第32話 逃避行
リリーそっくりに整形された子供の写真。偽の目撃情報。謝礼金を手に入れたとされる人物による詐欺。 花咲さんの言っていた通り、事態は悪化していた。リリーの謝礼金を巡って、様々な悪行が横行する最悪な事態。人は金でこうも狂うか。全員、自分の身の丈を知る必要がある。
時刻は深夜一時。ようやく外の騒ぎが聞こえなくなった。せっかくドリームキャッチャーで安眠を約束されているのに、肝心の眠気に襲われない。敦子姉さんは口に出さなくなったが、花咲さんは変わらず、リリーをどうするかを僕達に問いかけてくる。
こうなる事は分かっていたが、想像していた以上の難しさに直面している。リリーがこの家に馴染み、リリーが家にいるのが当たり前になってしまったのが原因だ。リリーを手放せない。意地になってるんだ僕は。
でも、意地を張るだけじゃ解決しない。時が経てば忘れるというが、時間が経てば経つ程に上がっていく謝礼金の所為で、人々の記憶から忘れ去られる事は無いだろう。警察が人々の行動を制限しても、悪人だけが活動し続ける。騒動の元凶であるリリーの父親を咎めようにも、親の情を盾にしている限り、手出しは出来ない。手を出さないよう、予め金を渡しているかもしれない。
考えれば考える程、僕に出来る事が全く無い事を痛感される。一択しかない選択肢を前に、いつまでも無言を貫いている状態だ。時間は有限だ。刻一刻と制限時間が迫っている。
「水樹」
声がした方へ振り向くと、そこにはリリーが立っていた。この家に初めて来た時と同じパーカーを着て、フードを深く被っている。
「どうした?」
「逃げよう」
「何処へ?」
「何処か……誰もいない場所まで」
「外には出れない。今は深夜。みんな寝静まっている時間だけど、誰かがたまたま外に出てるかもしれない。眠れなくて散歩に出た人や、近くの自販機に飲み物を買いに出た人。深夜でも、外に出るキッカケはいくつもある」
「……水樹と離れたくない」
フードを脱いで見えたリリーの目から、涙が流れていた。青い瞳は、本来の赤い瞳に戻っている。
「……僕は走れない。車椅子の状態じゃ、いざという時に助けられない」
「水樹は私が守る」
「守られるべきは君の方だ」
「私は数え切れない程の年月を生きてきた。親しくしてくれた人との別れはいくつも経験してきた。悲しかったけど、すぐに乗り越えられた……でも、あなたは違う……乗り越えられない……あなたは、私にとって特別なの……!」
「……くそ」
自分が信じられない。身の程をわきまえるべきだ。子供で、右足が動かなくて、頼れる人は敦子姉さんしかいない。楽な道を選べ。
リリーの目から流れる涙を拭う。少し怖かった赤い瞳に恐れは感じず、価値の高い宝石以上に目を奪われる。リリーの細い指が、僕の手の隙間に絡みつく。
玄関の扉を開け、外に出てみると、スズムシの鳴き声だけが聞こえてくる。リリーにフードを深く被るようジェスチャーし、静かに玄関の扉を閉めた。扉を閉める時に、敦子姉さんがこっちを見つめたまま立っていたのが見えた。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない。行こう」
僕達は夜の世界を歩いていく。金なんて無い。行く当ても無い。お互い、繋いだ手を強く握りしめながら歩いていく。
「……あんなに騒がしかったのが嘘みたい」
「朝になれば、また騒がしくなるよ」
「なら、聞こえない場所へ行きましょう。私達以外誰もいない場所に」
「天国は勘弁」
「地獄かもよ?」
「僕は死ぬつもりはありませんからね」
「……私も」
家を発ってからどれくらいの時間が流れただろう? もう長い事、休まずに進んでる。人が住む町から離れ、今僕達が進んでいるのは森にある道路上。途中、何度かトンネルを通る事もあった。幽霊が出そうな薄暗さだったが、不思議と平然でいられた。
そして、僕達はまたトンネルに入る。今度は長そうだ。トンネルを抜けた先の光景が見えない。壁を見ると、誰かが悪戯した落書きが描かれている。
「長く生きていても、恐怖は感じるんですか?」
「感じるけど、もう薄まってる。このトンネルよりも暗い場所にいた事もあるし。どれくらい前の事かな? 自分の体も見えない程の暗闇に包まれた洞窟に入ったの。手にランタンを持ってね。どんどん奥に進んでいったら、ランタンの燃料が切れて、暗闇の中で身動きが取れなくなったの」
「どうやって出てこれたんですか?」
「待ったわ。誰かが来るのを。私達は人のように飢えや渇きに悩まされる事は無い」
「やっぱり吸血鬼だ。僕の血を吸ったし」
「水樹以外の血は吸いたくないよ」
そう言って微笑むリリー。僕も笑い返すべきだが、未だに笑い方を思い出せない。新しい幸せを得て、外にも出られるようにもなったのに、笑顔だけが取り戻せずにいる。
トンネルの入り口が見えなくなっても、まだトンネルの先は見えない。長いトンネルだ。進む先は見えず、戻る事も出来ない。まるで、今の僕達を表しているかのよう。
「……水樹は、親から愛されていた?」
「……愛してもらってた」
「どんな感じなの? その……親から愛されるって」
「普通の事です。愛され過ぎて、当たり前のように考えるようになって……失ってから特別だったと気付かされる……替えの効かない存在です」
「羨ましい……私は、一度も愛してもらった事が無い。家出をするのも今回が初めてじゃない。見向きもされなくて、家を出ていった。捜してくれると信じて……でも、結局自分から家に戻った。私が戻っても、両親は相変わらず私を見ようともしなかった。でもある日、家に置いてあったピアノで遊んでいた時、ふと扉の方を見た。パパが私を見ていた。私に初めて目を向けた……でも、関心を持ったのは私じゃなく、私のピアノの才能の方だった」
「……それでも、努力したんですよね?」
「今思えば馬鹿みたいって思う。どれだけ良い演奏が出来ても、ピアノを演奏した私じゃなくて、私が演奏したピアノばかり褒める。ワザと下手に演奏した時の反応が面白かったから、たまにコンサートで失敗してやった!」
「悪魔ですね……いや、魔王でしたか?」
「そう言われるのは悪い気分じゃなかった! 関心が向く方向はどうあれ、私の演奏一つで心を揺さぶれるのは面白かったわ! 水樹にも、私の演奏を聴いてほしいな」
「弾いてくれるなら、心が落ち着くようなスローペースな曲でお願いしますよ」
薄暗いトンネルの出口はまだ見えない。トンネルを抜けた先に何があるかも知らない。これから先、どうすべきかも分からない。
でも、今は忘れよう。先の事なんかいつだって分からないんだ。後悔も悲しみも、その果てに着いてからでいい。
今はただ、リリーの手の感触を感じていよう。僕達の逃避行は、すぐに終わってしまうから。
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