025 『伝説の竜姫、執事長から読み書きを習う(2)』
朝食を終えたヤンアルはガスパールに言われた通り書庫へとやってきた。
先日、訪れた時と同じく様々な蔵書が所狭しと並べられているが、やはり何と書かれているかヤンアルには分からない。だが、沢山の書物を見つめるその漆黒の瞳はキラキラと輝いているようだった。
「————ヤンアル」
突然背後から声を掛けられ振り返ると、ベルが少し驚いたような表情で立っているのが見えた。
「……驚いたな。普段のキミなら気配を察知して、ここまで無防備に人を近付けさせないだろう」
「そうかな……そうかも知れない」
「何を見てたんだい?」
「うん、これだけの本が読めるようになったら楽しそうだなと思っていた。それもこれからの私の精進次第ではあるが」
そう話すヤンアルの表情からは、初めての授業を心待ちにしていた数年前のレベイアを思い起こさせ、ベルは柔らかな笑みを浮かべた。
「……そうだな。キミならきっと大丈夫だよ」
話しながらベルは持っていた何かの道具を机の上に広げた。そこには定規らしきものや、先端が黒い木の棒が数本あった。
「これは俺が昔使っていた勉強道具だ。良かったら、これを使って勉強してくれ」
「ありがとう、ベル。……ところで定規は分かるが、この木の棒は何に使うんだ?」
「これは鉛筆だよ。筆記道具さ」
「『えんぴつ』? 初めて聞いたな。それでは墨と
「『スミ』? 『スズリ』?」
ヤンアルの返しにベルは首を傾げたが、すぐに思い当たったように手を叩いた。
「あっ、もしかしてインクのことかい? それなら必要ないよ。見ててごらん」
紙を取り出したベルは鉛筆で何やら書き始めた。
「————凄い……! 墨を付けずに文字を書けるのか!」
「……ククク。これで終わりじゃないぞ、ヤンアル……!」
ベルは何故か左手で顔を覆いながら、残った右手である物を掲げた。
「……それは『ぱん』か……? 食事ならさっきしたばかりじゃないか」
「まあ、見ているがいい……!」
得意気な表情のベルがパンで紙を
「————何だこれは……! 何かの魔法とやらか、ベル⁉︎」
「ハハハ、俺も子供の時に同じリアクションをしたよ。鉛筆で書いたものはこの固くなったパンで擦れば消えるのさ。これで書き間違えても紙を無駄にしなくて済むだろう」
「美味いだけでなく『ぱん』にこんな効能があったとは……しかし、紙は貴重なものだ。再利用できるに越したことはないな」
「素晴らしい考え方ですぞ、ヤンアル様」
教材を持ったガスパールが現れたが、ヤンアルは何故か不満そうに口を尖らせる。
「な、何か? ヤンアル様……?」
「ガスパール、また『様』が付いてるぞ」
「あっ! これは、私としたことが……」
ベルに指摘されたガスパールはゴホンと咳払いをした。
「……ベルティカ様は何故こちらに……?」
「いや、近頃読書に目覚めてな。邪魔はしないから二人で授業をしててくれ」
「そうですか。で、では授業を始めましょうか、ヤンアル」
「ああ、よろしく頼む」
ヤンアルが笑顔を見せて席に着くのを見たベルは自分も部屋の隅のソファーに腰を下ろし『神州見聞録』を開く。
(前は飛ばし読みだったからな。腰を据えて最初から読んでみるか……)
◇
————『キコウ』の使い方は戦闘能力を高めたりするばかりではない。『センシ』の中には『キコウ』を用いて他者の傷を癒す者もいる。
(他者の傷を癒す……、これはまさにヤンアルに当てはまるな。ワイバーンにやられた俺や、昨日の街で転んだ男の子の傷をヤンアルは瞬く間に治してしまった)
————それはやはり我々が良く知る回復魔法とは異なる体系のようだった。想像の域でしかないが、恐らく彼らは『キコウ』によって体内に何らかのエネルギーを生み出し、それを破壊力や細胞の活性化に転用しているのだと思われる。
(……何らかのエネルギーか。抽象的ではあるが、何とも説得力があるな。それなら呪文の詠唱を必要としないのも納得がいく。俺たちの使う魔法は簡単に言えば、呪文の詠唱を行うことで神や精霊から力を分けてもらい行使しているに過ぎないからな)
ベルはその後も黙々とページをめくってみるが、そこからしばらくは『シンシュウ』の風土や人々の暮らしぶりなどが書かれているばかりで、ヤンアルに直接関係のある記述は見当たらない。
(異国の人々の生活や風俗に興味はそそられるが、この辺りにヤンアルに繋がりがありそうな場面はなさそうだな……ん?)
————『シンシュウ』の国土は我々が想像しているより遥かに雄大で、様々な人種が暮らす多民族国家であることが分かった。そして、『センシ』の中には管轄する土地によってグループの特色が分かれているようだ。
(……グループ? ギルドや傭兵団のようなものか?)
————『キコウ』を使えない一般人の間でも名が通っている『センシ』のグループは以下の四つである。『東のセイリュウ・ハ』、『西のビャッコ・ハ』、『南のスザク・ハ』、『北のゲンブ・ハ』。それぞれ独自の特色を持っているそうだが、その中でも特に異質なのが————
「…………ル、————ベル!」
「————わっ!」
突然肩を揺すられたベルは驚いて、ソファーから転げ落ちてしまった。眼を開けると、視界に心配そうな表情のヤンアルが見えた。
「……やあ、ヤンアル」
「す、すまない、ベル。そんなに驚くとは思わなかった」
「いや、どうやら読書に夢中になっていたようだ。こっちこそ驚かせてすまない」
ベルは起き上がってソファーに座り直した。
「そんなに面白い本を読んでいたのか?」
「うん……、面白いというか————それより、俺に何か用かい?」
「もう昼時だ。昼食を食べないとこれ以上頭に入りそうにない。ベルも一緒に行こう」
「もう昼だって⁉︎ そう言われてみれば俺も腹が空いたな。分かった、俺も行くよ」
嬉しそうに食堂に向かうヤンアルに続いてベルが立ち上がると、ガスパールが教鞭を持って固まっているのが見えた。
「どうしたんだ、ガスパール? そんなミケランジェロの彫刻みたいに固まって」
「————ません」
「は? 何だって?」
「……信じられません……! ヤンアルは勉強を始めて数時間で、十五歳くらいのベルティカ様と同じ程度の語学力を身に付けてしまいました……‼︎」
「…………」
ヤンアルのスペックについてはもう多少のことでは驚かなくなっていたベルだったが、たった数時間で十五歳当時の自分に追いつかれたというガスパールの言葉に喜んでいいのか、それとも悲しんだ方がいいのか分からなくなってしまった。
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