№27 おはようからおやすみまで『は』聖人君子なヒモ吸血鬼が私の最推し!

 それからさらに一か月が過ぎた。


 季節は夏に向かっており、空気もどこか湿っぽい。梅雨入りしたばかりだが、今年は空梅雨だとニュースで言っていた。


 ぱっとしない天気は、好きだった。あのうざったい太陽が隠れているだけで外が歩きやすくなった。


 安物のパンプスを鳴らしながら、咲はさっそうとオフィスに戻ってきた。


「商談、まとまりました!」


「さっすが、打率十割の女!」


 同僚がはやし立てるが、咲におごったところなどない。いつもどおりにやっているだけなのだから。


 ……最初の一週間は、カインとふたりきりで過ごした。血を吸い、吸われ、ただそれだけを繰り返していた。


 しかし、ある時を境にカインは昼の生活へと目を向けるようになった。


 朝あの聖人君子な笑顔で世話をして、咲を職場へ送り出す。散々放蕩してから家事をして咲の帰りを待ち、出迎える。しばらくいちゃいちゃしてから、『おやすみ』の時間がやって来る。


 以前と同じリズムを刻み始めた生活に、当初咲は発狂しそうになった。


 太陽が焼け付くようにまぶしい。喉が渇いて仕方がない。


 早く帰りたい。


 そればかり考えて、仕事に身が入らなかった。


 そんなある日のこと、咲を名指しで会社に一本の電話が入った。出てみれば、イヤでも耳慣れた声が聞こえる。


『こんにちは』


「……倉敷、さん……」


 口調はあくまでやわらかだが、芯から凍り付いている声音に、咲は身構える。


『ははっ、そう緊張しないでください。なにもしませんよ……当分は、ね』


「あんたの送ってきた吸血鬼ハンターは、私がぶっ飛ばしてやったんだから」


『威勢の良いひと。そういうところもステキだ……それで、どうですか? バケモノになり果てた感想は?』


「おかげさまで、気分は上々だよ」


『強がりますね。今だって昼間の気配にやられてるはずだ。あなたはもう、バケモノなんですから』


 ハラの内は読まれているらしい。電話越しにあの観察するような蛇の視線を感じて、咲の背筋が冷えた。


 それでも、咲は啖呵を切る。


「バケモノでけっこう。あんたみたいな鬼畜外道よりはよっぽどマシ。あんたこそ、そろそろ自覚した方がいいんじゃない? 自分は普通にはなれないんだ、って」


『ははっ、なにを言ってるんですか。僕は普通ですよ、あなたがたと違って』


 このサイコパスには、やはり自覚がないらしい。肉体はバケモノでも精神は『ふつう』の咲と、肉体は人間でも精神が『ふつう』ではない倉敷。分かり合えるはずもなかった。


『ひとつ、言いたいのは……あきらめませんよ、ってことです』


「……しつこい男」


『忍耐強い、と言ってください。だって、あなたがいけないんですよ? 僕が用意してあげた逃げ道を、ことごとく潰して。僕のものにならない限り、あなたは大切なものを失い続けるでしょう。今回は人間性、次は……なにかな?』


 言葉でなぶってくる倉敷に、咲がとうとうキレた。まわりに聞こえるくらいの大声で受話器に向かって怒鳴りつける。


「なにを失ったって、カインがいれば私の勝ち! 誰にも邪魔させない! あんたこそ、首洗って待ってな!!」


 そして、受話器を叩きつけるように電話を切った。


 同僚たちが呆気に取られてこちらを見ているが、気にしない。


 負けるもんか。


 闘志に火をつけられ、咲はなにがなんでも元の生活に戻ろうと決めた。


 それからというもの、咲は覚醒する前のライフスタイルを意地でも貫こうとした。朝起きて、仕事に行き、夜には帰って眠る。たったそれだけのことなのに、だいぶん苦労した。


 それでもここまで持ち直したのは、すべてカインの献身的なサポートのおかげだ。朝なかなか起きられない咲をやさしく起こしてくれて、職場へ送り出してくれる。帰りは笑顔で迎えてくれて、食事から入浴から睡眠までリラックスできるように気遣ってくれる。


