第八章 広島の有明


 広島市内に足を踏み入れると、建設が進む国会議事堂の新しい建物が、かつての静けさに代わり、活気をもたらしていた。


 主要の官公庁施設が移る予定となるビルの塔屋からクレーンがあちらこちらに顔を覗かせている。民間企業の本社が移転してくる計画も進行中で、広島の街は未来への期待で満ちていた。


 ふたりは手を取り合って、鳩が飛び交う姿が新しいシンボルとなる国会議事堂の前で寄り添った。僕たちの間には、もうマスコミの目を恐れることはなかった。ふたりとも自由な独身同士だったからだ。


 舞子は、劇的に変化していく故郷の景色を眺めながら、どんな未来を描いているのだろうか。彼女の心の中には、きっとこの街の変化に対する深い感銘と、僕への信頼があるのかもしれない。


 彼女の隣で、僕は再び総理大臣としての重責と、これからの未来について深く考えた。舞子の支えがあれば、もう一期続ける勇気が湧いてくる。彼女との間には、すでに仕事を超えた特別な絆が芽生えていた。


「この三年で広島は大きく変わりました。でも、あなたの心は変わっていませんね。あなたの強い信念が、この街を、そして日本を変えていくのです」


 舞子がそう思わせぶりに言葉を紡いだ。その言葉は、僕にとって心地よい響きを持っていた。彼女の瞳は、いつも真剣で、僕の決意を確かなものにしてくれた。


「あなたがいてくれたからこそ、僕はここまでやってこれた。これからも、一緒に歩んでいけたらと思う」


 燃えるような日輪がゆっくりと地平線へと沈み、黄昏時の静寂が街を優しく包み込む。目の前に広がる商店街では、一軒また一軒と灯りがともり始め、夜の幕開けを静かに、告げている。飲み屋の暖簾が風に揺れ、飲ん兵衛たちの楽しげな声が、遠くから聞こえてくる。それはまるで、夜の訪れを心待ちにしているかのようだ。



 まるでその瞬間を待っていたかのように、僕の隣で寄り添う舞子がほんのり微笑みながら声をかけてきた。彼女はいつも総理ではなく、さん付けの個人名を使って呼んでくれる。それがまたとても心地よい。


「西園寺さん、よかったら私の行きつけの店に寄ってみませんか?」


 この後、特別な予定などなかった。総理の自分を遠目に見守るSPたちの鋭い視線を感じつつも、彼らの存在を意識しないふりをして、舞子の誘いにうなずいた。


 夜が心静かに訪れるのを待ちわびるかのように、彼女が案内してくれた駅前通りは閑散としていた。そこには、居酒屋の赤ちょうちんがひっそりと灯り、昭和レトロの懐かしい風情を漂わせている。その暖かな光は、まるで酔いどれ天使たちを招き入れる灯のようだった。


 警護の彼らを外に待たせ、ふたりで暖簾をくぐるとき、僕の胸の奥が一瞬きゅっと締め付けられる。これは仕事であり仕方ないことだったが、心の中に引っかかる想いを抱えつつ、店内に足を踏み入れた。


 堂園さんによると、十年ぶりの改装で、新旧が混在しながらもすっきりとした印象の店内だった。木の温もりが感じられるカウンターのそばには、真新しい椅子たちがどこか誇らしげに並んでいる。

 すべての改装は、ご家族たちの手によるものらしい。カウンターの十席、小上がり席の六名が定員のこぢんまりとした店だが、足繁く通う常連さんもいるという。


「西園寺さん、こんな店は来たことないでしょう」


「いや、全然。ここは僕の好みにぴったりの居酒屋だね」


 居酒屋の店内は、別世界への入り口のように、地元民らしい客たちからの賑やかな笑い声が飛び交うとともに、広島の味覚が生き生きと息づいていた。


「いらっしゃい。舞子ちゃん、この男の人を紹介してくれんかね」


 突然、女将から広島弁で声をかけられた。


「母さん、話してなかったかしら。でも、見たことない?」


 ここは、堂園さんの実家だと初めて知って驚いた。今回は内密な視察だったので、僕はあえてカジュアルなセーターを身につけていた。母親は首をかしげて呟いた。


「どっかで見たことあるんじゃけど、思い出せんわ」


「テレビに出てるでしょうに……。総理大臣だって」


 舞子は周囲のお客さんたちから聞こえないように小声で囁いた。


「ほんまかいな? もうびっくりしたわ」


「母さん、聞いてね。でも、ここに来たのは深い意味はないの。仕事ばかりだと疲れてしまうから、彼を気晴らしに連れてきただけ。ただ私には取材の途中だから、ふたりの関係を勘違いしないでね」


 僕はふたりのやり取りの進展に興味をそそられ、地酒を飲みながら黙ったままで耳を傾けていた。舞子の母親は、目と鼻先に並ぶ広島名物の酒の肴を遠慮なく楽しむように促してくれた。


 広島焼きはサクサクとした食感と深い味わいで、牡蠣の料理は海の恵みを存分に感じさせる逸品だった。それらは、夜長を彩る最高の肴となり、心地よく酔いを誘う。いつのまにやら、酒が進んで僕自身が酔いどれ天使になっていた。


 酔いがほどほどに身体や心の中を巡ったとき、小あがりで楽しんでいた客たちに声をかけられ、僕と舞子は彼らの温かい輪の中に加わった。そこは、故郷を楽しそうに語り合う人情深い夜話が繰り広げられる車座の集いだった。


 顔を赤らめた年配の客がすぐに笑顔で立ち上がり、僕たちのために席を作って歓迎してくれた。彼はカラオケマイクを手に取り、母親に向けて優しく依頼した。


「おかみさん、舞子たちのためにいつもの曲を歌わせてくんさい」


「あんたの十八番は、これしかないじゃろうに。入れちゃったで、頑張ってな」


 母親は彼の言葉に微笑みを返し、絶妙なタイミングで応じた。そして、カセットテープをひとつ取り出し、懐かしいカラオケ機器にセットした。


「ふたりを夕闇が包む……」と店内に響く彼のしわがれ声は、長い時を経たもので、僕は懐かしいメロディーを情感豊かに歌い上げる彼の姿に心を打たれた。


 彼の歌声を聴くほどに、いつも涙もろい僕の性格が顔を出し、感動のあまり目頭が熱くなった。

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