三 (1)


「彼」とは、学期の開始前に如月と会った時、話に出た交際相手だった。新入生の時から同級で、修士課程でも同じ研究室にいるという。如月がたかぶった感情を落ち着かせ、それだけの事情を話せるようになるまで、ゆうに十分以上はかかった。

「一年生の時、彼も一緒に朝永先生の授業に出ていました」

 彼は紙にペンで恋人の名前を書いてみせた。

 ――みさき裕真ゆうま。――

 字面は見たことがあったが、顔は思い浮かべられなかった。

 その岬が、修士修了を待たずに郷里の北海道へ帰るという。理由は実家の経済事情だった。父親が健康を害して家業が立ち行かなくなり、長男の彼が呼び戻されることになった、と如月は語った。

「あちらに戻るかもしれないとは、夏休みの後に聞いていたんです。でも、はっきり決まった話じゃなかったので、あまり考えないようにしていました。……それが、市の職員に採用が決まって、来年三月で院を中退する、って今日の昼に言われました」

「市の職員? 公務員試験を受けたということかな」

「ちょっと通常の募集とは違ってて、来春、新しい部署ができるので、そのための採用だそうです。先生は『スマートシティ』って、聞いたことありますか」

「いや、全然」

「簡単に言うと、情報コミュニケーション技術で町を運営することです。岬の出身地では、人口が減っているので、町をスマート化することで市民サービスを効率化しようとしているんです。岬は、担当部署の立ち上げに関わることになってます。彼の町は、一応『市』なんですけど、人は少ないし、大学教育を受けた人も多くないと言っていました。夏に帰省して、高校時代の同級生と集まった時に、戻ってくるかもという話をしたら、その場に市役所に勤めてる人がいて、こういう人を求めてるから応募したらって言われたそうです」

「では、岬くんは安定した職に、しかも望まれて就くわけだね」

「はい。彼の実家と、たぶん彼のためにもいいことなんだと思うんですけど……。でも、あっちに帰ってしまったら、もう今みたいな付き合いはできないと思った途端、パニックになってしまって。これから、どうしたらいいのかって……」

 如月はまた涙を落とした。しばらく彼が泣くに任せ、しゃくり上げる音が止まった頃に声をかけた。

「とても、大切な相手なんだね」

 彼がうなずく。

「俺、岬と出会うまでにいろいろあって、精神的に参ってたんです。あいつと一緒にいる間にだいぶ良くなったんで、もう一人で何でもいける気がして……正直、自分がこんなになるなんて、予想してなかったです。もう、岬に頼らなくても、大丈夫だと思ってたので」

「岬くんは、君との今後については、何か言っているの」

「岬はすごく率直です。東京を離れても、自然な気持ちに任せてつながっていたいって言ってくれてます。でも、そばにいなかったら、心も離れてしまうものでしょう……」

 それは人間社会の真理の一つだ。――Out of sight, out of mind.――去る者日々にうとし。しかし、この言葉は先人の洞察として、去った者との古い関係より、新しく築かれた関係の方が優先されるものだと述べているのにすぎない。失った関係に未練を抱き続けるよりも、その方が幸せだと示唆しているのかもしれない。

 如月ほどの魅力があれば、長くひとりぼっちのままということはない。必ず声をかける者が現れる。しかし、今の彼には先のことを言っても慰めにならない。

「せめて、地元に就職先があって良かったなってあいつに言ってやれればいいのに、できなくて。……自分が、すげえ情けないです」

 これまでより、少しくだけた言葉遣いになっている。

「そんなこと、言わないといけないのかい」

「だって、自分がしっかりしてれば、一緒に喜んでやれるはずじゃないですか」

「長く親しい間柄だったなら、本心でない言葉はすぐにわかってしまうよ。君は今は辛いんだろう。なら、それを否定しないで、言える時が来たら言えばいい」

 そろそろ、空きコマの時間も終わりだった。私は時計を見ないようにしていたが、如月は私の肩越しに、机の置時計に目をやった。

「すみません、もうすぐ会議ですよね。今日はありがとうございました。また、話に来てもいいですか」

「ぼくで役に立つならね」

 如月は泣いた跡の残る顔でちょっと微笑み、鼻の下を指でこすった。大人びた容貌の内側から、年齢より幼い、無邪気とも見える表情が浮かんだ。彼は荷物を掴み、一礼すると出ていった。

