「商談」~(『夢時代』より)
天川裕司
「商談」~(『夢時代』より)
「商談」
朝、昼、夕、どの時刻か判らないが私は段々に成った大きな階段が在る場所に居て、恐らく誰かがその階段の一番下の処で説教か演説をして居た様だった。キリスト系教会の信徒の集まりで在った為、恐らくそれは説教だった様に思う。今は放って置かれて当たり前の人権尊重に依るものだとは知って居ても矢張りそれは悲しく、又、あの幼少の頃に戻りたいと欲するものであり、その温かさだけを享受したいと我が身勝手に実際に呟いたりもするものである。恐らく明るかった。未だ出来事がこれから何度でもやって来れる様にその私が居た時刻は昼という事にしよう。そう昼だ。確かに周囲は明るかったし、その後で少し、夕暮れを見た様な気もする為。風も緩やかだった。まるで一分一秒がほんのゆっくりと流れて行く様で、私のこの成長を誰かが態と手の平の上で転がして、遊ぶ様に見て居る様でも在る。気の好いクリスチャンの聖隷達が私の眼に映る。何処かで見た顔や、瞬時見て忘れて仕舞った表情(かお)等色々在って、私は、中段辺りからゆっくりと下方へと下りて行きながら、座って並ぶその表情達を黙認して居た様子だった。そこには確かに知って居る顔も在り、川辺さんや又栄子の姿が在り、一番下で説教して居るのは、その姿を確認した訳じゃないが、きっと安沢氏だろう、という程確信に近い予見も在って、順繰り順繰り見詰め直して行く内に私の心中には又恐らく、黄金風景の様な程良く冷たい懐かしさが充満して行った。自分の事を他人はどんな風にして見て居るのだろう、等、取り止めも無い事を自由気ままに連想しながら私は唯、夕日を見て居る。黄金に輝きながら辺りを照らし、この黄金風景を醸し出してくれるその夕日で在る。何時も通りの着想がこの身を焦がす様にして唯遠くで光り始めた。その輝きは瞬時にライトがパッパッと点滅する如く奇怪なものとして在り、誰が見てもその正体を掴み切れないものとして在る様で、恐らく栄子でも川辺氏でも安沢氏でも、人間で在る為に、私と同様のスタンスを取ら去るを得ないだろうと、又、唯、素直に思わされる。私は谷崎潤一郎の「卍」や「痴人の愛」、仄かに「細雪」、「春琴抄」等を思い出して居て、男女の愛、スキャンダル、女性愛に恋する男が直面する事と成るマゾヒズムに肖る臨場に唯、湧き上がる泥めいたエロ・グロと共に身を潜める事に成った。私は以前自分の事を、耽美派詩人である、と謳った事が在り、未だにその旨は変らず、又、その「耽美派」という範疇に於いては「自然主義文学」、鴎外の「高踏派」、漱石の「余裕派」を始め、果ては太宰や安吾、織田、石川、又三好十郎迄が属するとされる「無頼派」(新戯作派と同義と私はして居る)迄も構築する余裕的なミステリアスなモノトーン(基調)が潜むとし、これ等全てを収めた「耽美派」が私のものだと吹聴し回った事が在り、幾人かはその意を絶賛してくれたもので在る。無論、何もしないで文句だけを連ねる者や、果た又、己の主張に陶酔しながら早稲田の文士の様に、何やら記帳された文学討論をその身に掲げて「否、これはこうだ。」「あれはこの無粋な文句にやがては身を落とす事と成る!」等力説を唱える様にして、何やら物理の力学に訴え掛ける様な自己主張を唱える者にこの身を任されそうに成った事も在り、辛酸を嘗めた事実は変らずに在ったが、私には、彼等の文句を唯、傀儡が仕立て上げた嘆かわしいものとして見捨てた記憶の方が鮮明に残って居るのである。