落っこちるほうが、ずっと多いんじゃないかと思う。あるいは、犬が棒にあたったりとか。

 それに、そういうものとは関わらないようにするのが一番の方法だった。こっちから手を出さずに、気づかないふりさえしていれば、向こうから何かしてくることはない。放っておけば、そのうちどこかへ消えてしまうし、それで怖いことが起こったりもしない。

 で、影人間のこと。

 通学路にそれが現れたとき、ぼくはいつも通りそれを無視することにした。そうしたって、別に不便はないし、実害もない。影人間もずっと同じところに立っているだけだから、ちょっと邪魔な電信柱と思っておけば、たいした問題じゃなかった。

 みんなには影人間のことは見えないはずだったけど、誰も必要以上に近づいたり、不注意に触ったりはしない。その場所は必ず避けて通るし、そばまで行っても直前で道を変えてしまう。

 そしてそれは、全部無意識に行われることみたいだった。訊いてみても、「あれ、そうだっけ?」という顔をされるくらいで、不思議に思うこともない。そもそも、覚えていないみたいなのだ。朝になって目が覚めて、夢のことをみんな忘れてしまうのと同じで。

 でも、康介くんだけは違っていた。

 吉坂康介よしさかこうすけくんは同じクラスの子で、ピノキオみたいな細い体をしている。ちょっとそそっかしいところがあって、あんまり人の話を聞かない。しゃべるときは、自分のことだけを一方的にまくしたてる癖があった。

 それから康介くんにはもう一つ、ろくに左右を確認せずに横断歩道を渡る、という癖があった。大抵は問題なかったし、車のほうで停まってくれるのだけど、それでも見ていて危なっかしいことに変わりはない。

 ――ある日の、学校の帰り。

 ぼくが下校時間に通学路を歩いていると、康介くんとその友達が何人かでやって来た。みんなふざけあいながら、走っている。ぼくはちょっと道をよけて、全員を素通りさせることにした。

 少し先には、信号のない横断歩道がある。友達がみんな一度立ちどまる中で、康介くんだけはカメに追いぬかれたウサギみたいに、そのまま走り続けていた。

 そこがいつも影人間のいる場所だと気づいたのと、甲高いブレーキ音が響いたのは、たぶん同時くらいだったと思う。

 見ると、ちょうど道の真ん中あたりで、康介くんと車が向かいあっている状態だった。

 運悪くかちあったけど、運良く轢かれることはなかったみたいだ。運転手の人が窓を開けて何か言おうとする前に、康介くんはそのまま走っていってしまう。まるで、おもちゃの積み木をちょっと崩しちゃっただけみたいに、何事もなく。

 それから少しだけ間があって、ストップウォッチのボタンを押しなおしたみたいに、世界はまた動きはじめた。車はエンジン音を響かせて走り去り、残った友達も康介くんのあとを追う。

 ぼくも歩きはじめようと一歩踏みだして、でもふとあることに気づく。

 ――影人間がいない。

 いつも横断歩道の、その場所にいるはずの影人間が、どこにもいなかった。念のためにあたりを見渡したり、目を凝らしたりしてみるけど、それは変わらない。そもそも、間違い探しみたいにわざわざ見つけなきゃならないようなものじゃないのだ。

 ぼくはちょっと不思議に思ったけど、とりあえずは放っておくことにした。そういうものは急に現れたり消えたりするものだし、あんまり気にしても仕方がない。今回だって、きっとそれと同じことだ。

 康介くんが死んだのは、その二週間後のことだった。

 原因は、車に轢かれたこと。深夜、交通量の多い国道ではねられた康介くんは、そのまま朝になるまで誰にも気づかれることなく車の下敷きになり続けた。明るくなって発見されたその時には、潰れたカエルみたいにになっていたそうだ。

