プリマヴェーラ・ストラトス―転生したらヒロイン全員病んでいて修羅場な件―

浜風ざくろ

プロローグ





 死にたくなるとさ。

 

 線路から花の香りがするんだって。

 

 きっと轢かれた先は、楽園につながっているんだろうね。









 


 会社に行くのが辛かったから。

 

 死んだ理由は、そんなありきたりなものだった。


 俺はブラック企業に勤めていた。休日もほとんどなく、サービス残業は当たり前。職場の環境面も最悪で、上司からのパワハラ、度を超えた理不尽な要求、無茶にもほどがある納期、職員同士のいじめ……例をあげればキリがないほどだ。


 毎日のように上司から怒鳴られ、先輩からいびられ、休みなく働いてばかりいた。胃が痛くない日なんて一日もなかった。

 

 食べたラーメンの味を感じられなくなり、翼を授けるエナジードリンクの空き缶が家を埋めつくしたころ、俺は心療内科に通って鬱病だと診断された。


 線路に飛び込んだのは、そのあとだ。

 

 線路から甘い香りがするって言う話は都市伝説か冗談だろうと思っていたよ。でも、都市伝説でも冗談でもなかった。とてもいい匂いがしたんだ。ラベンダーやチョコレートコスモス、キンモクセイ。知っている花の香りをすべて混ぜ合わせたかのような芳醇な香り。

 

 思いとどまることはなかった。

 

 俺には愛する妻も子供も愛犬も愛猫もいなかった。考え直す理由がない。ソシャゲのデータが勿体ないなーくらいの感慨はあったけど、甘い匂いのする方へ足を止めるだけの理由にはならなかったね。

 

 すべては、億劫で苦しかった。そんな自分の闇色の人生から解放されたかった。

 

 だから死んだ。

 

 死んで、転生したんだ。



  

 ――ゲームの世界に。


  


 小鳥のさえずりで、俺は目を開ける。

 

 木陰の下にいた。穏やかな木漏れ陽が少しまぶしい。ゆらゆらと動く枝葉の隙間から、快晴の空が覗いている。

 

 俺はゆっくりと身体を起こした。

 

 目の前には湖があった。水面にさっと波紋が走り、花風が吹き抜けていく。鼻腔をくすぐるかぐわしい匂いは、花の香り。樹の実の香り。果実の香り――。

 

 楽園の芳香。

 

 そう、俺は楽園に来たのだ。

 

 湖の周りには花が咲き誇っていた。いや、湖の周りだけではなく俺の背後にも、無作為なまでの美しい花畑が形成されている。まるで印象派絵画のような鮮烈さで、色が溢れてまぶしかった。百花繚乱。まさにその言葉が相応しい景色に、溜め息が零れそうになる。

 

 何度見ても、何度見ても。

 

 俺は、この景色に安堵を覚える。

 

 夢じゃなかったんだと思えるから。

 

 霧のように消えて、醒めることはないんだ。

 

「……」

 

 ここは、春の楽園プリマヴェーラ

 

 スマートフォン向けゲームアプリ「プリマヴェーラ・ストラトス」の舞台だ。一年中季節が春しかない、花が咲き誇る世界プリマヴェーラを防衛する花を擬人化した少女「アンサス」たちのストーリー。いわゆる美少女育成ゲームだ。育成要素と恋愛要素が楽しめる他に、シリアスなストーリーで人気を博している。

 

 俺は描かれる世界観の美麗さとストーリーが好きで、仕事に忙殺される隙間をぬって唯一の娯楽としてこのゲームを楽しんでいた。こんな楽園に行ってみたいな、と思っていたよ。息が詰まって窓が曇るほどのすし詰めの電車にゆられて、無機質な冷たいビル群の合間を死んだ目で歩くよりよっぽどいい。俺の人生には色彩がなさすぎた。色がほしかったんだ。

 

 だから、転生できたときは嬉しかったよ。

 

 ようやく、色を取り戻したんだって。

 

「……お目覚めですか、指導者メンター

 

 涼やかな声とともに一枝の椿が目の前に現れた。三輪の赤い花が咲いていて、かすかに濡れている。

 

 上品な香りに、俺は微笑んだ。

 

「相変わらず綺麗な花だな」

 

「あら? 私のことを口説いているのかしら?」

 

「違うよ。名前が同じだからややこしいよなあ」

 

