仙人地獄フォーゼ

グレード・モルヴェリッチ

一話完結

 無賃駅の夜、ぬめらかに光る軌道の上で、操を差し出した少女が、老いた仙人にずぶしゃりと喉を切られていた。噴き出す真っ赤な血の中で、またもや私は一瞬間、朝日を滝の如くに浴びる河原のあの情景に立っている。遠く汽笛が鳴り、少女の死体と仙人ともども轢き潰していった無人列車に、その他大勢の黒々とした人間に交じって、私は乗り込んだ。


 薄暗いシートの隅に腰掛け、衣擦れの感覚に足を蠢かせ、どうにもならぬ性の不快に抵抗していると、入り口の扉から真っ直ぐやってきた、一人の盲人らしき紳士が、私の前に立って吊革を掴む。男は黒眼鏡の奥の眼、見える眼を我が顔に固定し、低い声で、呟くようにして話し始めた。


「この車輛の奥に、我々の、小屋があります」


「女を売っているのか」、と、私が訊くと、男は「お安くしときますよ」と言うのみだ。


「私をどうやら、陽の性なる者と誤解しているらしいが」


 両目を前髪の下に隠し、私が伏せがちにそう言うと、黒い外套姿のその男は、にやりと笑う。


「確かに、中性的な顔つきをなされています。しかしあなた様は、正真正銘男性じゃ、ございませんか」


「分かるかね」


 私は含み笑いをしながら、男の黒眼鏡の先の視線を見つめ、もう一度、顔を伏せた。股ぐらに挟まったそれは、袴越しにささやかな膨らみを見せている。


「ならば、買わせて頂こう」


 紳士に案内されたそこは、動き出した列車の、車輛と車輛との連結部分を覆っている、黒衣の前。髪色の幕、というのが本当は正しいのだろうが、その表層は明らかに生身の人肌を覆うところの布を一々、継ぎ接ぎしたものだ。中からは微かに、女の喘ぎ声らしきものがうようよと流れ出てくる。相手もおらぬのに、ただ客寄せのためだけに腐敗した蜜を、垂らしているというわけだ。私は男に価値の無い硬貨数枚を渡し、覆いを上げ、色宿というには余りにも小さい、その箱の真暗な内に身を滑らせた。奪い女がぼんやり光る白桃色の胸元露わに、性別不詳の平らな私の上躰目掛けて寄りかかる、その白黒映画のワンシーンじみた行為前の戯れと同時に私はまた、鮮烈な別の女のイメージをも浴びている。


「お嫌でしょうか、置屋の女郎は」


 奪い女は舌の先をふすと出し、その濡れた肉で我が首筋の表面をしゃるりと触った。決して密でない毛先共が肌の裏側で囁き合う、浮いた感覚。左下に視線をやると、頬と肩に触れる形で彼女の軽い頭がそこにある。片手は私の右肩をつまむようにし、もう一方の手の、たおやかでしかもなお鋭い、親指以外の四本の長い指の先を、揃いも揃って私の尻の間に差し込みにかかる女の耳元へ、私は静かに言った。


「今から君を、ここより連れ出す」


 すると奪い女は、さっと躰を離し、抵抗するような目付きとともに、擦れっ枯らした口を利く。


「お兄さんにはまだ、早いのじゃないですか。確かにここは出張部屋。だけど女の肌身を持ち帰るには、それなりの上得意の方でなければ」


「宿に連れて帰るというのではない」


 私は囁きに、黝い強迫性を伴わせた。


「君を逃がしてやる、と言っている。君は自分には逃亡の意志など塵ほどにも存在しない、と言うかもしれない。しかし私は、力ずくに君の躰をこの檻より脱出せしめることにする。君がそれに抵抗することは、君には不本意であるかもしれないが、甚だ困難な試みだと言わねばならないだろう」


「私は逃げ出したりなど、致しません。行動されない下手な自己の願望は、そっとお口の中に仕舞い込んでおくべきですわ。それともお兄さんは、私を抱きたくないのかしら」


 そう言われ、私は一瞬、視線を逸らした。


「私は欲情しない」


「でも、勃ってる」


 女がふすすと歩み寄り、私の突起したその先端の部分を、指の先で衣越しに触った。じんわりと湿った感触があり、もちろんその肉塊は、えもいわれぬ硬さとなって反り返る。しかし私には、一片の愛欲とて浮かばない。私はなおも私の股を弄ろうとする奪い女の手首を掴み、黒衣の幕を切り裂いて、夜闇の外に剥き出しとなった車輛の連結部分から、女共々地面の上へ転がり出た。速度をさらに増しつつあった列車から落ちたその地点は、幅狭に走る二本の軌道の、すぐ隣だ。女は腰をしたたかに打ちつけたのか、低く重い唸り声を上げているが、重傷ではなさそうだった。列車の窓からは、色小屋の管理者共であろう、あの黒眼鏡の紳士やその仲間らしき者らが、こちらを見て何やら口々に叫んではいるものの、降りてこようとする人間は一人もいない。この奪い女も、そして私も、彼らにとってはその程度の価値しか持たぬ存在だというわけだろう。