 そのことを聞いてぼくが真っ先に考えたのは、もちろん影人間のことだった。もしかしたら、あれが関係してるのかもしれない。だって、あまりにタイミングがよすぎるから。

 それに康介くんの死にかただって、あまりに不自然だ。そんな真夜中に、どうしてそんな場所に行ったんだろう。現場は康介くんの家からはだいぶ離れてるし、そんなところに行く理由なんてなかったはずだ。しかも発見当時、康介くんはパジャマ姿だったという。

 ぼくはあれこれ考えたし、いろいろ想像もしてみたけど、本当のことはわからなかった。康介くんはあの影人間に殺されたのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。



「――吉坂くんが死んじゃったのは、禁忌を冒したからでしょ」

 と、花村さんは言った。

 放課後、ぼくたちは通学路を家に帰る途中だった。まわりにはランドセルを担いだ子供たちがいて、大声でしゃべったりはしゃいだりしている。

 少し先には、例の横断歩道があった。影人間が立っていた、信号のない例の横断歩道だ。

 一年前のあの事件(テレビのニュースでも、学校であった先生の説明でも、「事故」という扱いだったけど)のあと、クラスではひとしきりその話題で持ちきりだった。何しろ、毎日教室で顔をあわせていた身近な人間が死んだのだし、その死にかただって相当にショッキングなものだった。そんなのを無視しろだなんていうのは、目の前にネッシーがいるのに気にするな、というのと同じくらい無茶だった。

 感想とか意見とか噂話がやりとりされる中で、この話に特に興味を持っていたクラスメートがいた。それでぼくはうっかり、そのクラスメートにしゃべってしまったのだ。影人間のことについて。どうせ信じるはずなんてない、と思いながら。

 そのクラスメートというのが、花村さんだった。

 ところが花村さんはどういうわけだか、ぼくの話を信じた。ぼく自身が信じられないくらい、あっさりと。

 おまけに信じるだけじゃなくて、花村さんはいろんな仮説を立てて、そのことを検討しはじめた。それこそ、ミイラをとる前にミイラになりそうなくらいの勢いで。

 当然だけど、ぼくはそのことにびっくりした。何しろその時はまだ、花村さんがどういう人間なのかなんて知らなかったから。

 結局、花村さんがその時に出した仮説のいくつかをまとめると、こんなふうになる。


1、ぼくが見たものは何らかの呪いの一種である。

2、康介くんが死んだのは、それにとり憑かれたせいである。

3、呪いにとり憑かれるには条件がある。


 花村仮説によると、影人間は交通事故で死んだ人の怨霊だということだった。怨霊というのは、人の恨みとか無念が死後にも生き続けることになったもの……だそうだ。

 康介くんが影人間にとり憑かれたのは、横断歩道でのことが大きい、と思われる。あれだけ不注意なら、仲間にしやすいと思われたのかもしれない。

「何で、仲間にしようなんて思ったのかな?」

 ぼくは念のために訊いてみた。

「きっと、自分たちを増やすためね」

 花村さんはまじめな顔で言った。へそを使ってお茶を沸かせそうなくらいまじめだった。

「人間は子供を産んで自分たちを増やそうとする。怨霊は人を殺して自分たちを増やそうとする。元は人間なんだから、同じ目的で行動したっておかしくないでしょ? やってることは違うけど、やろうとしてることは同じ」

 筋が通ってるのか、それとも一ミリも通ってないのか、よくわからない理屈だった。

 花村さんによれば、呪いはもちろん相手を殺すのだけを目的にすることだってある、ということだった。とにかく無念を晴らしたい。復讐を果たしたい――。人の恨みというのは、怖いのだ。それは生きていたって、死んでいたって。

「村瀬くんの家の冷蔵庫に首が現れたのも、何か理由があるはずなのよ」

 歩きながら、花村さんはしきりに首をひねっていた。虫眼鏡を手に持ったら、似あうかもしれない。

 そのことについては、ぼくもいろいろ考えていた。でももちろん、そんな心あたりなんてない。大体、人の生首に関わりのある人間なんてそんなにいるはずないのだ。ぼくにしても、ぼくの家族にしても。ぼくのうちはごく普通のサラリーマン家庭であって、パンの代わりにケーキを食べたりもしてない。

