一 (1)


 長い間、私は自分をれる言葉の器を探し続けていた。自分が何者かを知るのが青少年期だとしたら、その問題に答えがないまま成人後を生きるのは、精神のどこかに針の進まぬ時計を抱えているようなものだ。

 発端は、思春期に入りかけたある日に伯父の家で、ヴィーナス像の写真を目にしたことだった。大判の写真集のページを繰っていって、そこで手が止まり、眺めている私に伯父が声をかけた。

惇也じゅんやも、そんな写真に興味を持つ年頃になったか」

 伯父の目元には笑みが宿り、声には、お前もに来る時が来たのだな、と匂わせる響きが含まれていた。甥の仕草に、男の欲望の芽生えを見て取ったのだろう。

「その写真の、どこがいちばん気になる」

 改めて、カラー写真に目を落とした。両腕の欠けた像だった。ゆるやかなS字の全身を顔から下へ順に辿っていって、この辺、と腹の周りに指で楕円を描いた。ほう、と伯父は今度ははっきりと、笑いのこもった声を上げた。

「面白いことを教えてやろう。その腹は、男のものだと言われているんだよ。美の女神の像だが、身体のモデルは男で、そこに女の胸を付けたんだな。それでも大抵の人は、美女の像だと信じて疑わないんだから、不思議なもんだ」

 その時の、何とも居心地の悪い思いは忘れられない。伯父は、私が照れ隠しにヴィーナス像の腹を指したと思ったのだろう。本当は女神像の乳房や布に覆われた下腹、脚線の表現に興味を持っているのに、恥ずかしさから言えないのだと推測したに違いない。しかし、私は正直に答えていたのだった。ミロのヴィーナスのみぞおちからへそ周りの肉付き、優雅という以上に力強い造形を眺めた時、身体の奥底に生じた熱っぽい揺らぎに、性的な意味があるともまだ自覚できない頃だったが、女だけでなく、男の肉体にも惹かれる自分を認識した、初めての出来事だった。

 それがいわゆる普通ではないことを、私は成長するにつれて理解していった。普通であること、デフォルトであることには、特別な名前が付かない。異性にのみ性的関心を持つ人々には、今でこそ異性愛者という用語が充てられているが、当時は、少数派の方を指す同性愛者という言葉があるだけだった。そして、私はどちらの概念にもしっくりとはまらなかった。

 大学院生として渡った米国でbisexual という表現に出会った時は、これこそが私の探していた器ではないかと期待した。当時の日本では、私のような人間を指す言葉は国語辞典にすら見当たらなかったのだ。けれども、異端とまなざされる者を表す言葉にさえ、用法の一般的範囲、典型のイメージがあって、私がそこから外れているのはじきにわかった。ごく近年に語義が拡張されるまで、この言葉は性の二元論のうちに限定された存在、すなわち異性と同性の両方に性的関心を持つ男性または女性を指すものだった。二つの性の区切りは明確で、問い直す余地はなかった。用法に含意された確固たる前提は、私をそこから弾いた。それでも私は、自分の一側面を表す用語として、バイセクシュアル――両性愛者という言葉にとりあえず寄りかかり、自己理解のよすがとするほかはなかった。

 教育者の多い血縁一族の中で、前述の異端性に加え、私は長子ではない子どもが抱きがちな反骨心とともに、いささかの軽薄さをも持ち合わせていた。折しも、アメリカの大衆文化が日本の社会、特に私と同年代を含む若い世代に圧倒的な影響力を及ぼしていた時代で、私もまたそうした流行のただ中に青春時代の身を置いていた。米国発の映画や音楽、演劇、小説といった文化の産物に、身近な大人たちは冷淡だったが、私は周囲の若者同様、それらに傾倒していった。アメリカ文化は友人たちと私をつなぐ共通の関心を提供してくれる一方で、ひそかな反逆の願望をも満たしてくれた。長じて大学教員を目指す道に入り、表面上は一族の慣例の範疇に収まることができたのも、アメリカ文学の専門に進んだからこそだった。そこに、私は親や年長の親族たちの期待と、黒い羊としての自分の妥協点を見出したのだった。

 同世代の間ではごくありふれた趣味の持ち主として、また教養や良識の守護者をもって任じる一族の一員として、私は世間向けの姿を作ってきたわけだが、綴り合わせた外面の下に隠した寄る辺なさの匂いを鋭く嗅ぎつけて、近寄ってくる人間も時にはいた。率直に言えば、付け込まれたのだ。肉欲と恋愛に境界線を引くことは難しいが、もしも若い頃の私に一言警告できるとしたら、相手の目的がその二つのどちらに寄っているのか、よく目を開いて確かめるように言うだろう。助言を聞く耳があるかどうかは、また別の問題だが。

 如月きさらぎりょうと二度目に出会った時、私は自分のことを、すでに安全圏に退いた身と捉えていた。不慮の事態に断ち切られたとはいえ、それなりに長い年月、人並に家庭を築いた男として暮らした後だ。大学という舞台の上で、彼と私、それぞれが担った役回りを適切に演じていさえすれば、時に役柄を踏み越える一瞬があったとしても、それは人間的交歓の思い出にとどまったはずだった。

 信頼する同僚であり、友人でもある女性に、――最後に真剣な恋をしたのはいつ、――と問いかけた時、だから私は彼女にというより、自分に尋ねていたのかもしれない。愕然とした彼女の視線の先で、予感の成就のような思いもあった。彼はその名の通り、私が時間の彼方に放逐し、記憶の底に深く沈めたわだかまりを、あかあかと照らし出すかがり火だった。彼との再会は、目をそむけ、隠し、忘れようとしながら手放せずにいたものを、私に突きつけずにはいなかった。試練と幸福とが、あれほどまでにわかちがたく絡み合っていた季節はなかった。彼の存在ゆえに、私は愚か者のそしりに甘んじ、争いに踏み込んで、みずから罪人つみびとのさらし台に上ることさえいとわなかったのだ。

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