汎愛陛下が私を溺愛するまでの三年間

まえばる蒔乃

第1話

 誰もに平等で優しい陛下。たった一人で嫁いできた私の旦那様。

 私はメルガ帝国の末の姫、ルゼア。

 桃の髪に紅の瞳、メルガ皇帝の色を濃く受け継いだ娘。

 旦那様は先の戦争を経て新たに擁立された新国王陛下、名はマセイアス。

 ゼーディス王国を戦争の道へと導いた王侯貴族たちはみな処刑され、旦那様は帝国への恭順として私を娶った。 


 彼は亡きゼーディスの王侯貴族たちからは、汎愛殿下と誹られていたらしい。

 国の誰をも愛する愚かな王子殿下であると。身分の分け隔ても、帝国への憎しみも知らない汎愛だと。だから王子殿下時代、継承権を一度は剥奪されていた。

 全てが処刑され、彼は我が父の承認を得て国王となったのだ。


 彼の有名な噂は本当で、彼は国民を汎愛していた。

 女性の憧れる「理想の溺愛の夫」とは、まさに真逆の人だった。

 彼は、結婚初夜さえ一緒にいなかった。


 城の官吏は私に告げた。


「陛下は敗戦に沈んだゼーディス王国を復興させるため、国民皆に汎愛をもって接しておられます。なので」

「わかっているわ。私は帝国から押しつけられた妻ですもの。重々わきまえているわ」


 私が陛下と顔を合わせたのは結局、結婚式でキスした時が最後となっていた。

 背の高い黒髪の人。

 瞳は青と紫の混じった不思議な色で、目を合わせ唇を重ねた一瞬だけでステンドグラスのように色が移り変わるのが美しかった。逞しい、雄々しい、瞳の力の強い男性だった。

 触れる唇は羽根で撫でるようだった。指輪を交わしたごつごつとした手は、鍛えられて皮が固くなった、分厚い手をしていた。彼の手に包まれた私の手は、まるで綿のように頼りなかった。

 彼は、私に手紙の一つもよこさなかった。


「花嫁に対して、なんて冷たい人なのでしょう」


 他国の王妃として私に会いに来てくれた姉たちは、口々に唇を尖らせた。


「大切な妹を譲ってやったのに、子どもすら作らないなんて」

「花嫁にとって大切な初夜を無視した上に、こんな酷い環境に置いているなんて」


 私は曖昧に笑った。そして「それが私の役目ですから」と姉たちを国に返した。

 そう、私は存在するのが役目。彼は国を愛するのが役目。

 私は敗戦したこの国に贈られた妃。


 前国王陛下は処刑され、新国王として陛下が即した後に、私は彼と結婚した。

 ゼーディス王国にとって、帝国からの花嫁は首輪も同然。

 だから陛下は私と一緒にいないことで、国中の人に汎愛を示しているのだ。


 実際の陛下のご意向は知らないけれど。彼にとって私はそういう存在のはずだ。

 それでいい。私は、帝国から与えられた妻なのだから。


 結婚して一年後。

 王国のやり方をある程度覚え、最低限の知識を得た私は行動に出た。

 帝国から連れてきた使用人達に一人一人に退職金を出し、帝国に手紙を着けて送り返した。姉たちにはしばらく国に来ないようにお願いをした。そして父には、どんな噂があっても陛下には内緒にしていてください、とお願いの手紙をだしたのだ。


 私を守る者は全てなくなった。

 すると、私の周りにはあっという間に悪意が集まってきた。

 帝国を逆恨みする使用人。国王陛下を狙っていた元婚約者候補達。暗殺者、エトセトラ、エトセトラ。

 それはまるで、床に落としたクッキーに、アリが群がるような有様だった。


 食事の質は落ちていった。部屋の掃除の頻度が減った。

 私を世話するメイドの数は減り、廊下で舌打ちをされるようになった。

 匿名で嫌がらせの手紙が届き、教会で祈れば水をかけられた。


 私はあえて、その事態を甘んじて受け入れた。

 私に辛くあたってくる人々は、「王国は帝国の理不尽により敗戦した」と思い込んでいる。

 理不尽に帝国の傘下に入らされ、これまでの政治を変えさせられ、新国王陛下が城に帰るまもない多忙を強いられている状況だ。


 陛下は国民を汎愛しておられる。国民のために、死んで責任から逃げた前国王陛下、その他王族親類の代わりに、必死で、長年にわたる圧制に疲弊した国民達を広く愛そうとしておられる。