「でも、何かあるはずでしょ」

 と、花村さんはあくまで食いさがった。

「例えば、どんな?」

 ぼく自身にはさっぱりなので、そう訊いてみるしかない。

「そうね――例えば、手品師が切断マジックで失敗しちゃった人の生首、とか?」

 いろいろ言いたいことはあるけど、とりあえずそんなピンポイントの手品師の、というかどんな種類の手品師の知りあいも、ぼくの家族にはいない。もちろん、ぼくにも。

「できれば、もうちょっと参考になりそうな意見が欲しいんだけど」

 ぼくは控えめに食いさがってみた。

「例えば、どんな?」

 この質問を例のなぞなぞ好きの怪物に教えてやったら、喜ぶかもしれない。

 それから、花村さんは指折り数えるようにして言った。

「呪いに憑かれてから、何かが起きるまでは二週間でしょ――」

 これも仮説の一つだったけど、呪いとそれが実際に影響するまでには〝タイムラグ〟があるらしいのだ。それは康介くんが影人間に憑かれて死ぬまでの、二週間という時間を参考にしていた。たぶんそれが、呪われてからその結果が出るまでの、限度時間なのだ。

「――村瀬くんが首のことに気づいたのが一週間前だから、あと一週間あるわけだ。首が現れたのが、その時からだとしてだけど」

 ここで、あと一週間しかない、と考えるのが悲観的な人で、まだ一週間ある、と考えるのが楽観的な人だそうだ。でも正直なところ、そんなのはどっちでも同じことだった。それで一週間が長くなるわけでも、短くなるわけでもないんだから。

「……一週間したら、どうなるのかな?」

 ぼくは訊いてみた。どっちかというと、難しかったテストの点数を確認するときみたいに。

「――死んじゃうんじゃないかな?」

 あんまり死んじゃうとは思えない口調で、花村さんは言った。

 でも実際、そのことは問題だった。ぼくの家(冷蔵庫?)が何らかの理由で呪われているのは確かみたいだった。そしてあと一週間たったときに何が起きるのかは、誰にもわからないことなのだ。

 あるいは、花村さんの言うとおり、ぼくのうちの誰か、ぼくかぼくの家族の誰かが死ぬことになるのかもしれない。

 ――もしかしたら、全員かも。

 そう考えて、ぼくは全身に鳥肌が立ってしまった。どうなるか本当のところはわからないにしろ、すごくまずいことが起きそうなのは確かだ。問題は、それがどのくらいまずいのか、ということだった。

「ねえ、何か――」

 いい方法はないかな、と訊こうとしたところで、

「ひっ」

 と、ぼくは思わず悲鳴をあげて立ちどまってしまっていた。

「――? どうかした?」

 花村さんが、ぼくの視線の先を探りながら、不思議そうに訊いてくる。

 でもぼくは、そのましばらく動けなかった。あまりのことに、頭が真っ白になって何も受けつけなくなっている。電球のヒューズが飛んで、ただのガラス球になってしまったみたいに。

 ぼくは自分が呼吸しているのか、心臓が動いているのかも、しばらくわからなかった。

「今の――」

 と、やがてぼくは、何とかして口を開く。

「――見た?」

「は?」

 花村さんはあからさまに顔をしかめてみせた。そこには、婉曲表現の「え」の字も含まれていない。

 でももちろん、それは当たり前だった。

 あんなもの、見えるはずがない。あんなもの、普通に歩いているはずがない。何しろ――

「ねえ、何を見たって?」

 花村さんが不満そうに訊いてくるのに、ぼくは返事をした。

「――今、そこをが歩いてたんだ」

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