番外編 ひとつ前の恋の終わり



 1年前、2023年の大晦日――


 70階の煌びやかなラウンジで、横浜の夜景をバックにシャンパングラスで乾杯する。

 彼が選んでくれた紺の大人びたパーティドレスに身を包んだ直央は、その場にいる誰よりも美しく目を引いた。


「なんか、恥ずかしいな」

「そう? 僕は誇らしいけどね」


 対面に座る彼はそう言って、テーブルの上で直央の手を取る。

 その指先がなんとなく左の薬指のあたりを優しくなぞるので、「ああ、これからプロポーズされるんだろうな」と直央は思った。


 彼――赤坂とは二年間の付き合いである。

 同じ大学の三つ上の先輩で、在学時は関わりはなかったけれど、共通の知り合いから紹介されて付き合うことになった。

 彼は大手の広告代理店でクリエイティブ職として働く広告マンで、クライアントのために昼夜問わず国内外を飛び回る仕事をしている。

 直央も当時は都職員として遅くまで働くことが多く、なかなかデートしたりゆっくり過ごしたりする機会はなかったが、お互いに仕事の優先度が高かったのでそれはそれで利害が一致していた。


「月に一度は五分でいいから直接会おう。それと、準備が整ったら将来君と結婚したいと思っているから、君もそのつもりでいてほしい」


 付き合い始めるときに交わした約束。

 準備が整うとはいつのことなのか、特に詳しく話すことなく二年がすぎていたが、どうやら今日がその日らしい。

 珍しく「年末年始空けといて」と言われたので、何かあるとは思っていたが……。


(実感、湧かないな)


 香りの良いシャンパンを一口含み、直央は考える。


 赤坂のことは好きだ。おしゃれで気さく、話も面白いし飽きない。

 お互い忙しすぎて二人で暮らすイメージは全く湧かないけれど、きっと今の生活の延長線だろう。赤坂は仕事を頑張る直央のことを尊重してくれているし、直央だって同じだ。束縛されるよりお互いの人生を自由に生きたい。その価値観の合致という意味では、彼は最高のパートナーだと思う。


 ただ、なぜだろう。

 素直に気持ちが盛り上がってこない。

 何か、引っ掛かることがあるのだろうか……。


「来年は、いよいよ直央も30歳だね」


 彼の言葉にハッと我に返る。


「うん。4月生まれだから、もう4ヶ月後」

「どう? 20代でやり残したことはある?」

「んー、特にないかな。毎日いろんなことがあったし、けっこう満足!」

「はは、直央らしいね」

「あ、でもね、30代でやってみたいことはあるんだ」


 直央がそう言うと、赤坂の瞳がきらりと輝いた。


「いいねえ。さすがだよ」

「え、そうかな?」

「偏見も入ってるけどさ、女性って30代になることに絶望する人も多いじゃない。だから逆にやりたいことを考えられる人って少ないと思うんだよね」

「そう言う赤坂くんはどうだったの」

「僕? もう若手って言えないな〜って悲しかったね。若手って言っとくとクライアントが優しくしてくれることもあるから」

「ふふふ。だったらまず髭を剃るところから始めたら良いと思う」

「そ、それは勘弁してっ! 髭剃り持ち歩くの面倒なんだもん」


 他愛のない話で盛り上がっていると、ジャズの生演奏が始まった。

 赤坂の背中側だったので、彼は椅子を移動して直央の隣に座る。

 背後はガラス窓、他に客はいない。

 彼はそっと直央の腰に手を回し、身体を寄せる。


「……それで? 30代でやりたいことって、何」


 低い声で耳元に囁いてくる。

 一瞬、直央は言うか言うまいか迷った。

 この話を誰かに伝えたことは今まで一度もない。それなりに深い話だ。人間の深いところには簡単に立ち入れないし、立ち入らせてはいけない。高校時代の経験から、直央は無意識にそうする癖がついてしまっていた。

 けれど、この人は結婚するかもしれない相手だ。

 そういう人にこそ伝えなくてどうするのだろう。

 直央は残っていたシャンパンをぐっと飲み込み、彼の目を見て言った。


「わたしね、選挙に出てみたいの」

「え、選挙……?」

「うん。30歳になると、都知事選の被選挙権をもらえるでしょ。だから」


 彼の目の焦点が遠ざかる。

 ――あ、ダメだったのかも。

 そして同時に気づいた。彼は「結婚」という言葉を期待していたのだ。

 なのに空気を読まずに自分の話をしてしまった。

 ……いや、違う。

 引っかかっていたものの正体。

 そもそも今日この場になるまでこういう深い話を一度もできていなかった時点で、結婚なんて早かったんじゃないだろうか。

 お互い仕事優先で、会う時間が短くても気にしないドライな関係。心地が良かったけれど、お互いの深い部分について知る機会もまたほとんどなかった。


「直央、さすがにそれは現実を見たほうがいいというか……。いや、君の突拍子もないアイディアは好きだけどさ、都知事選って何人もの泡沫候補が供託金を没収されてるあれだろ、君がそんなのに出なくたって……」

「わかってるよ。でも、出るの。出なきゃいけないの」

「そ、そっか……」


 サックスのソロが滑らかに奏でられる。

 その音に会話をかき消されるくらいには二人の酔いは醒めてしまっていて、結局その日はプロポーズされることがないままに終わったのであった。


 翌朝。

 酒の抜けない彼はまだぐっすり眠っている。

 直央はそっとベッドから抜け出すと、カーテンを開けた。

 すでに陽は昇っていて初日の出は見逃したらしい。

 ここから見える景色は北側――東京方面だ。

 美しい朝の街並み、と言いたいところだが、排ガスのせいかうっすらと灰色のもやが街を包んでいるのが見えた。

 あれが東京。

 やり残した青春が燻る街。


「……ごめんね、赤坂くん」


 直央はぽつりと呟くと、荷物をまとめてフロントに電話をかけた。


「もしもし。6680号室の赤坂です。先に料金の支払いをお願いしたいのですが……はい、はい。ではそちらに伺います」




 彼には酷いことをしたと思う。

 あの後、改めて会って話し合いをしたけれど、結局選挙に出る意思を認めてもらえなくて、直央は彼に別れを告げた。

 それからしばらくして……。

 都知事選が終わった後、一度だけメッセンジャーで連絡が来ていた。


〈僕には先見の明がなかったみたいだ〉


 たった一文それだけ。あの日の後悔や復縁を求める言葉を表立っては綴らず、こちらに想像を委ねるコピーライティングみたいな文章が、とても彼らしいなと直央は思った。

 でも、たぶん必要だったのは「先見の明」じゃない。

 きっと、何がなんでも「隣に立つ覚悟」だ。……と、今ともにいるパートナーのことを思い、直央はくすりと微笑んだ。


(ありがとう。そしてさよなら、赤坂くん)


 直央は彼からのメッセージに返信することなく、そっと削除したのであった。




〈番外編 ひとつ前の恋の終わり・了〉

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