 起き上がろうとしてまた地面に尻をついている女を見下ろし、私は声高に言った。


「逃げよ。逃げた先で君が野垂れ死のうと再び置屋に帰ろうと、それは私の知ったことではない」


 それだけ言って、軌道と通常の道路とを隔てる木柵の方へ、私は歩き出した。女は恨みを込めた眼差しを注いで黙っていたが、私が片手を柵の上部に掛けたところで、背中に礫を投げ付けてきた。余所者、そのような言葉の断片と共に。




 町の、冷酒のような暗夜の隅々には、仙人共が群れをなして快楽を貪る。先程の紳士は盲ではなかったが、仙人共の欲求の際限の無さ、それはまさに、盲人となってまだ間も無い素人瞽が、世界に僅かの光明を求めて歩き廻る様と同様と言ってよい。通りの両側の黒い建造物、その大小様々の壁に寄りかかって女の躰を濡らす、坊主の老人に若者にそれに子供ら。この町においてさえ、ほとんどの者が自らの獣性を隠す素振りを見せているが、それが彼らには好ましい、隠微に淫靡な雰囲気なのだろう。私にはそれが、耐えられぬ。耐えられないが、それでは情欲露わな仙人共を好ましく思えるかというと、私は稀代の仙人嫌いなのだ。


「オカーサマ。オカーサマ」


 路地への入り口、奥の真暗闇を示す薄暗さと臭気で漲る四角の空間、その内部で親子かと思われる女と子供らが、群がって淫猥な、しかし土に根差した雰囲気を放っていた。女は上半身を覆う襤褸布をだらりとはだけさせ、二つの熟れきった血紅色の果実を丸ごと曝け出し、その乳首、あるいは腹、股の上に、子供らの頭を抱え込み、彼らの丸く幼い唇が、吸い付くままにさせている。「オカーサマ。オカーサマ」少なくとも乳幼児の過程は終えたと思われる子供らが、一様に呪文めいた稚児の呟きを発するのに対照して、一見母親に見えないこともない中年の太った女は、悲痛な顔で沈黙しきったままだ。おそらく彼らには、いわゆる血の繋がりなどというものは無いのだろう。己の身も欲望もその行き場を知らぬ子供らに籠絡される形で、女が彼らを自分の子としてやったに違いない。


「オカーサマ。オカーサマ」


 躰中の穴という穴を数々の濡れた唇に塞がれ、千切れんばかりの執着力で吸われに吸われる。女は無声の叫び声を上げている。死に物狂いのそんな彼らを、夜更けに近い通りの真ん中から眺める内、私は再び、色気に満ち満ちた朝日を天に仰ぐ、朝焼けた河原の疎らな草の上に立っていた。


 鼻孔の奥をくすぐる、葉の薬草めいた刺激的な匂いと、流れる川の清冽な水、その雑音のようなせせらぎ。それが雑音と化してしまうのは、それらを淡い後景として、膝から崩れ落ちた若い女の鋭い遠吠えのような叫びが、始終ひっきりなしに続いているからだ。あちら側の全ての人間の、死んでも消えない怨念を集めて赤黒く濃縮させたような、呪いの叫び。天にも地にもその叫び声は反響し、この空間全体を満たしている。それは誰に対するというでもなく、あえて言うならば世界そのものを、相手取っているかのようだ。この一連の情景において、私自身の視点がどこにあるのか、それが分からない。気が違ったような大声を上げている女を、傍らで見つめているようでもあるが、気が付けば自らの喉の奥から、凄絶な嬌声が溢れ出てきているようでもある。この女は誰なのか。私の知らぬ己の過去に、関係のある女なのか、あるいは前世のイメージとでも言うべきものなのだろうか。その女が私を手招いた。彼女の妖しい笑いが、表情にこびりついて取れぬようだ。誘われるままにふらふらと寄っていくと、女の片手が彼女自身の背中へ伸びて、そこから、私が背に結わえつけている刀と同じもの、おそらくは彼女自身の怨みを吸った日本刀を抜き放ち、私の肩口目掛けて振り下ろそうとする。「精の髄までうぬら陽の者の生身の身体斬り刻まねば、死んでも死に切れぬ哀れな我が身の上よ」どろどろの血に掠れた、女の怒声。「私は欲情しないのだ」そう言っても女は聞く耳持たぬので、私は彼女の手首を強く掴み、その動きを止めるしかない。すると、女の全身に纏わり付いていた子供らが、腫れ物を見る眼で、私の傍から逃れるようにして離れた。既に辺りは繁華街相応の、灯の交じった深更の闇だ。私が馬乗りになって四肢を押さえ付けている中年女はとうに、怨念を纏うあの女ではない。