 お飾りの帝国妻は、卵を投げられる為にある。

 私は進んで、皆の嫌われ役、ガス抜きの立場を買って出た。

 挙げたように、私に、人々はとても辛く当たった。本当に、それはとても。


 けれどそれも半年が過ぎ、国が少しずつ立ち直りかけたころ。

 少しずつ、私の周りで私の味方になってくれる人々が現れ始めた。

 二年目には、私に嫌がらせをする人がいつの間にかいなくなった。

 嫌がらせをしてきていた人が謝罪して誠実に接してくれるようになったこともあれば、いつの間にか居なくなっていることもあった。逆に、最初から私に好意を示して恭順してくれる人も増えてきた。


 結婚して三年目が、もうすぐ訪れようとしている。

 今ではすっかり、私のサロンには貴婦人達がこぞって集まってくれるようになっている。

 教会に入れば不思議と悩みを告白する人が近づいてくるようになった。

 私はただ、彼らの怒りを受け止めただけだ。まずは受け止めなければ、「帝国からの嫁」としての役目は果たせないと思ったから。


「そういえば、初夜を共にしないまま三年が過ぎれば離縁することもあると聞かされていたわ。陛下はどうなさるおつもりかしら」


 結果がどうだとしても、私は帝国からの妻として役目を果たすだけだ。


◇◇◇

 

 はたして夫は帰ってきた。

 彼の事を思い出した、ちょうどその日の深夜遅くに、夫は真っ先に私の部屋までやってきたのだ。言ってくれれば、私が出迎えに行くのに。


「ずっと会いたかった。待たせて済まなかった」

「そうですね、そろそろ離縁には良いタイミングですね」

「離縁?」

 

 彼は怪訝な顔をした。

 その顔を見て、私はうっとりした。

 以前目を合わせた時よりも、また一層逞しくて素敵なのだ。

 旅から帰ったばかりの汚れた軍装で、黒髪も乱れて、そして慌てた様子なのに。

 思わずその様子が愛おしくてふふ、と微笑むと、彼が息を呑むのを感じた。

 陛下はこほんと咳払いし、テーブルの上のゴブレットの水を一息に飲む。そして前髪をかき上げて私を見た


「君は何を言っているんだ」

「はい。白い結婚は三年で離縁できると、聞いていたので。離縁のためにお戻りなのかと」

「なぜ君と、離縁など……」


 彼は酷く嫌な顔をした。

 まるで食事に嫌いな食べ物が紛れ込んでいるのを見つけた、子どものように。そして呻くように言う。


「……まだ三年の記念日は明日だ」

「そうなんですか」

「そうだよ。記念日は一緒に過ごしたくて、馬を飛ばしたのに」

「だから深夜にお越しなのですね」

「風呂もまだ入っていない。臭くて本当にその……申し訳ない」


 会いたかったんだ、と言葉を濁す陛下。

 もしかして記念日になった瞬間、私を国に追い返すご予定なのだろうか。

 なるほど。

 有能と言われる彼はきっとそういうこともできるだろう。

 陛下は私をまっすぐ見て、真面目な顔になった。


「私が敗戦処理で城を空けざるを得なかった間に、苦労をかけてすまなかった。初夜だって君に大変な失礼を」

「あの夜、前国王派の襲撃があったのですよね。けれど帝国から来た私たちに、内乱について告げるわけにはいかなかった」

「……知っていたのか。それにその後も、君は苦労させられたと聴く。元々君を妻に迎える時も、丁重に扱われるのか案じていた。我が国が敗北したのは愚策の末のことだが、君を逆恨みする者も必ずいるはずだ、と……実際いじめられていたと聞き、居た堪れなかった。……長い間、君を嫌がらせから守れなくて申し訳なかった」

