第21話 自棄

 休む間もなく走り続け、花咲さんの家に辿り着いた。汗も凄いし、目眩も酷いが、休むのは花咲さんを止めてからだ。


 家の扉のドアノブを捻ると、鍵は掛かっていなかった。逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりと音を立てないように扉を開ける。玄関に足を踏み入れると、二階から激しくもみ合っている音や声が聞こえてきた。階段を駆け上り、物音がする部屋に入ると、倒れている花咲さんの母親と、目出し帽を被った花咲さんがいた。部屋の中は酷く荒れ果てており、倒れている花咲さんの母親の足裏を見るに、割れたガラスを踏んだのは母親の方だろう。




「花咲さん……!」




「あれ? どうして佐久間君がここに……あ、やだ! せっかく佐久間君が来てくれたのに、部屋の中が滅茶苦茶だわ!」




「そんなのどうでもいい。そのおかしなマスクと、手に持ってる包丁を床に捨てるんだ……!」




 花咲さんは被り物を外してくれたが、手に持っている包丁は捨ててくれなかった。分かってはいた事だ。僕が言って従うだけなら、こうまでならない。今の花咲さんは狂気に支配されている。その証拠に、口角は上がっているのに、瞳は虚ろだ。


 床に散乱している物や破片に気を付けながら、徐々に花咲さんと距離を縮めていく。殴りかかって外に放り出したいが、花咲さんは包丁を持っている。刃物を持った相手と戦った経験が一度も無い僕が、無策に掛かっていける相手じゃない。




「酷い汗だよ、佐久間君。それに、今にも倒れそうな顔色」




「ええ、そうです。今すぐベッドに倒れ込みたい気分ですよ」




「なら、私のベッドを使って! 佐久間君が寝ている間に着替えを済ませておくし、体だって拭いてあげる! その前に……この人殺さないとね」




「ほんの少し騒いだだけでも、意外と外に音が漏れるんですよ? 重い物が倒れたり、ましてや悲鳴なんかは外にまで響く。その音を聞いて、誰かが警察に連絡するかもしれません。もうしてるかもしれません」




「来るまでに片付けます」




「殺人罪で捕まれば、花咲さんの歳でも長い間牢屋に入れられるんです。万が一に牢屋を回避しても、人を殺したという烙印は逃れられません。他人から避けられ、人間として見られない一生を過ごす事になるんですよ?」




「私はそれでも平気」




「どうしてそこまで親殺しを?」




 会話を重ねながら、花咲さんとの距離を縮め、不意をつけば包丁を手から放せられる間合いに辿り着く。だがここにきて、花咲さんは包丁を持つ手を動かし、包丁の先を僕に向けてきた。急に鋭い刃先を向けられ、反射的に後ろに下がってしまう。床に散らばった何かの破片が右足の足裏に刺さった気がしたが、意識が包丁の刃先に集中しているおかげで、痛みは感じなかった。


 包丁の先を向けられている危機的な状況だが、僕が下がれば、後を追うように花咲さんが一歩前に出てくる。危機的状況に変わりないが、花咲さんをこの部屋から出す事は出来そうだ。


 そうして花咲さんを廊下に誘き出した僕は、このまま一階の方まで誘き寄せようと、花咲さんから視線を逸らさずに、後ろ歩きのまま階段へ近付いた。




「どうして親殺しをですって? そんなの、佐久間君と同じになりたいからです」




「やっぱりね……」




「知りませんでした。佐久間君のご両親が既に亡くなっている事。それが原因で、佐久間君が引き籠ってしまった事も」




「でも僕はこうして出てこれたよ。引き籠りには辛い運動だったけどね」




「じゃあ、また家に閉じ込めないといけませんね。佐久間君のお世話は、私がしますから。木島さんが出来ない事を私がしてあげるよ?」




「一つ質問します。正気と狂気。花咲さんは、今どちらですか?」




「正気だよ」




「人を殺そうとして正気と言い張るなんて、狂気じみてますね」




「え? あー、そっか! どうしてずっと後退りしてるかと思ったら、あの部屋から私を遠ざける為だったんですね! 私、他人から賢そうとよく言われてるんですが、実際はそうじゃないんですよ! アハハ、ハッ!」


 


 花咲さんは突然笑い出すと、僕の意表をついて方向転換した。僕の余計な言葉の所為で台無しだ。今の花咲さんに何を言っても、その足は止まる事は無いだろう。


 言葉による説得が不可能だと判断し、僕は暴力を使う事を決断した。幸いにも、花咲さんは僕から背を向けている。後ろに目がついていない限り、僕の行動を知る事は出来ない。


 僕は花咲さんの背中に飛びつき、左腕を首に回し、右手で包丁を持つ手を掴んだ。壁に手を叩きつけて包丁を落そうとしたが、花咲さんの力は細い体とは裏腹に手強く、その力で抵抗される所為で十分に叩きつけられない。僕は自棄になって、花咲さんの肩に噛みついた。




「グギャッ!?」




 花咲さんは潰れるカエルのような声を上げると、手から包丁を床に落とした。僕は床に落ちた包丁を足で遠くに滑らせ、花咲さんを羽交い絞めにして階段の方へ連れて行く。


 なんとか階段の方まで連れて行く事が出来たが、花咲さんが激しく暴れる所為で一歩も階段を下りられず、次第に絞める力が弱まってきた。




「花咲さん!」




「離して佐久間君! 木島さんに勝つにはこれしかないの! 佐久間君と同じになるしかないの!」




「この分からず屋……! 少し痛い目に遭え!」




 羽交い絞めを解いて、両腕を抑え込むようにして抱き着き、僕は一気に力を入れて階段の方へ倒れ込んだ。僕達は少しだけ宙に浮くと、すぐに落下し、激しい音を立てながら階段を転げ落ちていく。一階に転げ落ちていくと、最後に花咲さんの下敷きになる形で落下してしまい、思わず花咲さんを離してしまった。


 全身が痛い。息が出来ないくらい苦しい。階段から転がり落ちるのは初めてだが、こんなにもキツイのか。映画に出てくるスタントマンの凄さを身を持って知ったよ。


 体の向きを変えるのだけでやっとな僕は、玄関まで転がっていった花咲さんの方へ体を向けた。そこには、僕に背を向けて倒れたままの花咲さんと、玄関に平然と立っている敦子姉さんがいた。


 敦子姉さんは花咲さんを跨いで僕の方へ近付いてくると、微笑みを浮かべながら僕の頭を優しく撫でた。




「頑張ったね、水樹君。後は私に任せて」




 そう言うと、敦子姉さんは黒い手袋と口を覆う布を着け、二階へと上っていった。敦子姉さんの言葉と恰好から、僕は嫌な予感を覚えたが、もう体を動かせそうにない。どうしようも出来ないまま、電源を切られたように、僕の意識は切断された。

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