第15話 夕暮れの初会合
「あー……」
今日も
「うー……」
全然仕事に身が入らない。
何故なら。
昨日、この腕に抱いた桃の感触が忘れられないからだ。
細い腰に、温かい頬。絹糸のような髪とふわふわ柔らかな唇。
そして、とろけるように甘い吐息……
「おー……」
健康を持て余す二十八歳には、身を滅ぼす毒にも等しい。
圭一郎は出社してから、誰の目にも見えないのを良いことに朝から悶えまくっている。
コンコン
ノックの音がしてすぐにドアが開く。確かめもせずに入ってくる者など一人しかいない。
「社長、午後からの会議の資料で──」
「へええ……」
「おおい、圭の字ィ!!」
クラゲのようになっている圭一郎に、秘書の
「……まったく、しっかりしてくださいよ。色惚けてる場合じゃないでしょ!?」
「申し訳ない……」
圭一郎は背筋を正して社長椅子に座り直して謝った。精神的には正座をしている。
「十九の小娘の色香に迷ってどうするんです!これだからロリコンは!」
「だって、可愛いんだもーん」
「……わかりました。不肖、山内、解雇を承知で殴ります。これはただひたすらに忠臣の意であり、私はこの命をもって諫言申し上げるのです!!」
「わかった!ふざけ過ぎました、ごめんなさい!もうしません!」
圭一郎は慌てて両手を合わせて謝った。それで山内も振り上げた拳を下ろす。
「とまあ、コントはこのくらいにしてですね。社長、業務が終わりましたらお時間をいただけますか?」
「……構わないけど、何だ?」
「『帰りが遅くなるのやだなあ』みたいな顔してもダメですよ」
白い目で見る山内の言葉に、圭一郎はギクリとした。俺の秘書は鋭すぎやしないか。
「む……。わかった。それで何の用事が?」
圭一郎は表情を取り繕って、今更無駄な抵抗なのだが、一応社長の威厳を出そうとした。
「は。昨日少しお話した例の探偵、早速お目にかかりたいと申しております」
「そうか、わかった」
「ありがとうございます。それで本来なら向こうから出向くのが礼儀ではありますが、職種が職種なものですから……」
「まあ、確かにそうだ。私の方から訪ねよう」
ヤクザ崩れの探偵を会社に入れる訳にはいかないし、屋敷に招くことも桃がいるのでできない。圭一郎は威厳たっぷりに頷いた。
「有り難きに存じます。では、終業時刻になりましたらお迎えにあがります。
「わかった。よろしく頼む」
そうして山内は分厚い会議資料を目の前に積み上げた後、静かに退出していく。
「あ、その資料、読まずに昼食なんかとったら社長のロリコン癖を言いふらしますからね」
部下にあるまじき脅し文句を残して、山内は社長室を出た。
圭一郎は大きな溜息を吐いた後、ようやく仕事に取りかかった。今日の昼食は喫茶店からサンドイッチの出前を頼むしかない。
夕方、圭一郎は山内とともに繁華街へと赴いた。途中で早川の車を降りて裏路地を歩く。
ジメジメした通りは独特の匂いが充満していて、圭一郎は少し気分が悪くなった。
「ああ、ここです」
数歩前を歩いていた山内が雑居ビルの前で止まる。そこはバーやスナックが店舗として入っているようだが、嘘のように人気がなかった。
「足元、お気をつけください」
外階段を登る山内に圭一郎もついていった。ゴミなどがそこかしこに転がっている。圭一郎にはほぼ縁のない光景だった。
三階の踊り場からビルの中に入る。入ってすぐの部屋のドアを山内が叩いた。半分腐っていそうな木製のドアは鈍い音を立てた。
「ああ、どうも。ようこそいらっしゃいました」
すぐにドアを開けて背の高い男が顔を出す。彼は山内を見て少し笑った。
「今日は社長をお連れした。早く中に入れなさい」
「ああ、はいはい。そうですね、どうぞどうぞ」
山内は声を落として圭一郎を部屋へと促す。急いでその背を中へ押し込めて、自分も足早に入りドアを閉めた。
「……」
中へ入って圭一郎は唖然としてしまった。
この部屋の住人は掃除というものを知らないのだろうか?
本やら書類やらが床に散乱している。辛うじて見えているのは机だろうか、それも紙の束で全容がわからない。
古くてボロボロのソファには、同じようにボロボロの夏掛けがかかっている。きっとここで寝ているのだろう。
「社長、すみません。まさかここまで汚い事務所だとは思いませんで……」
山内は少し焦っていた。探偵はそれを聞いて慌ててソファの周りだけでも片付けようとする。
「すいませんね、最近仕事がなくってちょっと……」
探偵はボロボロの夏掛けを取り払って、ソファをポンポンと叩く。するとホコリがわっと舞った。
「ちょっと!ゲホゲホ!何やってんの、あんた!?」
「すいません、せめて座ってもらおうと思ってぇ」
「社長がそんな汚いところに座るわけないでしょ!いいから──」
「ああ、大丈夫だ」
喚く山内を制して、圭一郎は躊躇いもなくそのソファに腰掛けた。
「お……」
探偵は意外そうな目で圭一郎を見ている。その目を見据えて圭一郎は切り出した。
「早速ですまないが、仕事の話をしよう」
「……わかりました」
探偵は向かい合った木の椅子に腰掛けて、くたくたの背広の内ポケットから少し黄ばんだ名刺を差し出した。
「濱家、といいます。よろしく」
にっこり笑った顔は、山内同様に信頼がおけそうな雰囲気だった。
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