「いじめの件については誤解があります」


 私はすぐに首を横に振る。


「私があえていじめられたのです。側仕えを国に帰らせ、陛下への報告もさせなかったのは私の判断です。陛下に情報が届かないようにも、言い含めておりました」

「なぜそのようなことを」

「恨まれるのは帝国の姫としての役目です」


 私はキッパリと言った。

 陛下は悲しい顔をした。


「辛かっただろう」

「恨まれ、ガス抜き役になり、役目を果たせることは、私の喜びです。それにいじめられたのも短い間の話です」


 そう。もうすっかり、いじめられていた過去は忘れていた。


「今では大切に扱っていただいて、毎日身に余るほどの交友の機会をいただいております」

「ああ。城に帰って驚いたが、今は皆が君を溺愛しているようだな」

「私の力ではありません。それは陛下の国民皆さんに対する汎愛が伝わったからです。だから、陛下の妻である私にもいじわるができなくなったのです」

「いいや君の真意に、我が国民も気づいたのだと思うよ」


 彼は慈しむように私の手を取り頬を寄せた。

 指は数年前と変わらず節張って長い。手のひらも分厚くて固かった。騎乗を続け、剣を振るい続けてきた人の手だった。


 彼は初めて、私を見て柔らかく微笑んだ。


「君は強いな」

「あなた様の妻ですので」


 私は陛下の青紫の瞳を見つめ、微笑んだ。

 ――ああ、あの頃から、この人の瞳は何も変わらない。



◇◇◇


 ――かつて。私は、溺愛されるばかりの帝国の末娘だった。

 帝国の末娘。

 それは本来帝国の姫として、民のため国家の為、人生を殉じるのが役目だった。

 けれど私には生まれた時には既に、役目などというものはなかった。


 政略結婚は既に姉たちが済ませ、帝国は父のもと安定していた。

 姫の役目は政略結婚と教えられながらも、私は政略結婚のせの字もなく、ただただひたすらに国民から、父から愛されるだけの姫だった。

 愛は嬉しかった。けれど、役に立てない、ただ溺愛されるだけの存在は辛かった。


 そんなとき。

 終戦前、メルガ帝国の謁見の間において、私は陛下と出会ったのだ。

 まだ陛下が王位継承権を剥奪されたままの、一介の騎士だった時代だ。


 陛下は私の父の前に頭を垂れ、宣言した。

 己が腐敗したゼーディス王国を改革するということを。

 国民を守るために己が新国王となり、帝国に恭順することを。

 三年で国中の意見をとりまとめると。


 顔を上げた陛下の青紫の瞳は美しかった。

 私は一目で恋に落ちた。理想の人だと思ったのだ。

 私は自然と父を見た。

 視線で、私は父に訴えた。どうか私をこの人の妻にしてください――と。


 父は一瞬だけ、瞳に愛娘である私を過酷な国に嫁がせるためらいをみせた。

 しかし父は皇帝だ。すぐに私が、彼に嫁ぐ事の利を見いだした。

 父は彼に命じた。私を妻として娶るように、と。


 そして陛下は私を溺愛しなかった。

 個としてではなく、陛下は国民への愛を優先した。それが私は嬉しかった。

 だってようやく、私は高貴な血に生まれた役目を果たせるのだから。

 ただの溺愛なんて、要らなかった。


◇◇◇


 思い出に浸っていると、陛下は私の手に触れてつぶやいた。


「……会いたかった」


 陛下は微笑んだ。少し困ったような、愛おしむような笑みだった。


「離縁はしないでいてくれるかい?」

「陛下のお望みのままに、でございます」

「ありがとう」

「他にお望みはありますか?」

「そうだな……留守にしていた間の話を、少し聞いてくれるかな」

「承知いたしました」


 私をベッドに座らせ、隣に座った陛下は訥々と語った。この三年間の顛末を。


 敗戦国となった国中ではあちこちで、メルガ帝国への不満が噴き出していた。

 陛下は前の戦は前政府の愚策が招いた戦争だと訴え、死者もそのほとんどは国王の無謀な特攻作戦によるものだと説明した。そして命を取り留めた人々はメルガ帝国の聖女が今治癒を続けていると明かしてくれた。

