生首に消費期限はありますか?
安路 海途
1(生首と冷蔵庫)
ぼくは冷蔵庫が怖い。
――何かの比喩とかじゃないし、落語の「まんじゅう怖い」みたいな話でもない。
本当に、冷蔵庫が怖いのだ。できるなら家の中からどこかにやってしまいたいくらい。冗談でも、何でもなく。
「
だからそんなふうに頼まれたとき、ぼくは内心ではすごくびくびくしているし、できるなら断ってしまいたい。でもあんまりはっきりと、そんな態度をとるわけにもいかない。
仕方なく、ぼくはおっかなびっくりで冷蔵庫のほうに向かう。心臓が嫌な感じでどきどきするし、そのせいでぼくの寿命は何分かくらいは縮んでいるはずだった。ゾウだってネズミだって、一生のあいだに心臓が動く回数にはかぎりがあるのだ。
うちの冷蔵庫には、特に変わったところはない。両開きになっていて、茶色っぽくて、四人家族だからそれなりの大きさがある。でも、スピーカーから音楽が流れたり、ロボットに変形したりするわけじゃない。
それでも、ぼくにとってその冷蔵庫は、恐怖の対象でしかなかった。
ぼくは何とか覚悟を決めて、一秒くらい待ってから冷蔵庫の扉を開ける。これ以上、寿命を縮めるわけにもいかない。
できるだけ目を向けないようにするのだけど、やっぱり無理だった。相手がワニでもツルでも、見ちゃいけないと言われたものほど、見てしまうものだから。
――冷蔵庫の中には、生首が収まっていた。
ぼくの頭の上、少し見上げるくらいのところ。奥まったスペースに、それは転がっている。下から三段目の、漬け物だとか味噌だとか、タッパーに入った作り置きだとかの向こう側に、ぴったりとはまりこんで。
冷蔵庫に入っているせいなのか、その顔はすっかり青白くなって、まるで生気なんてない(首だけなんだから、当たり前だけど)。長くて黒い髪が、牛乳でもこぼしたときみたいにべったり広がっていて、奥の隙間から下の段にまで流れていた。せめて目をつむっててくれればよかったのだけど、その瞳は両方ともばっちり見開いていて、あらぬ方向を見つめている。
それはたぶん女の人で、ぼくにわかるのはそれくらいだった。そんなに年はとってないように見えるけど、具体的に何歳くらいなのかとかはわからない。そもそも、怖すぎてまともになんて見れないのだ。頭のてっぺんがこっち側を向いているので、首のところがどうなってるのかもはっきりしない。
ぼくは注射針から目をそらすときみたいに、無理やり首を動かしてそれを見ないようにした。そうするのはとても力がいるけど、ほかにどうしようもない。
ガラス瓶に入ったお茶を手にとって、ぼくは冷蔵庫の扉を閉める。本当は力いっぱい、音を立てるくらいに閉めたいのだけど、そんなことをしたって変な目で見られるだけだ。
テーブルのお父さんのところにガラス瓶を持っていくと、ぼくはすみやかにその場をあとにした。下手にその場所にいつづけると、お茶を冷蔵庫に戻すよう頼まれるかもしれない。でも、何度も怖い目にあいたくないし、ぼくの寿命にだってかぎりがある。
ぼくはいかにも用事があるみたいな顔で、自分の部屋まで戻った。そうやってドアを閉めたところで、ようやくほっと胸をなでおろす。少なくともここには、生首が落ちてたりなんてしない。
机の前に座って、ぼくは一度だけ大きく、ゆっくり息を吐いた。そんなことしたって、机の上にある消しゴムも、鉛筆削りも、学校の時間割りも、ぼくのことを心配したりなんてしなかったけれど。
あの生首が見えているのは、ぼくだけだった。
家族のみんなにも、友達にも、冷蔵庫の中にあるあの生首は見えていない。そこにはただ空白のスペースがあるだけで、不自然なところなんてどこにもない。そのくせ、どうしてそんな空白があるのかは誰にもわからないみたいだった。
もう一度だけ、ぼくは大きく、ゆっくり息を吐いた。
日記で確認するまでもなく、冷蔵庫の中にあの生首が現れてから、ちょうど一週間が過ぎようとしていた。
ちょっとくらいの台風や、雪や、地震くらいで学校が休みになったりしないみたいに、冷蔵庫に生首があるくらいで学校が休みになったりなんてしない。
だからぼくは、今日も学校に行くことになる。
