残響フラッシュバック

松蓮

本編

 洗面台の排水口へ白い液体が流れていく。

 頭を上げると、人形のように端整で、血の気のない顔が鏡に映っている。口元の液体をその男は真っ白なタオルでぬぐった。手元に置かれた容器を取り、藍色の蓋を締める。

 そのまま容器を棚上に戻す。プラスチックボトルに記載された人造血液の文字。扉を閉じ、文字は闇に沈んだ。

 

 ふと鏡に向き直ると、背後の侍従に気がついた。

「黙っててくれるな」

「……」

 彼女は目を伏せる。その脇を通り過ぎ、リビングに戻るとチェアに腰掛けた。吐き気はむしろ目を覚まさせ、何か、何かが脳裏をかすめ始める。

 かすかに震える手でペンを取り、手帳を開いた。


「お前が羨ましいよ」

「なんで」

「恵まれてるから」

 少年と話している。容姿はおぼろげで、声色も定かではない。もっと薄汚れていただろうか。

 ドールズが世間を騒がせていたころ、この家の近辺にはあの広い公園があった。誘拐事件が多発し、封鎖後に取り壊されたあそこだ。この部屋のカーテンを開ければ、跡地に建つ高層ビルが見える。

 若い時分、あそこには近づかないように、と父に言われていた。友人がいるから、とせがめば付き人を当てられた。共に歳を重ねた彼女が今は部屋の隅に立っている。

 その公園の少し奥まったところには丸太のベンチがあった。周囲を木々がまばらに囲み、園内の喧騒をほどよく緩和してくれた。そこに足しげく通った男がもう一人いる。

「あんな綺麗なヒト、いつもそばにいるんだろ」

「そんなに欲しいならキミも親に頼めばいいじゃないか」

 こちらに向いていた少年は目を細め、隣でため息をついた。そして私の肩を小突く。彼がよくやった仕草で、少し痛かったが、それがある種の親愛を意味すると後に知った。

 彼とは色々な遊びをした。駆け、隠れ、ものを投げあった。やがて日が沈み始め、公園も陰り始める。

「君も帰らないか」

「まだ残るよ。今日は、ほら、あの日だからさ」

 空が橙色に染まり、木々を通り抜けた日差しに私たちは照らされる。立ち並ぶ幹の向こう側に夕陽がきらめく。眩しくて背後に向きなおり、丸太に座る彼を見た。


 ゾッとするくらい、濃いオレンジ色。

 私の青く長い影が少年に被さっている。彼が縮んだように見えて、私は小走りで近づいた。顔を上げた彼をよそ目に、その肩をぽんと小突いた。

「また明日」

 私のつぶやきが梢に吸い込まれていく。彼は微笑んだ。少し歪な歯並びだったが、不思議と綺麗だと思っていた。

「ああ。またな」

 私と従者は帰路についた。東の空にすみれ色が滲み始めている。夕餉にはまだまだ間に合いそうだ。

 そして、結局その〈明日〉は来なかった。


「まだ早いと思います」


 朝食の席、スプーンを置いた母が呟いた。壁掛け時計を私はちらりと見る。登校時刻までまだ時間があり余っている。

「いつまでも付添いがあっては舐められる」

「甘やかし過ぎだ、ということですか」

「そうは言っていないだろう」

 身中はいざしらず、父母共に声を荒らげたりはしない。私は腸詰めにフォークを突き刺した。穴から油が流れ出る。

 今年度、私は中学に上がっていた。

「怪しい人に気をつけるんだよ」

「あと、もういい加減公園には行くんじゃない。人攫いが居るぞ」

 両親の見送りに私は背を向け、学校へ向かい出した。あの少年と会えなくなって早一ヶ月は経った。ベッドで寝るたびに、明日が〈また明日〉になるよう祈った。

 道の向こうにクラスメイトたちが見える。彼らとの待ち合わせ場所に辿り着いたのだ。付き人抜きでの登下校にももう慣れた。

 なんとなく、あのベンチに行きたくなった。


 青い縦の線に向かって駆ける。

 路地裏にはガラス片や針が散乱している。足の裏が何かを踏み潰す。安酒のパックから液体が横に吹き出した。

 水っぽい音が狭い道にこだまする。湿ったこめかみを生温い風が冷やしていく。首の側面が脈動する。

 地面を鋭くひっかくような音が後頭から染み込んでくる。くぐもった呼気が周期的に鼓膜を震わせる。私はなにかに追われている。

 コンクリートの峡谷には配管と排気機が入り乱れ、外壁にへばりついたそれらが後方に過ぎ去っていく。道の向こう側でライトをつけた車が過ぎ去った。あと少しで主道に出られる。

 またカーライトが見え、目がくらんだ私は一瞬ひるんだ。二の腕を掴まれた。体中がブルリと一回震え、凍りついた。

 どこかで車が走り去っていく。タイヤが地面をこする音が近づき、遠ざかっていく。排気ダクトと室外機のホワイトノイズに、わずかに誰かの呼吸が混じっている。

 私は振り向く。


「捕まえた」


 かつてドールズ、という犯罪組織があった。

 彼らは人をさらい、身体改造ののちに襲撃犯へと仕立てあげた。誘拐被害者の生存率はゼロ。なぜか。

 ドールズが子供たちに施した身体改造は、不可逆な代物だった。襲撃成功率の向上を狙って、火力や隠密性を偏重した歪な構成、それに伴う著しい元型欠損。なによりもこれらを実現可能にした人造血液はいまだ発展途上であり、当初は重大な欠陥を抱えていた。

 さらに言えばドールズが用いた血液は純正品ではなく、手術室も清潔な場とは言いがたかった。これら三点が合わさった結果、使用者の身体は速やかに崩壊していく。使い捨てられた兵隊たちの命は術後、もって一日だったという。

 もはや人と呼べない代物に変わった彼らを操り、要人暗殺や企業襲撃に駆りたてた。そのほとんどは未遂に終わっている。そして現在、彼らの組織像は当時よりかはずっと明らかになっていた。

 ある一人の子供、その遺族を追ったインタビュー記事を読んだことがある。顔を合われば激しく怒鳴り合う両親のもとに育った彼は、居心地の悪い家を抜け出せば外をほっつき歩いていたそうだ。家族の言葉はなかったが、近隣住民や商店の人々からは悲痛な声が寄せられていた。

 私はペンを置く。


「ツカマエタ」

 それの声は酷く抑揚がなかった。胸の毛がそばだつようにざわついた。それのもう一方の手が向かってくる。

 ナイフのように扁平な五本の指。緩慢に近づくそれを振り払ってしまった。してしまい、それは動きを止めた。

 心臓が波打っている。私は目を見開き、それの頭部らしき部位に目を向けた。カーライトが私達を一瞬照らし、自分の影がそれに投げかけられる。


「ヤット、」

 

 突然、それの顔が弾けた。白い飛沫が上がる。私の顔はその液体と破片をもろに受けた。

 視界がにじむ。ペンが震える。思い出が終わりに近づいていく。

「やったぞ!」「油断するな。気をつけろ」「手当を急げっ」

 肌が焼けるようにとんでもなく痛い。指を痛い場所に当てると、どろどろに溶けた肉が糸を引いた。誰かが駆け寄ってくる。

 私は取り押さえられ、痛みがなくなっていく。腕から針が抜かれ、その向こうに彼女、さらにその向こうに父母が見えた。とても狼狽しているが、しかし、なのに。

 私以外の誰も、〈それ〉に心配などしていなかった。


〈了〉

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