六 (1)


 君は理想の〈女〉だ、とアーネストは言った。肉体を持った本物の女とは違う、観念としての〈女〉が宿っているというのだった。

「ぼくが求めているのは、柔らかい脂肪のついた、子どもを産む能力のある女じゃない。本質エッセンスとしての〈女〉だよ。君はその男の身体のままで、十二分に〈女〉なんだ」

 アーネストはあの豪華な打掛や、夏が近づくとしゃの薄物を私に着せかけて撮影を続けた。化粧をすることはほとんどなかったが、アーネストがたわむれに和装用の化粧品を手に入れてきたことがあった。私の目尻に舞妓がやるように朱色の線を入れ、小さい筆で唇に紅を差しながら、

「ぼくの可愛い日本人形……」

 といとおしんだ。

 彼の作品の顧客にはそうした半陰陽的な表現を好む者もいれば、あくまでも男らしさを求める者もいた。後者の需要に応え、男物の着物を使って撮影することもあった。アーネストの写真モデルを始めた当初とは違って、私には女性のモデルが男装し、男の表情を作ってみせているかのような感覚が生まれた。アーネストも私をそのような存在として扱った。私が内なる〈女〉の存在に初めて気づき、アーネストがそれを熱狂的に受け入れた夜以来、アーネストのモデルとしての私は、彼の愛人としての私と切れ目なくつながっていた。私は彼の〈女〉だった。彼は私の中に、歌舞伎の女方や、面を着けた能役者が演ずる象徴的な女らしさを見出し、私の方は、彼の美意識と芸術活動に奉仕することに、何ものにも代え難い喜びを覚えていた。

 アーネストの前で、私はまた男でもあった。根津の家を出て、彼と日米の文学や文化について論じ始めると、私の精神はただちに思索と分析の方向へと切り替わった。大学街の喫茶店でコーヒーを傍らに、英語に日本語を交えながら議論する私たちは、切磋琢磨する若い研究者以外には見えなかっただろう。

 しかし、学者として以前より成長したとはいえ、私は彼との落差に相変わらず悩まされていた。日本社会はすでにエドワード・G・サイデンステッカー、ドナルド・キーンといったアメリカ出身の優れた日本文学者を知っていた。アーネストは来日して間もないうちから彼らの系譜に位置づけられ、日本の学術誌だけでなく、総合雑誌にも論考が掲載されるようになっていた。任期付きとはいえ、日本を代表する大学の講師に就任していたためもあるだろう。それに加え、彼は同僚や学会で知り合った人たちを介して新しい人脈を作るのが上手く、日本での自分の評価を着実に高めていった。日本人の専門家の多くが、アーネストと知り合うと彼を気に入り、著作発表の機会を持ってくるのだった。

 私は非常勤講師を掛け持ちしながら、論文執筆と就職活動に勤しんだ。アーネストといて恥ずかしくない文学者になろうという決意が、私の努力を支えていた。



 アーネストの写真モデルを務めるようになって、一年が経った頃のことだった。彼が、モデルを二人使った写真を撮りたいから、もう一人連れて来てもいいかと言い出した。依頼先の目星は付いているという。

「君の写真はすごく好評なんだけど、人物が二人になれば物語性が生まれて、より見る人の想像力を喚起すると言われたんだ。君が認めてくれれば、新しいモデルを頼もうと思うんだけど、どうだろう」

 私は躊躇した。

「その人から、ぼくらのことが外にばれたりしないのかい。ぼくは、あなたの作品が閉じたサークルの中でしか共有されないというから、安心できているんだけど」

「大丈夫だ。新しい人は芸術愛好グループ内部の紹介だし、日本人でもないから、君の周囲の人に知られることはまずないよ」

「どこの人」

「香港だよ。俳優の卵だそうだ」

 新しいモデルを加えて、初めて撮影をする予定の日にアーネスト宅を訪れると、相手はすでに来ていた。玄関で出迎えたアーネストは、いつもの和室に私を通した。部屋の中央に木の座卓が据えてあり、その傍らで、薄茶色のスーツに身を包んだ男が半ば庭に顔を向けて正座していた。私たちの気配で、彼は座布団から立ち上がった。

