三月

第2話 千華子さんの家

 僕が同じゼミの千華子さんと付き合うようになって数ヶ月が過ぎた。デートはもっぱら僕のアパートか現地集合のどちらかで、彼女の住んでいる所について僕は何も知らない。付き合う前に実家住まいだと言っていたし、それなら僕を呼ぶのも何となく気まずいだろうと思って、そのことには何も触れなかった。

 そんな矢先、彼女がゼミの先輩追い出し会で酔いつぶれた。体の力が抜けてグニャグニャになった彼女をゼミの同期達は僕に押し付け、二次会へ行ってしまった。彼女の頬を軽くつまみながら、どうする?と聞くと念仏のように何かを呟いた。どうやら実家の住所らしい。実家に帰りたいのだと僕は解釈し、タクシーを呼び、彼女の念仏を日本語に翻訳したものを運転手に伝えた。

 僕は、大学進学を機にこの県に来た人間だ。彼女の言っている住所がどれ位の距離があるのか、どんな所なのかはよくわからない。あまりタクシーも使ったこともないから、どれくらいお金と時間が掛かるのかもわからない。でも仕方ない。彼女が実家に帰りたいと言っているのだ。自慢じゃないけれど、僕は彼女に甘い。つい振り回されてしまう。彼女はいつも否定するけれど。

 足りなかったら彼女のお母さんとかに建て替えてもらわないといけないんだろうな。水母のようになった彼女を連れ、タクシー代をせびる男。第一印象最悪だ。そうこう考えながら、彼女に水を飲ませたり、外の風景を見たり、それ以前に彼女が吐いたらどうしようと懸念していたら、目的地に着いた。タクシー代は、僕の手持ちで間に合った。

 彼女の家の周りには、田んぼと、畑と、山と、一本の道路しかなかった。タクシーが進むにつれて、店や家の明かりや外灯、すれ違う車など、人の生活の気配はどんどん減っていってしまった。「ここで停めてください」とやけにはっきりした声で千華子さんが言ったのは、坂道のふもとで、本当にここでいいのか聞いたら、坂の上を指差した。成程、彼女を抱えて登れと。結構急なこの坂道を。

 千華子さんをまるで負傷兵のように支えて坂道を歩かせる。周りに照明もなく、星と月だけが光源だった。暗い中目を凝らす。少しずつ目が慣れてきた。どうやらこの坂は、小さな山を車一台分の幅だけ切り開いて出来た道のようだ。

 東北の三月はまだまだ寒く、冷えた空気が酔いを醒ましていく。先日降った雪が道の端にまだ残っている。こういう山道はかなりの確率で道が凍っている。昼に雪が溶けて、その雪解け水が道を覆って夜にもう一度凍るのだ。転ばないよう足の底に注意を払って歩く。底にきちんと凹凸の付いた靴を履いていて良かった。

 空気から土と氷の匂いがする。砂利を踏む僕たちの足音の他に、山から葉の擦れる音がする。多分竹が生えているのだろう。細かい葉の一枚一枚が互いにぶつかり、風に吹かれ、竹がしなって元の位置に戻り、独特のリズムが生まれている。まるで潮騒のようだと思っていたら、坂の頂上に明かりの点った一軒家が見えた。家は山を後ろ手に建っており、潮騒の音は、坂道のどこよりもずっと強かった。

 家の玄関先で声をかけると、千華子さんのお母さんらしき人が出た。僕を見て少しびっくりしたようだけれど、僕にもたれ掛かったベロベロの千華子さんを見て全てを理解してくれたらしい。あぁーごめんなさいねぇ、と少し大げさに言いながら、千華子さんを上手くけしかけて奥の部屋にやってくれた。それじゃあ、とお暇しようとすると、引き留められた。

「ここからだとタクシーを呼ぶのに時間もかかるし、夜ももう遅いから、泊まっていってちょうだい。朝は、私かおとうさんが車で駅まで送っていくからね。」

 流石にご家族に初対面で家に泊まるのは、と思い遠慮の言葉を口にすると、彼女のお父さんらしき人が顔を出した。

「千華子からよく話は聞いているよ。千華子の彼氏君だろう。誕生日にチーズケーキ作ってくれたり、レポート大変な時は部屋に泊めてくれるっていう、あの。泊まっていきなさい。いつも千華子が世話になっているんだから。今日くらいは。」

 普通、彼女のお父さんが一番嫌がったり気まずい思いをしたりするものじゃないのかな。更にご遠慮させて貰おうと思っていたら、彼女のおばあさんも出てきた。

「布団、客間に敷いといたからね。」

 更におじいさんまで手に一升瓶を持って出てきた。

「飲まい。」

 そんなわけで僕は、千華子さんの家にお泊りさせて頂くことになり、そんなわけで僕は、千華子さんが今まで僕を実家に呼ぶのを嫌がっていた訳を嫌という程思い知らされたのだった。

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