どちらにせよ、私が憶えたこの「耽美」というのは唯「陶酔の享受や形成に至高を求め、デカダンの衰退主義に身を置く数々の文士が掲げたモノクロの美を享受するもの」としてでは無く、人が生きて居れば自然とどのone sceneにも身を潜めて居る「憧れへの自身の衰退、加齢に伴う死への戦慄」等の意を込めた密室の快楽を求めるものとして書き綴り、その真価の至高を極めるものとして在る、云わば、人の究極的な思想を押す武器として在る、事への推進を図るものとして捉えて居るので在り、又これは、19世紀のフランスやイギリスの生産品では無く、日本人、否世界各国の人々の現在に存在する「憧れへの美学」で在る、と業を押したもので在る。依って審美に止まらず、又過剰演出にも止まらない一個の古生物の様な確立した文学推論としてその身を立てて居るもので在る、と私は審議し、審美するので在る。何事も、その身を暗い土蔵に認めて、天井から落ちて来る自然が構築した一滴の水に背中を押され人の心底に在るブラックユーモアを奏で続けて行けば、自ずその構築はその自然の内で持て囃される事と成り、又運が良ければそれを為した者は「文豪」又「大―」を付されて称される者と成り得る。唯、一個衰退、それだけのもので在る。
私は色々の文学進化論の様な、所謂デカダンスに始まる渦中の審美に就いてこの身を収められる〝行く先〟を探し、一時は又、旧い土蔵でも在る栄子の身の中にそのオアシスの様なものを求めて居た。私は常に頑なな心境を守りながらも自由に吹き狂う風の有り様に遂にこの身の限界を感じて、断固男に生まれたので在れば女の善し悪しを知る事も必要だと身を崇められて又背中を押され、遂に、その時自分を解してくれ得る女性を求めて彷徨う事と相成った。何処迄行けども砂漠のオアシスに拡がる無尽蔵な土の一粒の産物の様に人々は烈火の如くオリジナリティを構築して在り、私はそのオアシスの周りを無情な必然に駆られる様にして唯ぐるぐるぐるぐる回らされる事と成り、確かに一個の安心に似た快楽主義者達が成す〝厩の光物〟の様な試産品が在るには在ったのだけれど、何分その時の自分の身の上にはそれだけでは物足りない様子で寂しく、恐らくそれは、これ迄の土煙に汚れて真冬の寒気、寒風に晒され続ける如何仕様も無い寂寥感が為させた業かも知れず、進退窮まった我は唯、女の温もりを一途に求めて、自然の硬直に逆らえずに居た訳で在る。この気持の成れの果てに就いて漢語、雅語、俗語、方言、等あらゆる文字ツールを並べて説明してもその意味を成すのは一つの出処から来る物で在り変らず一緒で、可憐な花に咲いた一黙の、一盲の砂漠は満を持す形で方々へと散らばり、数々の人々の思惑と心境の変化が織り成す構想の頭上へとその身を移し、個人を陶酔させて行くものなのだ。これ迄の人の熱病が見せ得る物として在る数々の歴史小説、口伝・説調の幻想譚やナンセンス物とされるリアルな滑稽劇には、これ等の風刺が同様に織り交ぜられて居り、人は無意識の内にて藁を啄み画策して、果ては他人の物、自分の物と、その領域を示して居るに過ぎない。私はこうした物憂い思想譚を基にして女という女を一個の自分の為に貪り読もうとその序章で在る自分と女との間に跨る空気・オーラを我が物として、唯々、一網打尽に思惑を束ねて推進して行ったので在る。成程栄子も教会の信徒の内の女性徒達も、果た又、現在私が通う大学校内に居る女生徒の顔達も既知・未知を問わずして目前に現れては己が箴言を語り、自然から構築された甑にて追従してくれる者と未だ未知の存在を着たがる者とにその身を分け始めて行く。真っ赤な晴空を背景にした大山の尾根のスカイラインが一功を制する如くに、その山の麓に在った広い池から寒さに依る湯煙の様なオーラが立ち上り、我が思惑と、自然に身を隠して行く多数の個の行方を再度眩まし始めて、私は唯この独り善がりの密室の内にて泰山北斗を提唱しながら身の持ち方をあれこれ算段し始めて居た様だった。その時その時の苦労に身が窶れ果て心迄も歪められて仕舞う様な孤独の凄惨とでも言うか、その肉体の強靭を目前にして、私は遂に身を引き取る様に無意識の内に現実のこの意識を埋葬させて行くので在る。
