六 (2)
茶の時間のあと、レイモンドと私は身支度をして、下ばき一つの姿になった。上半身のみの構図の撮影で、アーネストの演出に従い、レイモンドが私を後ろから抱きしめて頬を寄せる。慣れない相手との絡みが、私にカメラを必要以上に意識させ、知らず知らず息が上がった。レイモンドは慣れているのか、落ち着き払っている。
「惇也、レイは君を食べやしないよ」
アーネストがカメラの後ろから冗談めかして言った。
「頼むから、少し力を抜いて。プールで泳いだ後に、友達とふざけあっているつもりにでもなれないかな」
「これでも努力してるんだよ」
集中しようと深く息を吸い、吐いた。レイモンドが腕を緩めて言った。
「一言、いいかな。いったん目を閉じて、視覚以外の感覚に注意を向けるんだ。そうすると緊張が解ける」
言われた通り目を閉じる。私を抱く腕に再び、ゆっくりと力がこもった。白檀に似た香りが彼からは匂った。室内の空気が変わってゆき、私の想像力の中で、和室はどこか遠い昔の、東洋の寝室に変貌した。……ほのかな明かりのもとで、絹地を張った調度品が紅と金にきらめき、陶器の壺には香が焚かれている。私は高貴な男性の愛人で、彼はその地位ゆえに、私の存在を公にはできないのだった。……
レイモンドの肌の感触は、いつしか心地よく、安心できるものになっていた。これこそが私の探し求めていた、心から落ち着ける場所であるかのように。私は想像の設定と一体となり、愛しい相手の腕に身をゆだねた。
撮影はよどみなく進み始めた。
前半の構図を撮り終え、次の撮影をアーネストが準備する間、レイモンドと私は休憩を取った。それぞれの身に毛布を巻きつけて座り、ガラス戸の内側から暮れる庭を眺めた。ランプの
レイモンドが尋ねた。
「惇也も俳優?」
「大学の劇団で、舞台に立っていたことはあるよ。卒業後は離れてしまったけれど」
「それは残念だ。いい役者だっただろうね。今は、モデルで生計を立てているのかい」
「いや、大学生に英語を教えてる」
普段通りの答えを口にして、すぐ後悔した。この家でアーネストと私がしていることと、私の本当の身元とが結びつくような話をするべきではなかったのだ。
幸い、レイモンドは私の勤務先など、詳しいことは訊かなかった。代わりに、
「それは、俳優の経験が活かせる仕事の一つかもしれないね。教師というのは一人芝居のようなものだ。金を払ってパフォーマンスを見てくれる人がいるんだから」
と言った。
「教えることがパフォーマンスだなんて、これまで思ってもみなかったよ」
「間違いなくそうだよ。ともあれ、『この世は一つの舞台、男も女もただの役者』――。聞いたことがあるかい」
「ある。シェイクスピアだね」
私は答えた。彼は歯を見せて笑った。最初の冷たい印象と比べ、意外なほど飾り気のない笑顔だった。
撮影準備が進み、あの打掛が和室に広げられていた。夜の訪れとともに、金の装飾や純白の鶴の刺繍が、畳に据えた照明のもとで密やかに輝き始めた。アーネストは私に横になるよう伝え、次いでレイモンドが私を覆うように乗ってきた。明るくむらのない、象牙色といっていい彼の肌が、浅い赤みを含んだ私の肌に重なった。アーネストが私たちの下半身に打掛を被せた。
カメラの後ろに戻って、アーネストはつぶやいた。
「君らは絵になるな。嫉妬を感じるくらいだ」
だが、それは言葉だけのことで、彼はすぐに生命のないオブジェを撮るのと同じ目つきになった。シャッターを切っては戻ってきて打掛の形を直し、レイモンドと私のポーズに調整を加える。レイモンドには口頭で指示する一方、アーネストはみずから私の身体に触れて、手の位置や顔の方向を直した。
レイモンドの匂いと重みとを裸の身に受け止め、アーネストが私をもの言わぬ被写体として扱うのに任せているうち、あの〈女〉が、水底で静かに羽ばたき始めた。私は絹と刺繍糸の層の下で震えた。レイモンドは撮影者の指示通りの表情しか見せていないが、彼の欲情の
これは演技だ、と自分に言い聞かせた。レイモンドの身体も私の身体も、ただこの状況の刺激に反応しているだけだ。耳元に感じる彼の息、胸に置かれたひんやりとした手の感触からも、そこにあるという以上のことを受け取るまいと内心で歯を食いしばった。
そのように耐えたことで、かえってアーネストの求める〈女〉が私から滲み出したのか。
オーケーが出て、レイモンドと私が身体を離した時、アーネストは満足そうだった。
「今日の撮影からは素晴らしい成果が出ると思う。二人とも、ありがとう」
元通りに服を着たレイモンドに約束の謝礼金を支払い、アーネストは言った。
「君と惇也との組み合わせは、予想以上に良かったよ。また頼んだら来てくれるかい」
「はい。都合がつけば、いつでも」
レイモンドは謝礼の封筒を上着の内へ入れた。
「ところで、ぼくの方からも質問があるんです。いいですか」
「もちろん。何でもどうぞ」
私は畳に座って二人が話すのを眺めていた。レイモンドは私に視線を投げてから、アーネストに向き直って訊いた。
「惇也は、どこの
「彼はエージェンシーには属してない。どうして訊くんだい」
「惇也は、演劇の経験があると聞きました。今、どこにも所属していないのなら、ぼくの知人に彼をつなぎたい。日本での仕事を手配してくれる人です。惇也はきっと気に入られると思います。むろん、惇也の希望が第一ですが――」
「それは、ぼくが許さない」
アーネストは言った。
「惇也はぼくの恋人で、プライベートにモデルを頼んでいる。プロの芸能活動をしているわけじゃない」
「そうですか」
驚いたふうもなく、レイモンドは言った。
「残念です。惇也には才能があります。撮影が終わっても、手放したくなかったくらいですよ。写真の設定が現実なら、ともに一夜を明かしたでしょうね」
私はたじろいだ。レイモンドはスーツと色を合わせたソフト帽を指先で傾け、私にさよならと言うと出ていった。
アーネストは家の玄関まで彼を見送り、戻ってきて頭を振った。
「変わり者だな、あれは」
私が黙って答えないのを見て、彼は肩に腕を回してきた。
「気にするな。君の演技が上手かったから、本当の恋人のように錯覚したんだろう。君が進歩している証拠だよ」
うなずきながらも、私はアーネストが言うように、レイモンドの言葉を単純な称賛とは受け止められなかった。レイモンドに心の内を読まれたと思った。彼は、〈女〉の蠢きに気づいたのだ。
それから幾日もの間、私の中には不安が尾を引いて残った。レイモンドの恐ろしいほどの美貌、その切れ長の目から注ぎ、透明なテグスのように私を絡め取ろうとする彼の視線。自分のどこかが、まさにそれをこそ望んでいるのを、私は深いところで感じていた。
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