「なんだ、違うのですね。残念」

 

 クスクスと声を鳴らす少女が、俺の隣に座ると椿の枝を口元にあてて相好を崩した。

 

 椿。

 

 花より生まれ、花の名を冠する「アンサス」の一人。この極楽浄土のごとき世界を守護する少女だ。椿の文様が彩られた赤色の着物に緑色の袴を身にまとっており、腰に刀を佩いている。無垢な彫像のごとき白い肌にはほんのりと朱がさしていて、超然とした人形の冷たさと人のぬくもりを同時に内包した、この世のものと思えない美しさがあった。

 

 風が、黒い絹のごとき長髪をたおやかに揺らす。ルビーの瞳が髪に隠れ、柔らかくほぐれた口元が見えたとき、俺は思わず目を閉じそうになった。

 

 心を奪われるのが怖かった。

 

 それほどに彼女は澄み切っていた。

 

「何時間寝ていた?」

 

 意識を変えようと尋ねると、椿は少し上に目を向けて、小首をかしげた。

 

「んー、二時間くらいかしら? お昼寝にしては少し長いですね」

 

「そうだな。最近寝すぎている」

 

「まあ、良いのではないですか? 最近は骸虫スキュラの侵攻も比較的穏やかですし、忙しくはないですもの。おかげでメンターの目元のくまもだいぶ薄くなりましたね」

 

「それはたしかに良いことかもしれないけどさ。まだ俺が着任してから一月しか経っていないんだぜ? こんなすぐに暇になることってあるか?」

 

「あー、そういえばもう一月経ったんでしたね。……普通にありますよ。だって、ここはそういう場所じゃないですか」

 

「まあ、そうなんだけど。そうなんだろうけど」

 

 俺はため息をつきながら言った。

 

「働いてないなら働いてないで落ち着かないんだよな。悲しき元社畜の性だね……」

 

「メンターは真面目すぎるのです。休めるときは落ち着いて休まないと、有事のとき疲れ果ててしまいますよ」


「わかってるよ。でもなあ……こうもやることないとさ。時間あるんだし素材マラソンでもした方がいいんじゃないかと」

 

「素材マラソンとは何のことでしょう? 新しい鍛錬の名前ですか?」

 

「ゲーマーの精神の限界に挑戦する神聖なスポーツでそういうのがあってさ。君らの鍛錬ではないよ」

 

「ふぅん、そうなんですね?」

 

 釈然としない表情を浮かべた椿は、追求することに意味はないと悟ったのだろう。湖の方を静かに見つめた。

 

 穏やかな風がささやくように吹き抜けていく。

 

 揺れる花々は、手を振ってくれているみたいで微笑ましかった。湖のきらめきは陽光の優しさを少しも損なわず水を宝石に変えている。優しさしかなかった。こんなにも平穏でゆっくりとした時間が存在するなんて信じられない。

 

 起きたばかりなのに、まぶたが重たくなってきた。

 

 まだ寝たりない。

 

「……休んで、いいんだよな?」

 

 恐るおそる尋ねてしまう。

 

 休むという行為に対する罪悪感が拭えない。社畜としての習性がそうさせるのか。それとも、命がけで戦う「アンサス」たちへの後ろめたさが言わせたのか。怖かった。まだ、休むということに慣れていなくて。

 

 いや……なんだろう。

 

 なにか……なにかが違う。

 

 椿は、俺の方へとゆっくりと顔を向け、木漏れ日に溶け込む柔和な笑みをみせた。

 

「いいんですよ」

 

「……」

 

 そうか、と返したいのに言葉が喉につっかえて出ていかない。

 

 意識が、ゆっくりと沈み始める。

 

「……ねむい」

 

「そうですよね。メンターはたくさん働いてきたのですから、もっと眠らないといけないと思います」

 

「ねてしまってもいいのか……また」

 

「ええ」

 

 温かい何かが頭に触れる。椿が頭を撫でてくれているんだ。気持ちいい。このまま眠りにつけるのはきっとすごく幸せなことで、安らぎとはきっとこういうことを言うのだろう。

 

「スノーにしられたら……はなでわらわれるんだろうな。ただめしぐらいの……とうへんぼくって……」

 

 椿の指が止まった。

 

「スノーちゃんのことは気にしなくていいんですよ」

 

「……でも」

 