「もうやめなよ。奥さん、苦しんでるよ」


 私の肩に生白い手を置いた通りすがりの青年は、涼しげだが精悍な顔に、黒眼鏡を掛けていた。この男も、欲の行き場を見失った盲人、その振りをしているのだ、他の多くの住民と同じように。




 自分は仙人見習いなので名前などいらぬ、是非にそのまま、仙人見習いと呼んでくれと言ったその青年は、現在泊まっている宿に私も泊めてやると言って、幾十幾百もの宿屋の立ち並ぶ一角へと、私を連れて歩いた。宿屋といっても、林立するその大半が女郎屋であり、だから私には、建物の色合い、出入りする人物、入り口や窓からの鼻を侵す臭気、その全てが耐え難い。耐え難い理由を探るために過去の記憶を遡ろうとすると、ある地点でぷっつりと途切れてしまうのだが。私が気が付いた時にはもう、今と同じく、この町をあてどなく彷徨っていたのだ。


「ちょっとだけ、寄っていこう」


 仙人見習いが眼鏡の奥の眼を向けた先には、涸れた溝の中に蹲ったり横になったり、そこで暮らしているのかとも思われる、最下層の素人女郎、海藻のように揺らめく廃れ女達がいた。仙人見習いはつまりここで、「休憩」していこうと言うのであろう。意味の無い硬貨の二、三枚を、仙人見習いから奪い取るようにして受け取り、彼の躰を溝の中へ引きずり込んでいく、汚泥まみれの廃れ女達。両足の指の骨、それに足首を全部折られ、ただ男の吐精欲を満たすためだけに用意された者ら。この者達には、逃げ出すための足、そのような足が存在する世界さえ、事の最初から意識の外なのだ。


 自らの剥き出しの欲を曝しながら、私にも勧めてくる仙人見習いの誘いを断り、私は一旦溝から離れ、その向かいの、歩道の端に小さく店を広げている、占い師の前へ進み出た。このような真夜中でも、営業中の占い師は数限り無く存在している。何故なら彼らは、この世界において、私を含む全ての人間の、人生における選択権を握っているに等しいからだ。


「見てもらえるか」


 私が言うと、老いた占い師は我が顔を上眼にじろりと眺め、それから、吐き出すような低い声を出した。「あんた、この世のものではないですな」


「この世界に順応している人間でなければ、占えぬと言うのかね」


「そりゃ占いますわ。たとえ地獄の神であろうと、その意志のある限り、見料無しで占ってあげます。しかしそのために、あんたの運命が変わる、というような事態を恐れておるのです。いや、占いだけでなく、人と人が関わることで、その後の互いの生き方が変わるのは、これはもうあんたもよくご承知でしょうが……」


「その通り。そしてあなたが、私の人生に責任を負う必要は全く無い。ただただ自由に、あなたの思うがままに占ってくれればそれで良いのだ」


「それでは」そう言って、占い師は私の全身を見上げ見下ろし、右手を取ってその裏表をじろじろと眺め、さらには、私の平板な胸の辺りを、袷の上から軽くさすった。皺だらけの、カサカサの手で。「まるで、抉り取られたような躰だ」そのような独り言を発しながら。


