第二章

第22話 穢れの雨の町ナガル 1

 まない雨音。

 町にはけがれの雨が降り続ける。


 道ゆく人々は皆、雨除けの外套がいとうを着込んでいて、フードまで被っているため、ひとめでは顔の判別がつかない。体つきや歩き方、姿勢などで老若男女くらいなら見分けられるだろうか。


 寂れた路地を歩くアリアも、同じようにフード付きの外套で雨かぜをしのいでいる。線の細い体つきは外套を着ても際立っていて、顔を見ずとも若い少女であることは推察されてしまうだろう。


 路地に並んだ建物は、壊れかけて修繕中のものや、廃墟となっているものが多い。まるで災害か魔物の襲撃でも遭ったかのようだ。


「お嬢さん、お嬢さん……」


 しわがれた声がアリアを呼び止める。

 少しだけ警戒したが、相手が老人なら心配はないかと思い、アリアは振り返った。


「私ですか?」

「ああ……」


 相手は声の印象よりも若い。中年くらいの男だった。着込んだローブはボロボロで、近寄ると少し妙なにおいがする。


「あんた……見かけない顔だね……。最近ここに来たのかい?」

「……はい」


 なんとなくアリアは危機感を覚えて身を引くが、いまさら無視をすることもできない。

 男は「ハァァ……」と水蒸気混じりの白い息を吐いた。


「そりゃ、こんなご時世にご苦労なことだ……。どうだい、ここナガルの町は? どうにも居心地が悪いだろう」

「まあ、その……」


 反応に困る問いかけに、アリアは曖昧に苦笑する。

 エレノーア教会のキサラたちに、いい宿やお店を教えてもらっているため、雨が多いのと治安がやや悪いこと意外は、生活する上でそこまで不便があるわけではない。

 もっとも、アリアは他の町や村のことは知らないので比較できるものではないが。


「この町も、雨が穢れちまう前はもっと賑わっていたそうだよ……。恵みの雨の町ナガルってな。町並みも綺麗でさ……太陽の光こそ届きゃしないが、雨天に育つ家畜と農作物……おまけに工芸品なんかもあってさ。まあ、おれが生まれる前の話だがなァ」