「なにも考えなくていいんです。いまは、ほら……疲れているのですから。ゆっくりと休みましょう」

 

「……そう、だな」

 

 椿の言葉に従うように、俺の意識は暗黒の中へ落ちていく。

 

 途切れる瞬間、椿の優しい言葉が耳朶じだに溶けた。

 

「おやすみなさい、メンター」






 


 

「……うふふ」

 

 可愛い寝顔。

 

 私の隣で眠るメンターはまるで小さな子どものように無垢な表情を見せてくれる。くーくーという穏やかな寝息を聞いているだけで、私の心にはとろりとした幸せな気持ちが満ちていく。まるで毒を含んだ蜂蜜のような、甘く刺激的な、狂おしい感覚。

 

 メンターの頭を撫でる。指先から伝わる少し傷んだ髪は、前触ったときよりも柔らかくなっていた。私のあげたトリートメントを使ってくれているのかしら。とても嬉しい。嬉しいわ。を使ってくれているのね。ああ、嬉しい。

 

「……私は、あなたのものですから」

 

 そして、あなたは私のものでもある。

 

 私だけを見てくれればいいんだ。あなたが水を与える花は私だけでいいの。私はあなたのためになら喜んで咲くわ。この命だって惜しくはない。

 

 それほど好きなのに。

 

 それほど想っているのに。

 

 あなたの目は、他にも向いてしまう。

 

 スノードロップ。

 

 誰とも馴染もうとしない、孤高の花。たしかにスノーちゃんは私の目から見ても綺麗だ。怒りと復讐に囚われて誰よりも壊れているのに、いつも寂しそうで、悲しげで、放っておけない魅力があるのはわかる。わかるわよ。私も、彼女のことは嫌いではないから。

 

 でも、あなたの目が彼女に向くたび、私は花びらを引きちぎられるような鋭い痛みを感じてしまう。悲しさと苛立ちで、瞳から血が溢れそうになるの。だって、あなたの瞳は澄んだ優しい色をしているもの。

 

 そんな目で見ないでほしい。

 

 他の女を――。

 

 手の中から乾いた音がした。椿の枝が折れて、花が一房ぽとりと地面に落ちる。

 

 私はきっと暗い笑みを浮かべているのでしょうね。

 

 でも、いいの。

 

 いまは、私があなたを独占している。その事実を慰みにすることができているから、私のこころが散ることはない。

 

「……ん」

 

 メンターの口がかすかに動いた。

 

 細い息を吐いて、小鳥のさえずりに負けてしまうほどの小さな声を漏らしている。

 

 私は耳を近づけた。

 

 メンターはもう一度こぼした。

 

「……すずか」

 

 ああ、また余計な悪夢を見ているのね。

 

 私は懐から小さな瓶を取り出した。悪夢を忘れ、優しい夢だけを見続けていられる魔法をかけてあげないといけない。

 

 瓶を開けると、芳醇な花の香りが立ち上る。

 

 これは、記憶を溶かす蜜。

 

 この世界にだけ咲く、燐光の花より集められた女神の愛液。

 

 これを摂取し続ければ美しい夢に生きられる。

 

「……都合の悪いことは、ぜんぶ忘れていていいのよ」

 

 私はメンターの唇に蜜を塗る。むせないようにゆっくりとゆっくりと口の中へ流し込むために。

 

 これであなたは、理想の中で生きられる。

 

「ごめんね」

 

 私は、あなたを縛らないといけないの。

 

 私たちのためにも。あなたのためにも。

 

 あなたはもう、誰かのために自分を犠牲にする必要はないのよ。

 

 私は蜜を塗り終わると、メンターの唇へ静かに接吻する。蜜の絡むキスは、ねっとりとして甘く、熱く、悲しいほどに喜びに満ちていた。

 

 花が、揺れた。

 

 湖に風が走り抜けていく。鉄の匂いを孕んだ、熱く苦しいほどの死臭。私だけが知っている。私だけが視えている。楽園は優しいものではないと。

 

 みんな知らないのよ。

 

 この楽園の花が、死体から咲いているって。

 

「……ふふふ」

 

 私は折れた椿を横たえらせる。

 

 苦悶を浮かべる死者たちの目から咲いたベゴニアは、驚くほどに綺麗だった。

 

 心から思うわ。

 

 永遠に続く春の地獄プリマヴェーラは、美しいと。

  

 

 

 

 

  


 

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