「非常に稀なお方ですな、あんたは」


私の躰、そしておそらくはその内面をも熟視し終えた占い師が、感心したような様子で言うのを、私は聞き咎めずにはいられない。


「それは、この町に身を任せる他の者らと比較して、ということなのか、それとも、私の運命それ自体が、という、そういうことなのだろうか」


「あんたはこの世界に存在しているお方では、ないのです。どこか他の場所で暮らしていた、そのような記憶はありませんか」


「記憶は全て、消え失せた。しかし私が、この仙人共の世の中を、受け入れられたことは一度もない」


 すると、老易者の眼、両方とも、嘘のように潰れかかっている眼に、憎しみに満ちた赤い血の筋が、じわじわと広がっていくのが分かった。


「我々占い師は皆、仙人に成ろうとして、成り切れなかった者ばかりだよ」


「そして、死のうとして死ねなかった、と続くのだろう。そのような御託は聞き飽きたよ」


「帰っとくれ」


 占い屋から追い出されると、仙人見習いは既に、溝から這い上がって待っていた。彼の身を覆っている着物に、溝の中に棄てられていたのか、あるいは、幾年も前に流れ着いたのであろう、血の付いた紙切れ、どろどろになった茶碗の欠片、黒い肉の滓などが、怨みを露わにへばりついている。さらには、ぼろぼろのゴム、錆びた鉄屑、露に濡れた草、そして朝日に輝く女の黒髪。


 朝日のどしゃ降る河原の端で、女が今、立ち上がった。彼女は流れる川に放り込んだ肉塊を眺めながら、眩しい陽に照り映える、白い背中を見せている。私の華奢な背も、あのようになだらかな白色なのだろうか。裸の女がこちらを振り向いた。懐かしい乳房と、彼女のその馴染み深い顔とは、しかし今までの記憶に無く燃えるような赤だ。だとすれば真っ赤なこの女は、前世の思い出などではなく、これ以後の世における私の方向性を示しているのか、それとも、まさに現在、私とは別の世界で明確に存在しているのか。私が常時感じている浮遊感と同様の、常に意識の裏側に張り付いている空腹感を表出せしめ、私は、女の瑞々しい肉体に対して、禁忌に触れる食欲を覚えた。人肉食だから禁忌に触れるというのではなく、そもそも女の肉体に対して、いかなる種類のものであれ欲望を感じるということが、私の存在理由に反しているのだ。女の全身が朧げになりつつ遠ざかり、その輪郭が仙人見習いの上躰に重なった。彼が勧める肉料理を、私も箸で突いて口に運ぶ。部屋の小さな窓からは、ぼんやりと月明かりが、忍び込むような気配で入り込んでいる。


「この宿は、安い上に飯もついてるからいいよ。畳が腐りかけているのが、気にならないことはないけどね」


「しかし、安い高いというのは、単なる建前に過ぎないだろう。私も幾らかの硬貨を懐に収めてはいるが、これに価値など存在しなかった筈だ。現に、全てのものがここでは無賃で手に入る。生まれつき、手に入れられる側になった者については、別かもしれないが」


「そんな考え方を、みんなしてるかもしれないけど、口には出さないよ。変わってるね君は。それで、仙人に成ろうとも思わないんだろう」


 仙人見習いの、衣付きの肉を貪るようにして咀嚼する、その口が憫笑のような表情をたたえているのに、私は気付く。


「そうだ」


「仙人に成ろうとするのは、もちろん、君が言ったように全てに価値など無いのだから、この人生をも、快楽で満たすだけ満たして、後は綺麗さっぱり消し去ってしまおうとするためだ。自ら死ぬことさえ出来ればそれだけで、仙人に成れたと言ってもいい。だけどやっぱり、生きてる内に、仙人の心境を味わいたいからね」


「町は真夜中だな」


 仙人見習いの色臭い視線を躱すようにしてそう言うと、彼は、卓袱台の向こうを廻って、こちらに擦り寄ってきた。


「美味しかったよね。美味しかったでしょう」


 仙人見習いの開いた唇からは、薄黄色に汚れた前歯と前歯の隙間に、食い損なった肉の残骸がこびりついているのが見える。私は彼の歯に挟まっているのと同じ、肉屑の塩辛い食感を味わいながら、曖昧に頷いた。「ああ」


「その美味しかった肉の唐揚げが何の肉か、君、知ってるかい」


「鶏肉だと思ったが」


「人肉だよ」


 湿気の濃い、男の肌の熱い臭い。仙人見習いの青白く薄い掌が、私の柔らかな肩にそっと置かれる。


「僕らは死んだ男達の肌を喰らって生きてるんだ。同類の肉で飢えを乾かしているんだ。僕はそれを食べるたびに、いつも自分自身を貪っているような気持ちになる。君はやっぱりそれを知らなかったね。そんなことも、知らないんだね」