 本当の自分よりも強くしっかりしているかのように、ずっと偽ってきたのだろうか。

 紅茶の後片づけをして、会議のために研究室を出る時、書棚の扉の前に立ち止まった。ヘルマプロディートスの像が、棚の中の薄暗がりに沈黙している。

 ルーブルでこの写真を撮った時、現実には他の客が周りにいただろう。けれども、私の脳裏に浮かぶその時のイメージは、冷たく静まり返った石のフロアに、ひとり佇む自分の姿だった。男でも女でもある――あるいは、女でも男でもない若い裸像と向かい合う私の背中を、記憶の視点は斜め上から見下ろしている。その瞬間を永遠のものにしようと、三十代の私はカメラを構えている。

 ドアを開け、廊下に出た。冬のパリ。愛した者は大西洋の海原の向こう――あるいは、長きにわたる年月の間、ただ愛があると信じていただけだったのかと、疑いにさいなまれた私の孤独。

 愛の存在を疑わず、恋人との別れに涙を流せる如月が、うらやましいようにも思えた。あの年、私は泣けたのだろうか。思い出すことができなかった。



 大学の屋内プールでは競泳部が練習の真っ最中だった。シャワー室からプールサイドへと歩いていくと、激しく水を打つ音に包まれた。天井の高い、音を吸収するもののない空間を反響がいっぱいに満たす。

 高く水しぶきの上がるレーンの横で、身体をプールに沈める。息を吸い、青い塩素の匂いの中へと壁を蹴る。スピードを抑えたクロールで進んでいくが、隣のレーンから襲い来る大波にバランスを崩しそうになる。若者たちが絶え間なく作り出す波紋がこちらの貧弱な肉体を押し流し、息継ぎをしようとする口に水を叩きつけてくる。

 側面からの圧力を掻いくぐりつつ、クロールで二往復、平泳ぎで三往復のノルマを泳ぎ切った。水中ウォーキングのレーンに移って鼓動を落ち着かせ、プールから上がる。

 ロッカールームで服を着終えるなり、朝永先生、と聞き覚えのある声がした。通路を見ると、如月燎が若い男を連れて立っている。研究室の後輩だろうか。如月より拳一つ分ほど背が低いが、締まった身体に薄く筋肉がついて、敏捷そうに見える。二人ともTシャツにジャージの下という姿だった。

「いい泳ぎっぷりでしたね」

「どうも。見てたのか」

「ギャラリー席から見えました」

 私は彼のそばにいる青年に目をやった。

「今日は、友達と運動?」

「院生有志のレクで、これからバスケです」

 如月は隣の若者の背に手を添えた。

「こいつが岬です。顔、わかります?」

「こんにちは」

 彼ははにかみがちに挨拶した。

 ――岬……。――

「ああ、……言われたら、何となくわかったよ。如月くんと、同じクラスだったね」

 言いながら、驚きにうたれた。この学生が、去ってしまうと言って如月が泣いていた、「恋人」か。

 如月があれほど精神的に頼っている相手なのだから、さぞ大人で、大柄な男なのだろうと勝手に想像していたが、目の前の青年は今時の若者としては決して大きくもなく、如月と同学年というのに、まだ学部の二年生くらいにしか見えない。

 しかし、向かい合ってみれば、ふと目を引かれる個性があるのも確かだった。教室で数十人もの学生の間に座っていれば、すぐにはわからない程度だが、彼を生み出した自然が特に気を遣って、細部まで丹念に仕上げたような美しさがあった。瞳も髪も深い黒で、緻密な肌は内側からほのかに光を放つかのようだ。均整の取れた体つきで、脚がまっすぐ素直に伸びている。顔立ちも肌の質感も、本州の大半の日本人とはどこか雰囲気が異なる。北海道出身というから、ロシアや北方の諸民族の血が入っているのかもしれない。

 一方、如月の琥珀色の目と赤みがかった髪は、九州の父方親族のものと聞いていた。列島の北と南にそれぞれルーツを持つ二人の若者は、かけ離れた個性を持ちながら、どちらにも固有の魅力があった。その違いこそが、二人を自然に、そして運命的に結びつけたのだろうか。

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