 メルガ帝国はゼーディス王国をただ支配したいのではない。

 前国王の暴走の後始末に協力し、我が国の復興を支援してくれているのだと訴えたのだと。


 話を真剣に聞く私に、彼はふっと微笑んだ。

 謁見の間で見た眼差しとも、結婚の時の眼差しとも違う、砕けた微笑みだった。


「ようやく国は平和を取り戻しつつある。帝国との関係も回復した」


 彼はそのまま、私の前に跪く。そして驚く私の手を取り、そのまま甲にキスをした。

 国王は唇を触れさせたまま、上目遣いで私を見上げた。


「ルゼア」


 初めて、名を呼ばれた。

 胸の奥に薔薇が咲いたのを感じた。


「ルゼア」


 彼は歌うようにもう一度名を呼んで、続ける。


「これまでは汎愛陛下などと呼ばれてきたが、私はそろそろ汎愛の男は卒業したい。ずっと恋い焦がれていた君だけを愛する一人の男になりたいのだが、構わないだろうか」

「それは……」

「嫌ならば、時計の針が十二時を指すのを待てばいい。その後に君がたった一度首を横に振るだけで、私は君を帝国に返そう」

「……その場合、陛下はどうなさるおつもりですか?」

「そうだな。君に触れられなかった三年間、抱え込んだ思いをまた三年かけて忘れて、汎愛陛下に戻ることにするよ。……戻れるかは、未来の私しか分からないけれどね」


 私は考えた。三年間、この方と離れたいと思っただろうか。

 思うわけがなかった。離縁の準備をしていたのは、あくまで万が一のためだ。

 ――尊敬する、愛する夫の妻として、できることをしていただけ。それだけだ。


「陛下」

「ん」

「……私は、知りたいです、陛下を」

「そうか」

「陛下は何でもご存じです。私の故郷での評判も、私がどんな風に城で過ごしていたのかも。けれど私はまだ何も知りません、陛下のことを。汎愛陛下ではない、本当のあなたという人を」


 彼の瞳が輝く。私は気恥ずかしくなりながら、続けた。


「教えてください。結婚したあの日から三年間、陛下がどんな風に生きてこられたのかを。……どんな風にどれくらい、私を愛したいと思ってくださっていたのかを」

「承知した。……思いを伝えるには三年では足りないかもしれない。三十年、いや、三百年――とこしえに、私の傍にいてくれるか?」

「はい。いつか冷たい床に横たわる日々も、陛下のお傍におります」

「ルゼア」


 私を見下ろして、汗を滴らせる真剣な眼差しを見て思う。

 汎愛の陛下が、私を愛に満ちた眼差しで見つめている。ついに陛下が安心して私を愛せるようになったのだと。平和が訪れたのだと。


「愛しています、ずっと」

「知っていたよ」


 陛下は目を細めてキスをする。


「初めて見たときから、君の瞳には薔薇が咲いているようだった。目元を真っ赤に染めて、じっと私を食い入るように見つめて。……ようやく、君の溺愛に応えられる」


 そして陛下は歌うように囁いた。私を愛している、と。


◇◇◇


 汎愛の陛下、その呼ばれ方は変わらない。

 国民皆を愛する、理想的な君主として末永く愛される人となった。

 民と私。陛下が愛する順序を少しでも間違えていたら、陛下は帝国の傀儡と言われる様になっていただろう。私たちは安心して、お互いに溺れられるようになったのだ。

 私たちは、幸福に生涯を共にする夫婦となった。

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