 私は何故か、既に嚥下してしまった人肉の唐揚げに対しては、気持ちの悪さを感じることが全く無かった。むしろ、しなやかな弾力に満ちた歯応えの快さがまだ、口中に反芻出来るくらいだ。気味の悪さは、この男の振る舞いに限られていた。仙人見習いがその口元を、私の片耳に触れるか触れないかというところにまで寄せ、肩に触れたままの手、その指先にゆっくり力を込めながら、囁く。


「君が男なのは確かだが、だけど、僕と同類の性質の者だとはとても思えない。お願いだから、着物を下まで全部脱いで、僕に素肌の全てを見せておくれ」


「断る」


 私が顔を背けると、仙人見習いはふっと、私の横顔に当たる息を吹いた。


「どうしてもかい」


「ああ」


「それなら僕は、力尽くで君の着物を剥ぎ取るしかない」


 言うなり男は、薄い右手を私の胸の内、もう一方を私の股に差し込もうとしながら、躰全体で覆い被さってきた。


 一転して無言の男、だが、時には「やっぱ勃つんじゃん」などと呟く男の狼藉に、私は下から、彼の鳩尾を突いたりなどして抵抗する。あるいは腐った畳を何度も強く叩き、あるいは男の顔を片手で覆う。だが、男の獣欲はそのたびに、猛り立つばかりだ。私は犯される間際の女のような力を振り絞って、仙人見習いの躰を突き放し、立ち上がって背に差している刀を素早く抜き、男の鼻先に狙いを定めた。


「私の故意により、鋭い白刃の先がお前の胸を貫き通すということは無いが、偶発的に、そのようなことが起こらぬとも限らない。血を見ない内に、ここから立ち去ることだ」


「ここは僕の部屋だよ」


 腰と両手を畳に落としたままの仙人見習いが、呆気に取られた表情でそう言った。私はそのまま後退り、襖を開けて明かりの無い廊下に出た。




 旅館を棄て、意味も無く繁華崩れの、汚れた通りを彷徨っている。真夜中だが全くの真暗闇ではなく、裏通りや路地を入った細道の其処此処には、商用の明かりが仄かに灯ったりなどもしていた。私はそれらの誘いに吸い寄せられるように、路地への入り口の一つへ足を向けながら、先程からの何とも発散させようのない不安感を抱え、頭の中身をうねらせていた。


 女が不当に扱われ、そうかと思えば男の人肉を喰っている。これは現実そのものなのか。そこまで考えてこの世界を到底、現実のものとは考えられないでいる自分に気が付いた。輝かしい朝日の注ぐ、河原の上のあの世界こそが、私に本当に見合った場所なのではないか。


 そのように唸っていると、店の入り口の格子戸、その上に横一列となって掲げられている、いくつものほの白い提灯が目立つ居酒屋が、路地の右手奥に姿を見せていた。格子戸からも店内の明かりが漏れていて、さざめく客共の酒臭く甲高い声色に、私も喉を潤そうと歩を進める。


 その居酒屋の店先に、ずらりと明るく並んでいたのは提灯ではなく、黒髪をおかっぱに垂らして青ざめた、子供達の首だった。皆一様に、両目をくりぬかれた、死に顔の表情で笑っている。不意に強い風が横に吹きつけ、煽られた一番端の子供の首が、隣の子の頭にぶつかりこつんと軽い音を立てた。格子戸を開けようとして手を触れると、どうやら中にいるのも皆、年端のいかぬ幼子ばかりのようだ。彼らもまた仙人見習いなのか、あるいは既に仙人と成り果てたのかと思い、私はそっと手を下ろして、その因縁塗れの場を後にした。




 白い朝日が瞼に痛い。これがあの、河原に降り注ぐ例の陽光であれば、何と心地好いことだろう。しかしここは色に染められた禽獣共の跳梁する、地獄並みの現実なのだ。


 ともすれば黝い眠気の下敷きになりそうになる、日の初めの重苦しさの中、坂になった石畳の道をずっと上っていくと、漸く目的の、鳥居の赤い端が上の方に見えてきた。玉取り神社とも魂取り神社とも表される、現実世界を貫くその空隙に巣食う、無邪気な無数の仙人共。私はこの内へ滑り込み、自分の正体を明らかにするのだ。


