たえがたい

伴野えい

不気味な男

 すっかり迷ってしまった。周囲には山と田んぼしかない。田んぼがあるのだから、そう遠くない場所に人が住んでいるはずだが、民家は見当たらない。ここはどこだろう。連れも、すっかり疲れた様子で何も話さず、足元を見ながら歩き続けている。

 ポケットからスマホを取り出して、画面を確認する。相変わらず圏外だ。

「おい、家があるぞ。あそこで休ませてもらおう」

 顔を上げると、連れの指差す先に、小さな青い瓦屋根の家が見えた。普段だったら、見知らぬ人の家に行って、休ませてもらおうなんて考えもしない。だが、今はとにかく疲れ切っていた。

 くもりガラスの引き戸を数回ノックして「すみませーん」と声をかける。家の中からバタバタと足音が聞こえたかと思うと、すぐに引き戸がガラガラと音を立てて開いた。くたびれたシャツを着た若い男が「どうされましたか」と家の中から出てきた。不気味な男で、若そうなのに目の下にはひどいくまができていた。肌は荒れ、唇は青に近く、ひび割れている。

 この家はやめておいたほうが良いかもしれない。

「道に迷ってしまって。少し休ませてくれませんか」

 連れは、出てきた男を警戒している様子がない。自分の考えすぎだろうか。結局、その家で休ませてもらうことになった。


「すみませんね、ろくなもてなしもできずに」

 若い男はそう言ったが、座卓には様々な料理が並んでいる。刺身にカニ鍋、ステーキ、それから……ジャンルはめちゃくちゃだが、どれも美味そうだ。

 この男が一人で食べるつもりだったのだろうか。家の間取り的に、この男以外に誰かがいるとは思えない。

「来客の予定があったんですか?」

 連れの問いに、男は「ええ、はあ、まあ……」と歯切れが悪い。客人用の料理だったとしたら、自分たちが食べてしまってもいいのだろうか。

「家にあったものですから……気にせず食べてください」

 男は自分の考えを読んだかのように、そういった。

「いただきます」

 割り箸を割ると、眼の前に置かれた煮物を口に運んだ。美味い。歩きすぎて、痛む足にばかり気が行っていたが、腹も減っていたのだ。連れの方を見ると、ヤツもパクパクと食べている。例の男は少し離れたところに座り、窓の外を見ているだけだ。食べないのだろうか。気にはなったが、あの不気味な男に声をかけるほどの元気も残っていなかった。今はただ、空腹を満たすため、食事に集中することにした。


 食事を終えると、連れは「それじゃあ、俺達はこれで失礼しますね」と言い、荷物をまとめて立ち上がった。自分も置いていかれないように、慌てて荷物をまとめる。

「あ、あの! 駅まで送りましょうか……」

 男が自分に向かってそう話しかけてきた。願ってもない申し出だったが……。

 連れが「断ろう。この男はなんだか怪しい。君もそう思っているだろ」と耳打ちしてきた。

 ……確かに。

 この男は怪しい。ご馳走になっておいて難だが、やはりどこか信用できない。車に乗せて、自分たちを殺して身ぐるみを剥ぐつもりかもしれない。

 連れは作り笑いを浮かべ、「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」と答えた。男は心底残念そうに「そう……そうですか。では、お気をつけて……」と小さな声で言った。


 青い瓦屋根の家を出て、再び歩き始めた。

 ……そう言われれば、どこに行くんだっけ。

 連れに行き先を確認しようと、先頭を歩く彼に声をかけようとして、もっと恐ろしいことに気がついた。彼の名前がわからない。

 ずっと連れだと思っていたこの男。この男は誰だ?

 青い瓦屋根の家に戻ろうと、後ろを振り返る。しかし、そこにはもうあの家はなかった。あるのは山と田んぼ、沈みかけている太陽のみだ。

「どうした?」

 男が自分に背を向けたまま、声をかけてくる。

「あの……やっぱり、さっきの人に駅まで送ってもらおうよ」

 家はどこかに消えてしまったように見えるが、小さな家だったから、ここからは木に隠れて見えないだけだろう。

「……」

「ねえ……」

「……」

 男は何も答えず、ゆっくりと振り返り、こちらに身体の正面を向けた。その顔は真っ黒だった。黒く塗りつぶされているわけではなく、闇そのものだった。

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