「はぁ……」


 かすれた声でゆったりと話す男に、アリアは困っていた。

 べつに急いでいるわけではないが、足止めさせられていい気分はしない。

 どうにか抜け出せないものかと機会をうかがう。


「なあ、嬢ちゃん……」

「えっと、何ですか?」

「もう少し近くに寄ってくれよ……」


 男の声音にいやらしい気配はないが、どこか切実だった。

 先ほどから呼吸も荒くなっていて、周囲の温度が低いわけでもないのに、相変わらず男の吐く息は白い。まるで熱に浮かされているようだ。

 おまけにその湿り気に混じった奇妙なにおいを嗅いでいると、気分が悪くなってくる。


「なあ、いいだろう? こうして人と話すのは、ひさびさなんだ……なんたって、ここは寂しい場所だからな」

「そ、それはちょっと困るっていうか、嫌っていうか……」


 ぜぇぜぇと熱い息を吐き出す男の口の端から、よだれが垂れるのが見えた。

 どう考えても様子がおかしい。正直、近寄りたくない。

 アリアがこの場をどう切り抜けたらいいか迷っていると、前方から路地を歩いてきた一人の人物が、吐き捨てるように言葉を発した。


「……またか」


 声は青年。着込んだ外套のフードが風で揺れて、その素顔がちらりと覗く。

 見覚えのある顔だった。どくんと鼓動が鳴って、アリアは目を見開いた。

 切れ長の目に、端正な顔立ち。不機嫌そうな表情は――。


晴人はると……?」


 青年は、弟の晴人と瓜二つだった。




 ハルト――何を言っているんだこの娘は。

 という疑問をひとまず脇に置いて、小汚いローブを着た中年男の肩を、青年は掴んだ。


「おい」

「んゥ? なんだァ?」


 中年男が振り返る。

 やれやれだ。

 厄介ごとに首を突っ込むのは立場上避けるべきなのだが、無視して過ぎ去るのもはばかられる。


「あまり絡むな。彼女が迷惑している」


 青年の言葉に憤ったように、男は頭を抱えてうめき声を上げ始めた。


「から……む……めい……わ、く……アァ……!」


 会話にもなっていない言葉を復唱する男。

 青年は額を押さえながら、小さくため息をついた。


「やはり、また・・か……」


 横目で絡まれていた少女のほうへと視線を送る。

 彼女は、ぽかんと間の抜けた表情で青年のほうを見ていた。


「おい、お前」

「え、私?」

「そうだ。……もう行け。こいつに用があるわけではないだろう」


 言いながら、青年は邪魔な外套のフードを脱いだ。

 すると少女は先ほどよりも真剣な表情になり、じっと青年の顔を凝視する。

 そのまま至近距離まで顔を近づけてくるので、青年は反射的に体を反らした。


「何をしている?」

「……やっぱり似てる」

「は?」

「でも、少し大人っぽいし、髪の色も違うし、何よりこんなところにいるわけがないし……」


 一人でぶつぶつとそんなことを口にして、娘は立ち去ろうとしない。

 青年が呆れていると、


「ねぇ……あなたの名前、教えて」

「なに?」

「名前。いいでしょ? 私はオースアリア。……アリアよ」


 なぜ名乗らなければならないのか。そもそも、今はそれどころではない。

 とはいえ、ここで突っぱねるのもそれはそれで面倒そうなので、青年は低い声で答えた。


「……トロイだ」

「トロイ……ふーん……」

「……なんだ?」


 アリアという少女とのやりとりにトロイが気を取られたとき、放置されていた中年の男が「ウゥゥゥ……!」と、うめき声を上げて掴みかかってきた。


「……ちっ」


 トロイは舌打ちしながら、その場から飛び退いた。誰もいないくうを抱いた男がたたらを踏む。


「アァウ……!」


 男の低くしわがれた声。自らを抱くような体勢になった男の肩が大きく震え出せば、ぼぐん!! と黒く濁った色の鉤爪が飛び出し、トロイへと迫った。


「危ない!」


 次の瞬間、トロイはアリアに飛びつかれて、押し倒された。

 ぶおん! と風切音を鳴らしながら、男の肩から生えた鉤爪が振り抜かれる。


 何を……。と体を起こそうとしたトロイの頬に、ぽたりと鮮血が垂れ落ちる。


「大丈夫? 怪我はない……?」


 仰向けになったトロイに覆い被さったアリアが、上から微笑みかける。花の蜜を思わすような少女の香りを近くで感じて、がらにもなく少し頬が熱くなった。

 どうやらアリアはトロイをかばったときに背中をざっくりと斬られたらしい。浅い傷ではなさそうだが、アリアは気丈にも痛みを表情に出さない。


「アァ……」男が再度、肩から生えた鉤爪を振り上げる。


「それどころではない。どけ! 追撃が来るぞ!」


 叫ぶトロイを安心させるようにアリアはうなずくと、くるりと外套をひるがえした。

 少女の腰に携えられた剣と小盾が垣間見える。


「そこ!」


 がきん! と硬いものがぶつかり合う甲高い音が響く。アリアが小盾バックラーを使って弾き返したのだ。

 男の肩から生えた黒い鉤爪が、跳ね返されてあらぬ方向へと吹き飛ぶ。

 その隙に、アリアは鉤爪の根本――節足動物の脚のような奇妙な折れ目に、右手に持った剣を叩き込んだ。


「ア“ァ”……!」


 斬り飛ばされた鉤爪の根本から、黒い霧を血飛沫のように噴き出しながら、男が悶え苦しむ。

 よろよろと遠ざかる男へと、アリアは一気に間合いを詰めた。

 トドメを刺すのか。見かけによらず、大した手際てぎわだとトロイは感心したが、違った。


「おじさん! しっかりして……!」


 あろうことか、少女は男の体を抱きしめるようにして、声をかけ始めたのだ。


「お願い……正気に戻って!」

阿呆あほう! 何をやっている!」


 しわがれた男のうめき声が奇声へと変わる。粘液の糸を引きながら限界まで開かれた口がばっくりと裂けて、そこから先端に口と牙のついた触手が伸びてきてアリアに襲いかかる。