 鳥居を潜ると、大きな噴水をぐるりと囲む形で、魚介類や菓子を売っている、様々な種類の屋台がいくつも円を成しており、それらの香ばしい臭いが血のような香りと共に漂ってくる。そしてその店々の間を行き交う者、あるいは噴水に飛び込んで泳ぐ者は皆仙人、見せびらかそうという意図あからさまに何人もの少女を引きずり込み、一つの生の末を終える慰みを、彼女らに向けて求めている。我が憤懣をそこへやるべき苛立たしい喘ぎ声がそこら中で響き渡る中を、私は奥の方へ一人進んでいき、急で高い階段をせかせかと上り、町で見る占い屋によく似た、しかし彼こそはただ唯一の占術師と思わせる、何もかも真っ赤な装いをした占い師の前へ、私は歩み出た。


 無賃駅は無神駅なのであり、この世界でただ頼るべきは彼ら占い師かさもなくば仙人共、その思いを強くした私は占い屋の老師に問う。


「あなたも仙人に成ろうとし、挫折した方なのですか」


「そうではない」


 真っ赤な老師が静かにそう答えたので、私は心を落ち着かせる。


「そうではないと、私も思っておりました。あなたは私の進むべき道を照らしてくださる、ただ一人のお方だ。一目見てそれが私には察せられたのです。老師。私は先の世での、自分の姿を知りたいのです」


「私はお前と、同じだ」


 老師が顔を上げ、喋り出した。彼は、老爺とも老婆ともつかぬ、曖昧な皺だらけの顔だった。


「私も何故自分がここにいるのかの核心がつかめないまま、このような姿と相成った。しかし後悔はしていないよ。何故なら、私の前へお前が現れたからだ」


 始終掠れた声でそう言って、老師は片手を私の顔の前に差し出した。どこからか、女の声が聞こえている。


「お前は今からお前としての存在を捨てることになる。何故ならそれが定められていたからだ。途方の無い憎しみがそうさせた。お前自身の憎しみだ」「私自身の憎しみだ」「その通り。お前がいつも見ていた幻想、それはすなわち夢ではない」「夢ではない、もう一つの現実」「お前はそこで、生きていた。いや、今も生きている」


 朝日の溶け出す河原の上へ、女が手足を投げ出し横になっていた。彼女は今、生きているのか。近くへ寄って見てみると、果たして、その顔が女のものか男だったものか、それがはっきりしない。その口元へ耳を寄せると、また何か喋っている。


「汚辱を恥ともせぬ陽の塊の肉共を、魂の端まで切り刻め」「私がお前を占う必要などは無い。既に道ははっきりしているだろう」男だった肉塊を、私は放って河原を離れた。「ここがお前の場所だ」背に触れる刀の感触が、妙に硬くて気持ちいい。「私の分の苦しみも、お前が背負って歩き出せ」


 宿の近くまで、来てた。泊まったことはないけれど、私の無意識の手前にある記憶だ。私は中へ入り、宿の者がいないので、覚えのある道筋を辿って、部屋の一つの襖を開けた。


 中で昼食を食べていたのはやけに白っぽい青年で、彼は私の方を見ると、「あっ」と声を出し、「帰ってきたのかい」なんて言いながら立ち上がった。


「まるで、別人になったみたいだ」


 その若い男はすすと歩み寄ってくると、いきなり、私の胸に掌を押し付け、強く揉み始めた。


「む、む、胸だ。女の胸だ。やはり君は。僕の予感は当たっていた。胸だ。胸だ。それなら。さあ、着物を全て脱ぎなさい」


「何故、そんなことをしなければならない」


 私が血に掠れた声を発すると、男はやや退いて、当然といった口調で言った。


「君達は僕らの道具だからさ。他人は全て自分の道具なんて言うよりも、これはよっぽど分かりやすいと思うけどね」


 言い終えると、男はまた両腕を伸ばし、私の胸元に手を差し込もうとした。私は背の刀を抜き放ち、男の肩口目掛けて思い切り叩き下ろした。


「ぐぎゃあああ」


 ひいいいいっ、ひいいい、などと悲鳴を上げて、頽れていく男の首筋に、私は刃先を当てて言ってやった。


「うぬら全員が為した我らへの汚れた行為、その全ての恥辱をうぬらの血で洗い流すまで、私はこの世界で生き続ける」


 宿を出て、男だったものを溝に捨てた私の肩を叩いたのは、見間違えようもない仙人だ。


「おやお嬢さん、お美しい。そこでどうです、私と最後の死出の旅を」


 私はにっこり笑って、また、刀を抜くために手を後ろへやった。死ぬ目的を達することが出来る筈の仙人は、一瞬にして、人間らしい表情に染まっていった。








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