 そんなカインに、咲はますますのめり込んでいった。


 ……もちろん、より刺激的になった真夜中の『情事』も含めて。


 一か月も経ち、咲は完全に職場復帰を果たした。まだ昼はつらいが、耐えられないほどではない。


 今日もひとつ商談を取りまとめ、書類仕事をして意気揚々と帰宅する。


 玄関を開けると、エプロン姿の推しが出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、ご主人様」


「ただいま、カインー♡」


 いつくしむような微笑みに飛び込むように、咲はカインに抱き着く。


「っはあああああああ、充電されるー♡」


「今日も一日、お疲れさまでした。さあ、靴を脱いでください。夕飯まで少し休みましょう」


「お姫様抱っこして連れてってくれたら♡」


「ふふ、しょうのないご主人様」


 苦笑したカインは、丁寧に咲の靴を脱がせ、そのままお姫様抱っこでリビングのソファへと運んでくれる。ジャケットをハンガーにかけ、カバンを整理し、膝枕をする。


「えへへー、急速充電ー♡」


 でれでれになっている咲は、カインの腰に腕を回し、また抱き着いた。そんな咲の頭をやさしくなでながら、ゆるやかに無言の時間が過ぎていく。カインと過ごす音楽も何もない静寂が、咲は好きだった。


 体温が溶け合う頃、ふと咲はつぶやく。


「……カインは、これでよかった……?」


 あいまいな問いかけだったが、カインにはその真意が読み取れた。ひざの上の咲の頬に手を添えて、


「わたくしめは、ご主人様さえいらっしゃれば充分でございます」


 花のにおいを嗅ぐときのように目を細め、カインは咲の頬に口づけした。


「うん、私もだよ」


 微笑んだ咲も、カインのくちびるについばむような口づけを返す。


 ただ笑いあう時間がしばらく過ぎて、カインは思い出したように口を開いた。


「ところで、今日もパチンコで一発儲けました。冷凍庫にハーゲンダッツがニ十個ほどございますので、あとでお召し上がりください」


「すごーい♡ さすがカイン♡ そうだ、明日のお小遣い!」


 さっと財布から取り出した諭吉は、十人から二十人に倍増していた。


 捧げ持つようにお札を受け取り、カインはしずしずと頭を下げる。


「ありがとうございます、ご主人様」


「なんのなんの、推しへのお布施は当然のこと!」


 ひらひらと手を振って笑う咲に、カインは笑みを押し殺したような真面目な顔で再度礼を告げた。


「……本当に、ありがとうございます」


「それはさっき聞いたって」


「いえ……そうではなく。わたくしめを『ふつう』にしてくださって、本当にありがとうございます」


 求めてやまなかった『ふつう』の暮らし。


 焦がれてやまなかった『ふつう』の愛。


 咲に与えられたすべての物事に、カインは深く感謝していた。


 そして、必ず守り通すと決めた。


 咲はそんなカインと額を合わせて、ないしょ話をするように、にっと笑う。


「いいんだよ! だってカインは、私の最推しなんだから!」


 結局は、そこに落ち着くのだった。


 これから先、いくつもの困難が待ち受けているだろう。


 しかし、もうなにもこわくない。


 悠久の時を共に歩むつがいがそばにいるのだから。


 これをしあわせと呼ばずしてなんと呼ぶのか。


 ずっとずっと、離さない。


 お互いにそう思いあいながら、ふたりはいっしょに暮らしていきました。


 めでたし、めでたし。


 ……とはならないのが世の常だ。


 そう、今夜もやって来る。


 『おやすみ』のあとの時間が。


 午前零時の征服者。そして、明くる朝の聖人君子。


 両方を最高に推しまくりながら、今日も咲はダメンズメーカーとして生きていくのだった。

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