ふと見上げた凡庸とした日光の輪に我はその身上を気付かされ、又、今度は自分が通って居る大学と思われる校内へとワープさせられて、何の目的か知れぬが唯人が集まって居るその群れの内に、可憐な美少女も何人か混じって居る事に気付かされた。その美少女達は数はそれ程多くは無かったが、その存在価値を問えば、そこに集った男共の倍以上の集団の数さえ遥かに凌駕出来るものとして在り、又一個の男も女も見捨てて置けない俊敏な過労を呈させる、億力の様なものが見え隠れして居て、そんな有り様は誰から見ても明瞭で在った。まるで冬なのに身内を温かくさせる春風を創り出す、そんな暴力さえ秘める神秘の産物と言って良かった。私はその娘達に気が付いて近寄り、しかし表情は明後日の方を向けて態と、その娘達の気持が揺れ動く余裕(ゆとり)の様なものを構築して、只管に唯、その娘達が自分を見付けて自分の為に気を遣ってくれる事を願って居た。その時の私の前に、二人の娘が居た。一人は白い毛糸の帽子(頭髪に面する淵の僅か上辺りにはラーメン茶碗の模様の様に、一輪を描く模様か横文字が刺繍されて居た)を被って居り、フワフワで柔らかそうな真っ白いマフラーを首に巻いて、確かグレー色したハーフコート、赤と白の毛玉の付いたミトン手袋を填め、下着は普通で、靴は恐らく茶色のズック(canvas shoes)で身を固め、この身の寒さに冬によく見る人々の完全防備を呈したルックをして居たが、その身の上には女特有の男を取り殺せる春の息吹を秘めて居た。もう一人は、その山上の一輪の花に添えられた妻の様な存在と成って居て、確かに相応の自己主張が在るのだが、その子の笑顔は常に私へのものと横に居るメインディッシュの娘とに分けて放散されて居て、その魅力を一つ、半減させて居たのだ。確か、深い緑色したコート、赤いマフラー、指付きの赤い毛糸の手袋、茶色のズボン、そして靴はメインディッシュと同様のズック靴で在ったがやや小振りで矢張り茶が基調の地味な物だった様に記憶する。そして肝心な器量が、そのメインディッシュと妻では矢張り僅かでは在るが格段に、違うもので在り、メインディッシュの器量は白い化粧に支えられて陽光に光り輝く表情をして居りその微笑はこれからやって来る快楽を存分に引き立てて、まるでお汁粉の中の白餅が濁り汁に見え隠れして、その表情を全て出せないままで孤立した美しさと美味とを見る者に満喫させて居る様な節が在り、私は恐らく一瞬で、そのメインディッシュの看板を掲げる娘への虜に堕ちて仕舞った様子が在る。もう一人の娘は引き立て役にしてはその地味な器量が災いして(地味子を愛する諸君は解ると思うが)、その身の清潔と貞淑、果ては強大成るエロスの世界へと誘ってくれ得る貞潔の慇懃がその身を彼女のオーラに収め、一瞬で得体の知れない優柔な快楽を享受させられて仕舞いそうな幼艶を兼ね揃え、その挑戦状を我に突き付けて来る。しかし私はその場が公共の場で在った事と、未だ見知ったとは言え、知己以上のふしだらに身を堕として居なかった事が幸いして、そのメインディッシュの方にしか愛着が湧かず、もう一人の妻は唯、常識というものを掲げる明礬の様な働きにその身を止めて居た為、私は一向して振り向かず、興味を抑える事が出来て居た。少し遅い小春日和を思わせる真冬の日の事で在る。