マンションの五階から、エレベーターに乗って一階におりる。エレベーターは無表情な執事みたいに澄ました顔でドアを開けて、同じペースで下のほうまで落ちていった。
狭いエレベーターに一人で乗っていると、嫌でもいろんなことを想像しなくちゃならなかった。もしかしたら天井とかすぐ後ろにあの生首があって、ぼくを見つめているかもしれない――と思うと、怖くて顔も動かせなかった。ぼくは一つだけ光っているボタンに意識を集中して、できるだけ何も考えていないふりをする。
一階に到着してドアが開くと、ぼくはエレベーターと同じくらい澄ました顔で、急いで外に出た。ぼくの想像力がくっついてこないように、注意して。
後ろでドアが閉まっていくのを確認してから、ぼくはほっとして胸に手をあてた。とりあえず、怖いことは何も起きていない。
ぼくはちょっと呼吸を整えてから、エントランスを抜けてマンションの外に出た。世界はいつも通りの顔をしていて、いつも通りの時間が流れていた。空が赤紫一色になっていたり、時計が溶けてふにゃふにゃになっていたりもしない。朝の空気はまだ少し冷たかったけど、もう夏の頭だってのぞきはじめている。
「おや、
ぼくがそんなふうに世界に体をなじませていると、不意に声をかけられていた。
見ると、そこには同じマンションに住んでいる室川さんがいた。
室川さんは三十代くらいの、独身の男の人だった。大男というほどじゃないけど、がっしりした、中身のつまった感じの体つきをしている。短い髪に短い髭をはやして、いつも爽やかではきはきしていた。よく山に行くそうだから、そのせいかもしれない。
一年くらい前に越してきた室川さんは、親切で人あたりのいい人だった。困っている人がいればすぐに手を貸すし、何か厄介事があれば進んで解決しようとする。
マンションや近所の人にはだれかれとなく挨拶するので、ぼくも何度か話したことがあった。そんなに親しくはないけど、名前くらいはちゃんと覚えている。どちらかというと、北風への対抗意識が強すぎる太陽みたいなところはあったけど、基本的には明るくていい人だった。
その室川さんは今、マンションの前庭部分にあるごみ置き場のところに立っていた。普段着みたいな格好をしているから、まだ仕事に行く前なんだと思う。
「おはようございます。……何してるんですか?」
と、ぼくは訊いてみた。
室川さんはごみ置き場にあるネットを直してるところだった。様子からすると、別にごみを捨てにきたわけじゃなさそうである。
「いや、なに――」
と室川さんはにこやかに苦笑してみせる。
「みんな、ごみにきちんとネットをかぶせないからね。時々、こうやって様子を見にくるんだ」
マンションのごみ置き場は壁で仕切られただけの空間で、カラス避けに上からネットをかぶせるようになっている。一応、レンガのおもしで端を押さえるようになっているのだけど、面倒がって適当にうっちゃっておく人も多い。
どうやら室川さんは、それをわざわざ直しに来てるみたいだった。
「カラスにごみをばらまかれても困るしね。そうなったらマンションの景観だって悪くなるし、みんなの気分だって害される」
ごく当たり前のことみたいに、室川さんは言った。だからといって、室川さんがそういう当番だとか、誰かに頼まれてやってるなんてことはない。
全部、自分から思いついてわざわざやっていることだった。とにかく、親切な人なのだ。
「――大変ですね」
ぼくは言葉に迷ってから、とりあえずそう言っておいた。ややこしいパズルと同じで、それであってるかどうかはわからなかったけど。
「たいしたことじゃないさ、当然のことをやってるだけだよ。そういうのを見逃せない性分でね」
と、室川さんは朗らかに答える。
「君も、何か困ったことがあれば僕に言ってくれ。いつでも相談に乗るよ」
けどそう言われても、ぼくは曖昧に笑っておくしかなかった。相談なんてしようもないことは、はっきりしていたから。
もちろん、冷蔵庫の中に生首があるのだって「困ったこと」には違いないのだろうけど。
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