第13話 エレノーア教会 4


 炎拳のイグニド。引き締まった体躯を持つ褐色肌の魔族に、剣と盾を構えたアリアは向かいあう。

 先ほどのゴブリンたちとは格が違うことは、向き合うだけで感じるピリついた空気だけでわかった。

 刹那の静寂の中、雨音だけが耳に届く。


「行くぞ……人間」

「……っ!」


 イグニドが一歩前に出ると、踏み締めた濡れた地面から、ドン! と炎が噴き出した。

 直後に一瞬で距離を詰められ、イグニドがアリアに向けて拳を突き出す。

 間一髪、体をひねりギリギリで拳を避けながら、アリアは横薙ぎに剣を振るった。


「たぁっ!」


 イグニドは上体をわずかに反らして刃を回避する。

 剣の軌道が読まれている――。アリアより早く体勢を立て直したイグニドが、素早く右拳をアリアの顔に叩き込んだ。


「ぐがッ!」


 雨水が弾ける。アリアは吹き飛ばされ、濡れた地面を転がった。

 重い一撃に、頭と視界がぐらぐらと揺れる。

 ふらつきながら起き上がるが、うまく立っていられずがくりと膝をついた。


「なるほど……目はいい。見かけによらず身体能力も高い……。だが、人間にしちゃあ“技”がなさすぎる」


 堂々と歩み寄ってきたイグニドがアリアを見下ろす。

 アリアは下から睨み返すが、重い痛みと恐れで体の震えが抑えられなかった。こんなふうに手加減なく顔を殴られたのは初めてだった。


「まだ……だよ……」


 重い体に鞭打って、アリアは立ち上がる。内股になった膝ががくがくと揺れる。

 それでも剣の切っ先を相手に向けて、アリアは構えた。


「結果の見えた戦いに、興味はねぇんだがな」


 イグニドは腰にぶら下げていた革紐を手に巻きつけていく。


(あれは……)


 セスタスと呼ばれる、手を保護する武具だ。

 その原始的な装備が、イグニドという魔族の得物なのだろう。


「そんなの……やってみないとわからないでしょ」

「そうか? なら……」


 セスタスを装着し終えたイグニドが、片手を突き出して、挑発するようにアリアを手で招いた。


「世間知らずな人間に、力の差を教えてやるのも、やぶさかじゃねぇな……来いよ」


 誘われるままにアリアは一歩を踏み出す。

 イグニドが足踏みをすると、行く手を遮るように噴き出す炎。怯まずにアリアは炎の中を突き抜ける。


「やぁぁ!」


 振りかぶった剣を、イグニドの肩へと叩きつけようとした。


 その、瞬間。


 パァァンッ――!!


(え……?)