その娘達は娘特有のもじもじした態度を私に見せながらも徐々に近付いて来て、何やらバザーが始まった様な学生運動が盛んに成る中、忍び足で己が心中を明らかにして行った。良く見ると、その娘二人の向こうには、何人かのその娘達の友人が潜んで居る様子で、学生運動に身を紛れさせて相応にそちらを楽しみながらでも一々こちらの関係にその都度気を向けて、まるで触覚を揺れ動かして居る様だった。しかし、その向こう側に身を潜めて居る女子達の内には大して器量良しは居なかった様子で、云わば、このメインディッシュの右隣に居る引き立て役の妻の様な存在にその身達を引き止めて居た為に、私は専ら、この、今自分の目前に居るメインディッシュへと矢張り、気を向かわせねば成らなかった様で在る。しかし我がエロスを図る分にはその妻も、二人の背後に在る引き立て役達も十分にその真価を発揮させ、未熟ながらにも、自分達のエロスを奏でるには十分の魅力を醸し出して居たのは言うまでも無い。そう、彼女等の男を狂わす魅力とは、その未熟さに在った様子なので在る。〝未熟〟故に女は或る一定した常識が奏でる各エロスの領域をかなぐり捨てて自分達の本能で以てその生命をこれ迄構築されて来たエロスの構造物の内に浸透させ、内部から、人々が見知ったエロスの土台、雰囲気、あらゆる内実が持つ格別の冥利の様な物を崩壊させ、新たな刺激を以て個人だけの快楽の世界へと導く事が出来、彼を彼女を、誘う者はその案内人唯一人で在る。余計なものが駆逐されたその明星が緩く辺りを照らす朝まずめの様な空間では、男女共に常識の服が脱がされ、独りでに浅黒ナンセンス、郷里の友、忌みじく育った恋敵との煩い、春秋に奏でるエロスの郷里へとその心身を焦がし委ねる事と成って、まるで悪魔に魂を売った様にも成る。男女が魚類に戻り、食べた分だけ肥え太って行く夕月に奏でられる様な必見の群青がその二人の身に襲い掛かり、やがて二人共が痛みに鈍感に成って、濃い霧の戦慄へと歩き去る事に成る。苦しい快楽とはこの様なもので在り、これは老若男女問わず揺れ動く駆逐艦の体裁として在り、絶えず「常識」という敵を遣っ付ける為に、既に出来て居る準備に尚発破を掛ける様にしてその砲台に人を陣取らせて居る訳で在る。人の、常識を破ろうとする努力は、絶えず末恐ろしいものとして在り、又絶えずその正体を考えさせない様にと尽力して居るもので在る。私は「朝まずめ」成らぬ「夕まずめ」にこれ等の情景が成し得る道程を見て居た。
二人の娘達は遂に私に喋り掛けた。「(貴方の事はもうずっと以前から見て来たのよ、とでも云わんべく)○○ちゃん(○○には私の苗字が入る)、○○ちゃんやんな?」と抑え切れない笑みを微笑に止めて問い掛けて来たのだ。「うん、○○ちゃん…○○ちゃん、」とまるで確認する様にして何度か、二人して、又、互いの顔を見合せながら、呟いて居た。その確認する間際の要所要所で、「ウフフ…」と笑う行為も忘れずにして居り、その行為が何やらその時の私の気を唆って、私にとってはこの娘達が、甚大に可愛い者達に見え始めて、又強大で強靭な、母性の体を思わせるものと成って居た。白紙に一点書いた文字が、やがては自らを陶酔させるモノクロの力を秘めた、初々しい原動力の様なものにその姿を変えて、又、私の元へと還って来た、そんな感じに思えた。私は確かにこれ迄の経験の内で、その「○○ちゃん」という愛称を以て周囲の人達からそう呼ばれて来て居り、故に、尚更この娘達が、又この娘達の(恐らく)友人達の間でも、その様に自分が既に呼ばれて居た事に非常の喜びを以て対峙する事が出来、私は瞬時では在るが、この娘達二人、そして私をそう呼んでくれて居たこの娘の友人達を、密かな敬意を示すと同時に、愛して居た。好きに成ったので在る。気味悪がられない程度に近付こうとしたのはこの時からで在り、私は先ずこの二人の娘達の表情を具に観察しながら、蛻の殻に成った自分のこれ迄構築して居た常識が占めて居た境地に新たな思想展開を奏でられる至高の〝霧ヶ峰〟を築こうと躍起に成り、何時でも噴火出来る幻の泉と、彼女達を良く見渡せて、程良く霧が佇む事で自分の身を隠せる望郷の泉へと続く道程を心に刻んで、唯只管に、この娘達との常識が奏でる斡旋作業に身を乗り出して居た。―――――――――――――自然消滅!
