【試し読み】最後の夏は、きみが消えた世界

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1-1

「──? ねえ、──琉!」


 誰かに呼ばれていた。それは聞き慣れた声だった。

 だが、その声の主の顔が思い浮かぶよりも前に、不思議な感覚に襲われていた。

 それは、どこか遠くに旅立っていた意識が徐々に戻ってくる感覚というべきだろうか。いや、あるいは、自分とよく似た何かが自分の中に入ってきて、同化していくという感覚に近いのかもしれない。

 貧血を起こした時のように頭と視界がぐるぐる回っていて、焦点が合わない。同時に割れるような頭痛が襲ってきて、思わずうめき声を上げた。

 少しずつ、少しずつ聴覚と触覚もよみがえってくる。

 ミンミンぜみの鳴き声が頭の中でだまし、ようしゃなく太陽光が肌を照り付けていた。熱風が顔をかすめ、そのりが心地よいものでないことを痛感させる。

 少女は変わらず、必死にこちらに向かって何かを呼び掛けている。どうやら自分を心配してくれているらしいというのはわかるのだが、意識がはっきりしないせいで、彼女が誰なのかを認識できない。


「──ねえ、たけってば!」


 顔を両手で挟まれる感覚とともに、名を呼ばれる。

 わかった、わかったから心配するなって。俺は大丈夫だから──彼女に心配掛けまいとする言葉を頭の中で思い浮かべているうちに、自我も少しずつ蘇ってきた。回っていた視界や頭が少しずつ自分のコントロール下に戻ってくる。

 それと同時に、左の手のひらと尻がやたらと熱いことに気付いた。真夏のコンクリートに手と尻を付いていたのだ。


「はあ!? 熱っ──あぐぁ」


 熱を自覚して慌てて立ち上がろうとするも、再び頭に激しい痛みが走り、身体がぐらりと揺れた。もう一度尻餅をつきそうになったところを、少女の手にしっかりとかかえられる。


「ちょっと、壮琉! ほんとに大丈夫? 救急車呼んだ方がいい?」


 少女の声がはっきりと聞こえ、うつろになっていた頭とぼやけていた視界が晴れた。茶髪ショートボブでくりくりとした大きな瞳が印象的な少女が、こちらを心配そうにのぞき込んでいる。


「あ、れ? ゆず……?」


 倒れそうになっていたところを支えてくれたのは、幼馴染のあま柚莉だった。小柄な身体にも関わらず、壮琉をしっかりとかかえてくれている。

 ぴったりと彼女の身体とくっついてしまっていて、制服越しに彼女の火照った肌の感触と熱が伝わってきた。


「わ、悪い……俺、どうしたんだっけ?」


 九星くぼし壮琉は慌てて身体を離すと、自らのひたいに手を当てて状況を思い出そうとする。

 しかし、全く思い出せなかった。自分がどこにいて何をしようとしていたのかさえわからない。ただただコンクリートで焼かれた手のひらの熱が、額に伝わってくるだけである。


「いきなり呻き声を上げたかと思ったら、座り込んじゃったんじゃない。ほんとに心配したんだから」


 相変わらず柚莉は心配そうにこちらを見上げていた。その瞳からも尋常ではなかった様子が見て取れる。

 熱中症にでもなったのかと思ったが、気付いたら体調はすっかりもとに戻っていた。自分でも何が原因だったのかわからない。


「心配掛けてごめん。それで、えっと……俺ら、何してたんだっけ?」


 再度柚莉にいた。制服を着ていることから学校帰りだというのはわかるのだが、周囲を見る限り壮琉達の通学路とは異なっている。どうして自分がこんな場所にいるのかわからなかった。

 その質問に、柚莉がろんげな表情で首を傾げる。


「……ほんとに大丈夫? 病院、行った方がいいんじゃない?」

「ああ、うん。それは大丈夫。もう気分は悪くないから」


 先程の体調不良がうそだったかのように、今では頭痛やまい、焦点のズレはなかった。ただ、記憶に関する部分だけが全然すっきりしない。今日が何日で何曜日なのか、全くわからなかった。