「レイ、惇也が来たよ。……惇也、こちらがレイモンドだ」

「初めまして」

 レイモンドと呼ばれた青年は英語で言い、右手を差し出した。そのたたずまいに、息を呑んだ。鋭いナイフのような美しさだった。握手を求める動作だけで、揃えた指からは艶めかしさが匂い立った。切れ長の、少し目尻の上がった目をして、弓なりの眉は毛の流れも形もプロらしく整えてある。撫でつけた髪が細面と調和して、モノクロ時代の映画スターを思わせる。シャツにネクタイは締めず、いちばん上のボタンを外してあるのが首の長さを強調している。背が高く、腕も脚も長い。

 握手に応えながら、私は田舎の子どものような顔でレイモンドに見入っていたのだろう。手を放す時、彼が小さく笑ったのに気づいて赤面した。

「アーネスト」

 私は訴えた。

「こんなにハンサムな人と、ぼくとは釣り合わないよ。一緒に写るなんてできない」

「何を言っているんだい。ぼくが大丈夫だと判断したんだから、信じてくれなくちゃ」

アーネストは取り合わず、レイモンドに言った。

「レイ、惇也は照れ屋なんだ。しばらくしたら落ち着く。撮影の前に、緊張をほぐしておきたい。茶を淹れて、今日のスケジュールを一緒に確認するとしよう。二人とも、ここでくつろいでいてください。すぐに戻るから」

 レイモンドはうなずいて元通り腰を下ろしたが、私はアーネストを追って台所へ行った。彼がやかんをガスコンロにかける間に、訊いた。

「どんな写真を撮るつもり?」

「いつもの延長さ。レイには先に説明しておいた」

 彼は顔を傾けて炎の大きさを確認し、コンロの調節ダイヤルを回した。

「ヌード?」

「そう。でも、あの打掛を使うから、すべて見えるわけじゃないよ」

「ぼくはあなた以外の男と、肌を触れるようなことはしたくない」

「惇也」

 アーネストは私に向き直った。

「君は俳優だったんだろう。これはただの演技だ。現実の関係とは違う。ぼくを助けると思ってやってくれ。そして、こちらの方が大事なことだが――」

 彼は声を低めた。

「この撮影は、君の可能性を広げるものだよ。ぼくは君の隠れた資質を引き出そうとしてきたが、まだ完全にはできていない。この撮影を経験すれば、君はもっと優れた存在に成長していく。自分にこんなこともできるのかと、驚くほどになるだろう。ぼくには確信があるんだ」

 口づけされて、私は黙った。

 庭に面した和室に戻り、アーネストは三人分の湯呑みに茶をぎ分けた。急須の注ぎ口から、力強くも優雅な香気が立ちのぼった。蜂蜜色の茶を湛えた湯呑みを手に取り、初めて体験する甘美さを慈しんだ。

「お茶というより、花みたいだ」

 私の賛嘆に、アーネストが言った。

「これは、レイが持ってきてくれたんだよ。本当に素晴らしいね。レイ、惇也にもこのお茶の名前を教えてくれる?」

東方美人ドンファン メイレン――オリエンタル・ビューティー」

 レイモンドは答えた。

「台湾の烏龍ウーロン茶の一種です。香港の友人からもらったんですが、ぼく一人には多すぎたので、皆さんと楽しもうと」

 私はまだ、他人と裸体でポーズを取ることに抵抗を覚えていたが、東方美人の香りはいっとき困惑を忘れさせてくれた。口に含むと、甘く軽い味わいの一方、胃に重く感じる。この茶は喉を潤すために飲むというよりも、ある種の酒のように、少量ずつ味わうものなのだ。顔を上げると、レイモンドと目が合った。私の評価を待っているようだった。

「とても良いお茶ですね」

 私が言うと、レイモンドは微笑んでうなずいた。

「気に入っていただけて良かったです」

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