私は億尾(噯)にも出る苦境の深い溜息を心中に洩らしつつ、何故に孤独で居続けなければ成らぬのかを終ぞ考え倦ねいてはそれに就いての解答を見出せないまま、儚くも散って行く心中の〝霧ヶ峰〟に唯一人佇み、又、遥か下方に在る望郷の死と、顛末を炎に迄伸し上げる事が恐らく可能で在るとする噴火された炎に身を焦がしながら、頭上を暗く、ゆっくり甚大に覆って行く雲の隙間に身を呈する努力をし続けるしか他無かったので在る。そして私はキリスト教徒達が集って居るあの長く大きな階段が在る場所へと戻って行った。
又、栄子が忙しそうに、その階段に並んで座って説教を聴いて居る信徒達の前列と後列の間を、所狭しと駆け回って居り、私は少々辟易しながらもその集団に入って良いものか否か迷い迷いして、結局は加わる事にし、何気に散歩がてらに見える風景に興じる形で信徒達の有り様を見ながら、又栄子の尽力の程を垣間見、自分の置かれて居る立場に就いて酷く問答しながら、その階段に並んで座る事はしないで、唯ふらふらと、ふわふわと、歩き回って居た。自分の行動も、そこに流れる時間の速度も、非常にゆっくりとしたものにその時の私からは見えて居た。
そこで私は遂に、栄子と、その栄子の父母、又親友で在る熱心なキリスト教信者から、何か大事な箴言めいた内容の言葉を聴いて居た筈だが、目が覚めると同時に忘れて居た。まぁ良いか、として私は二階の自室から階下へ降りてトイレでぼんやりした後、不意に、顔を洗おうと思い、洗面所へ行く事にした。その時自分を取り巻いた緩やかな空気の流れとも言える風と、夕方四時頃に見た程良い黄金の様に照らされた(窓から見えた)景色が相俟ってか、私は恐らく少年の頃に経験して居た同様の光景と情景とを心中で甦らせて居たのだ。私を取り巻いて居た空気、風、は、程良い冷たさと内から温もりを感じられる程の暖かさとを持って居り、私のこういった思惑を奏でるには十分の気質を備えて居たので在ろう。私は本当に嬉しく思い、快適に思って、洗面所で歯を磨いた後、「良い、この景色は良い、あの黄金風景…、なつかしいなァ…」と一人、悶々とした空気の三十路が思わせた屈強の炎に対して、私の心中で作り上げた自然の泉が身を乗り出し、安らげてくれたので在る。怒涛の様な嵐で在ったその夢は瞬く間に悲惨な末路を奏でて、まるで死境の彼方へとその無尽を呈しながらに降り立って行った様で在る。景色の算段に我が身呈すれど一向に試作の解決口はその糸さえ見せずに、芥川の〝蜘蛛の糸〟ではないが、殉教して死んで行く者達が掴み掛ろうとする〝純心が見せる糸〟に縋り付く人間の悪鬼の部分が又頻繁に顔を出して、現実とあの空間との斡旋を願い構築して行こうとする人の思想(詩想)に就いて私は夢の内で、傍観しながら算段し、己が根城を取り巻く不況の凄惨を文字通り清算しようと画策して居た事に自ず、気付かされて居た事は言うまでも無い。
「商談」~(『夢時代』より) 天川裕司 @tenkawayuji
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