 何が起こったのか、すぐにはわからなかった。

 気づいたら、アリアは体勢を崩してのけ反っていた。

 イグニドの振り払うように動かした左手が、アリアの剣を殴って弾き飛ばしたのだ。


「パ、パリィ……!?」


 それも、セスタスという革紐を巻いただけの、ほとんど素手の状態で。

 相当の技術と度胸がないとできない芸当だ。


 ガラ空きになったアリアの懐に、体勢を低くしたイグニドが力強く踏み込んでくる。


「――終わりだ!」


 アリアの腹部に。

 急所である鳩尾みぞおちに、イグニドは拳を叩き込んだ。


「かっ……はっ……!!」


 叩き込んだ拳にひねりを加えられ、アリアに体に深く入り込む。

 直後に吹き飛ばされたアリアは、背後にあった大木たいぼくへと背中をしたたかに叩きつけられた。


「んっ……ぐぅぇ……!」


 吐血するアリアの腹部にもう一撃、瞬時に追いかけてきたイグニドが拳を打ち込む。

 ズシン! と凄まじい衝撃が背後の大木を揺らし、挟まれたアリアの華奢な体を臓腑ぞうふごと押し潰した。


「……っ!!」


 抑えきれないほどの熱い血が喉の奥から込み上げてきて、アリアの口から吐き出された。

 イグニドがアリアの体に叩き込んだ拳を引き抜くと、支えを失ったアリアはがくりとうつ伏せに地面に倒れる。


「……ぁ……ぅ……」


 濡れた土の上。冷たい雨に打たれながら、ほとんど虫の息のアリアが、焦点の定まらない瞳で虚空を見つめる。

 イグニドはかがみこんで見下ろし、少女に戦う力がもうないことを確認した。


「戦いの素質も、戦う覚悟も……見どころがあったが、経験はまだまだのようだな。――駆け引きがなってねぇ」


 イグニドはアリアの髪を掴んで頭を持ち上げ、そう言ってから手を離した。

 ばしゃん、とアリアの頭が水たまりの地面へと落下する。




「その真っ直ぐさと素質にめんじて、お前はまだ生かしておいてやる。……いずれ俺を満足させる敵になるかもしれねぇ」


 イグニドはアリアに背を向けて歩き出した。

 そして――数歩進んだところで、その歩みを止めた。


「……なんだ、てめぇ」


 背後。アリアは立ち上がった。


「……はぁ、はぁ、……はぁ…………っ……」


 血と泥にまみれながら。ふたたび手にした剣の切っ先と、虚ろな瞳は、たしかにイグニドのほうに向いている。


「ほう……。やんのか、娘ェ!」

「……ぅ……ぐっ……」

「命尽きるまでやろうってか? いいーじゃねぇか!!」


 イグニドが吠える。

 詰め寄った二人の体が交差した。


「……残念だったな……死戦を超えたところで、勝てるわけじゃねぇんだよ」


 剣を振るうアリアの右手首を、イグニドの左手が掴む。

 それでも小盾バックラーを使って攻撃しようとするアリアより速く、イグニドが拳をアリアの顔目掛けて突き出した。

 それを。

 アリアは首を振って避ける。


「……なにぃ?」


 掴まれている手首を振り払い、アリアはイグニドに向けて剣を突き出した。


「ちっ!」


 ガァン! イグニドが振り払うように繰り出した裏拳が、剣の腹を叩く。パリィだ。ふたたび体勢を崩したアリアに、イグニドがトドメの一撃を叩き込もうと構える。

 そのとき、離れた位置に倒れていた銀髪の少女が、何かをつぶやきながら手にしたをイグニドに向けた。

 シュン……ばしゅん!

 杖の先から放たれた輝きをまとう青白い光弾が、イグニドの体に直撃して炸裂した。


「ぐおぉッ!? 今のは……魔力の矢か?」


 薄青色の瞳が、切望するようにアリアに向けられる。

 それも長くは持たず、少女はがくりとまた気を失った。

 だが。今のアリアにとって、十分な隙だった。


「……ッ!」

「ぐっ、しまった……ッ!!」


 ザシュン!

 振り抜いた剣の切っ先は、首を斬ることはできなかったが、避けきれなかったイグニドの頬に深い傷をつけた。

 どしゃああっ! とアリアはそのまま水たまりに倒れ込んだ。


「……こいつ……」


 アリアは倒れながらも、弱々しく泥をひっかいて起きあがろうとする。イグニドは戦う構えを解いて見下ろした。


「私は……生き……る……」


 アリアの苦しげな声を聞いて、聞き返す。


「……なぜだ?」


 アリアは答える。


「……やるべきこと……が……ある、から……」

「そうかよ」


 イグニドは今度こそ、アリアに背を向けて去っていく。


「ふん……穢れの神ダムクルドの導きあれ、だ」


 去り際、背中越しに放ったイグニドの言葉を、地に伏したアリアはたしかに聞いた。




 薄暗い森を、ざぁざぁと降る雨水が叩く。

 アリアは水たまりを這うようにして、近くの木まで移動して、それにもたれかかった。


「はぁ、はぁ……んっ」


 ごくり、と神花の霊薬を一口だけ飲む。

 すると、あれだけひどかった体の痛みが、どんどん引いていく。

 アリアのような迷い人にとって、本当に強力な薬のようだ。


「……ふぅ」


 息を吐きながら、先ほどの戦いを思い出す。

 完全なる敗北だった。もし彼が本気で殺すつもりだったら――いや、殺すつもりだったのだろうが、最後にかけてくれた温情さえなければ、アリアの命はなかっただろう。

 悔しい――けど、なぜか心は落ち着いていた。

 すっきりとしているくらいだ。イグニドにああも堂々と、力の差を見せつけられたからだろうか。


「そうだ……あの子は!?」


 アリアは魔族に捕まっていた銀髪の少女のことを思い出す。

 彼女は先ほど魔法のような不思議な力でアリアのことを助けてくれたのだが、また気を失ってしまったらしい。

 アリアが助けに来るまで、ずっと殴られ続けていたのだろう。少女は痣だらけでひどい状態だった。


「大丈夫?」

「……ぅ」


 アリアは体をゆすってみるが、苦しげに喘ぐだけで目覚めることはなかった。

 どうしよう。周囲を見回すが、だれも助けてくれる人はいない。


「……それなら」


 アリアは神花の霊薬を取り出した。


(迷い人じゃないと、あまり効果がないらしいけど……)


 彼女の苦しみを少しでもやわらげることができるかもしれない。

 ユイを救ってくれた、心優しい少女を助けるため。


「お願い、飲んで……」


 可憐かれんな少女の唇に、アリアはびんのふちを当てて、霊薬を流し込む。


「……けほっ……」


 しかし咳き込むだけで、なかなか薬を飲んでくれない。

 フローリアのくれた大切な霊薬がこぼれてしまって、もったいないだけだ。

 確実に飲んでもらうためには、何か方法を変えなくてはならない。


口移くちうつし……するしかない)


 どくん、と鼓動が鳴った。

 目を閉じて、深呼吸をして、アリアは覚悟を決める――。

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