「ひっ」


 予想を越えた出来事に、小さく悲鳴を上げる少女。その首根っこを掴んで男から引き剥がしながら、トロイは腰から剣を抜き放ち、男の胸部へと突き刺した。


「が……ぼっ……」


 鮮血が吹き出し、飛び散った雫がアリアとトロイの頬をわずかに濡らす。男の血はまだ赤かった。

 最後にトロイはもう一振り。優れた斬れ味を持つ宝剣により男の首を斬り落とした。

 事切れて倒れ、すぐに黒い霧となって消えていく男を見て、アリアは愕然とする。


「あ……」


 面倒に思いながらも、トロイはいちおう忠告しておくことにする。


「こいつはすでにダムドになっていた。あの姿を見れば、それは理解できるはずだ」

「ダムド……これが……」

「穢れを浴び続けたらこうなるのは知っているだろう。ダムドになった人間は、もとに戻ることはない」


 トロイの言葉を聞いたアリアはがっくりと項垂れる。

 先程のやり取りを見る限り、あの男と知り合いだったわけではないのだろう。なら、落胆する理由がいったいどこにあるというのか。


「穢れの雨による影響だろう。このナガルの町では、とくにダムドの発生頻度が多い。……気をつけるんだな」


 それにしても、妙に放っておけない気にさせる娘だ。普段であれば、このようなお節介をすることもないのだが。


 瞳を少し赤く染めたアリアが、ひざまずいたままトロイを見上げる。そして、おもむろにトロイの首元へと手を伸ばした。


「なんだ?」

「ちょっと待って。……。これでよし」


 アリアはトロイの外套の中へと手を入れると、激しい動きによってズレていた服の襟を直した。

 突然のことにトロイは、困惑しながら口を挟む。


「……何をする」

「ん、……ああ、ごめん! なんだかつい……」

「…………」


 アリアは照れたような笑顔を浮かべた。


「なんだか助けられちゃったね……。危ないところだったよ、ありがとう」

「べつに、ただのきだ」

「そっか。でも、やっぱりお礼は言うね」


 そう至近距離で見つめられて、トロイは思わず目を逸らした。


「……。もう危険もないだろう。この辺りで失礼する」


 彼女といると、なんとなくペースを乱されてしまう。

 立ち去ろうとするトロイを、アリアが呼び止めた。


「あ、待って……!」

「まだ何かあるのか?」

「あ、えっと……トロイだったよね」


 ――晴人じゃなくて。

 アリアは一度口にしようとした言葉を飲み込んでから、改めてトロイに声をかけた。


「……いろいろ大変だと思うけど、その……元気でね。私も使命のために、がんばるから」

「……使命?」


 それだけを口にすると、アリアはくるりと反転して去っていってしまった。

 取り残されたトロイは、気づけば去っていく少女の背をぼんやりと見送っていた。


「……奇妙なやつだ」


 アリアの姿が見えなくなった頃、トロイはぼそりとつぶやく。


「それにしても……使命とはな」


 少女が去っていくのと入れ替わるように、新たに男が一人駆けてくる。

 癖の強い金髪に、同じ色の無精髭。地味な鎧の上に焦茶色の外套を着込んだ、トロイより少し年上の男だった。


「殿下! こんなところにいたんですね」

「……ラオか」

「いやぁ、探しましたよ。こんな危険な町で、一人でどっか行っちゃうんだから。もうこんな勝手な行動は謹んでくださいよ、殿下」

「殿下と呼ぶな。今のオレはトロイだ」

「そうでしたね。オストレイ殿下」


 トロイは頭を抱えた。誰かに聞かれたらどうするつもりだ。


「……ともかく……調べたいことができた。付き合ってもらうぞ」

「いいですけど、いったい何を調査するんです?」


 トロイはアリアの去っていった方向を見据えながら、小さく笑みを浮かべた。不敵に。


「面白いもの・・を見つけた。……オレの勘が正しければ、裏で神々が動いているはずだ」

「ほう。それらしい人物を見つけたのですかい?」

「ああ。それに――」


 トロイは言いかけてから、かぶりを振った。


「いや……なんでもない。忘れろ」

「はい?」


 従者の疑問の声を無言で聞き流しながら、トロイは路地を歩き始める。

 町の中を歩く二人の男の足音は、雨音の中に溶けていった。

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