第1話 目覚め
ぼんやりと、彼女は目を開ける。そこには何の変哲もない、木でできた茶色い天井が広がっているだけだった。そこは自分の家なのかもしれないが、不思議と彼女には何の感慨も覚えなかった。
目だけで、自分のいる場所を見てみる。そこは、蓮の花が薄い黄色の紙に描かれた窓に囲まれている部屋だった。必要最低限の調度品だけが置かれた殺風景にも見える室内で、彼女は部屋の隅にある寝台に横たわっていた。
彼女が起き上がろうとすると、なぜか全身に鈍い痛みが走る。やっとのことで起き上がってから、寝台に一番近かった窓を開けた。
(この部屋はどうにも息苦しい)
と思いながら再び部屋を見回す。しかし、そこには香炉の類は何一つなかった。最初はてっきり、香炉から醸し出される香りが部屋中にこもっているのかと思っていたのだが。
(単に長いこと窓が開けられていなかっただけなのか)
彼女が今度は隣の窓を開けた。窓の外は塀で囲まれている。そしてその塀を、何者かがよじ登ろうとしていた。
本能的に彼女は窓から遠ざかる。しかし、塀から頭を出した青年は、幸か不幸か彼女を見逃さなかった。
「やあ!」
と、明らかに彼女に呼びかけるその声は、穏やかで柔和なのに、その中央には芯が一本通っていた。しかし、まっすぐに上がった眉と筋の通った鼻、奥二重のようにも見える二重瞼を持ち合わせている、見るからに整った顔立ちにはいささかふさわしくない声ともいえるように、彼女には聞こえた。
「君は誰なんだい?」
彼女がむくむくと沸き起こる恐怖心と戦っているのにまるで気づいていないのか、塀上の青年は、相変わらず無垢な笑顔を浮かべて、彼女に話しかけている。
「ねえ、君は誰? 私は
菱珪玉は相変わらず興味津々、といった面持ちで彼女を見つめ続けている。彼から自力で逃げるのは不可能だ、と一瞬で理解する。仕方なしに、彼女は自分の名前を思い出そうとしたところで、初めて気が付いた。
(私は何者なの?)
彼女は何と返したらよいかわからないでいると、自分では制御できない、徐々に焦りにも似た感情が芽生え始めた。
だが、少ししたところで彼女の見えないところから厳格な野太い声が聞こえた。
「菱公子。塀から降りてください。それから、上官府内では騒がないように。家の規則ですので、それだけはご了承を」
「……はい。すみません、上官当主」
菱珪玉の姿が見えなくなると、その次に現れたのは、埃一つない整った身なりをした男だった。顔立ちは決して美形、とは言えないが、若かりし頃はそれなりに整った風貌だったことを思わせる奇妙な容姿をしていた。そして彼女の目には、神のごとく神々しい光まで一緒になって見えたような気がした。
上官当主は足音すらも立てずに、ゆっくりと彼女のいる部屋に向かってあるいてくる。少しすると、彼は扉を開けて入ってきた。その手には、お盆に乗っている氷晶でできたお椀があったが。
「目覚めましたか」
と言いながら、彼は何もない卓上にお盆だけを置き、お椀を彼女の元へと歩いてくる。
「目覚めたのならよかった。さあ、薬を飲む時間です。熱いうちに」
彼女は差し出されたお椀を受け取り、薬を飲んだ。それはすでにぬるくなってしまっていて、全身をぞわぞわと包み込むような苦みに襲われてしまったが。
思わず彼女が顔をしかめると、上官当主は袖の中から薄紙の包みを取り出し、それを彼女に差し出した。
「よかったら、これを食べますか?」
「……これは?」
「飴です。薬は苦いでしょう? この飴は特別甘いですから、よかったらぜひ」
今度はその飴を受け取り、包みの中から金色の飴を一つ口に含んだ。少しずつなめていくと、苦い口の中に優しい甘味が徐々に広がっていった。
「ところで、体の調子はいかがですか」
「少し頭が痛いですが、他は特に」
「そうですか。それなら、また医者を呼んで薬を処方させましょうか」
「それは、どうも」
「とんでもない」
上官当主は会釈だけをして卓上のお盆に向かって歩いていく。その後姿に向けて、彼女は不意に尋ねてみた。
「あの、あなたはどちら様ですか?」
すると、上官当主は振り返って、彼女に向けて言った。
「
上官双晶、上官家、と口だけで彼女は言ってみる。どこかで聞きなじみがあるような気もするが、結局何も思い出せなかった。だが、自分の名前ですら思い出せないのだから、それも仕方がないのだが。
「上官当主。では、私は何者なのでしょう?」
と、彼女が言った時、上官双晶の顔に驚きの色が俊敏に駆け抜けていった。
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