 柚莉はあきれた様子で言った。


「学校から帰る途中だよ。もうすぐ〝てんきゅう彗星すいせい〟が流れる日だから、どこで見ようかって話だったじゃんか」

「あ、そっか……そうだった」


 その言葉で、何となく状況を思い出していく。

 そうだ。今日は七月十四日で、球技大会の帰りだった。一週間後に控えた天泣彗星に備えて、どこで見るかを話し合いながら帰っていたのだ。


「もしかして、試合中に頭でも打った? 頭を打つ程熱心に取り組んでいたようには思えなかったんだけど」


 柚莉はかばんの中から先程自販機で買ったばかりのミネラルウォーターを取り出すと、壮琉に手渡した。

 握る手にその冷たさが染み渡り、ほんの少しだけ暑さが和らぐ。


「人数合わせで参加しただけなんだから、仕方ないだろ」


 壮琉はそう愚痴をこぼしながらキャップを開け、水を口に含む。

 冷たい液体がのどを通り、心地よく体内に広がっていく。暑さでむしばまれた身体がやされていき、活力が戻ってくるのを感じた。


「ほぼほぼコートの隅っこで突っ立ってただけだったもんねー。せっかくあたしが応援してあげたのに」

「うるさいな。ああいうのは運動部の目立ちたがり屋に任せておけばいいんだよ。俺にボールを回されても困る」


 柚莉の悪戯いたずらっぽい笑みに対して、壮琉は不機嫌な顔で返した。

 壮琉が参加した競技はサッカーだった。特にサッカーが好きなわけでも得意なわけでもなかったが、人数がひとり足りなくて困っていたので、仕方なく出ることにしたのだ。

 もともと戦力として期待されていたわけではないし、頑張るつもりもなかったので、隅っこで立っていただけである。そもそも、この厳しい暑さの中でグラウンドで駆け回るという行為が理解できない。

 それなのにこの柚莉ときたら、名指しで応援してくるものだから、居心地が悪いったらありゃしなかった。走れー、ボールを奪ってシュートを打てー、などと言われても、サッカー部を相手に人数合わせのDFディフェンダーが活躍できるはずがない。ただただ恥ずかしい思いをしただけである。


「それで、どうする?」

「どうするって……ああ、彗星のスポット探しか」

「うん。あたしはこれからバイトだし、壮琉も体調悪いならまた今度でいいと思うけど」

「いや、体調ならもう大丈夫。見に行っておくよ。時坂ときさか神社の方がいいんだっけ?」


 眩暈を起こす前に、確かそういった会話があったように思う。

 柚莉は今月から喫茶店でアルバイトを始めたと言っていた。それで、彼女がバイトで忙しいから代わりに見晴らしのいい場所を探しておいてほしい、という話だったのだ。


「うん、そうそう。あそこの裏って高台になってるじゃない? だから、見えやすいんじゃないかと思って」

「おっけ、見に行っとく」

「ありがとー。では、勤労なるなんじに褒美としてそのお水を進呈しよう」


 柚莉がどこかの王様のように偉そうに言った。それに応じ、壮琉も「有り難く」とペットボトルに両手を添えてうやうやしく頭を下げる。

 こんなアホみたいなやり取りに乗っかれるくらいには体調ももとに戻っていた。その様子を見て柚莉も安心したのか、顔をほころばせる。


「じゃあ、そろそろあたしはバイト行くね。あとよろしく~」

「あいよ。気ぃ付けて~」


 気の抜けるような挨拶を交わした後、柚莉はぱたぱたと走っていく。角を曲がる前にこちらを振り返ると、喜色満面で両手をぶんぶん振った。

 小さく手を振り返してやると、彼女は満足したように再び笑ってから、曲がり角へと姿を消した。

 壮琉は手元のミネラルウォーターを見つめて小さくめ息を吐くと、時坂神社の方へと向かったのだった。

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