第四章 香雨 3
ベンチタイプの黒い椅子に、浅く腰掛けたハルさんは指や腕をほぐしている。
落ち着いた様子でピアノに向き合うと、一呼吸してから白と黒の鍵盤を叩き始めた。
緩やかな旋律が耳に心地よく入ってくる。
穏やかで甘いはずなのに、時折強くなる音が曲全体の熱を上げていく。
快晴の日であっても、雨空の日であっても、天気に左右されることのない曲だと思う。
心を落ち着かせてくれる……。
最後の一音が鳴り止むと、私は胸の前で何度も両の手を小さく衝突させた。
「……すごい。感動しちゃった……」
「――ありがとう」
「曲名はわからないんだけど……この曲、知っている」
「うん、有名な曲だから。エルガーの『愛の挨拶』って曲」
「そうなんだ。本当に……すごかった。聴かせてくれて……ありがとう」
「こちらこそ。あ……ぶどう食べてね」と、二人でガラステーブルの前に座って、香ばしい麦茶を飲みながら、甘いぶとうを口に入れていく。
ぶどうを口に運ぶ指先を眺めるハルさんが、口内で小さな果実を弾けさせて、空間に声が広がらないように呟いた。
「――私ね……ピアノ辞めたことがあるの……」
「え……そうなの?」
「うん……休むと感覚が鈍くなるし、今まで培ってきたものを失うのが早いから、練習は怠らないものなんだけど……私は……一度辞めたんだ」
「……なにかあったの?」
「うん……ピアノが……音楽が好きで始めたのに……いつからか、コンクールで入賞するためだけに、必死で練習するようになっていたの」
「……そうなんだ」
「『楽譜に忠実、完璧に弾く』それだけを求めるようになっていてね。聴いてくれる人の気持ち、作曲者の気持ち、自分の気持ちなんて、少しも考えなくなっていた。それに、気づいて……去年、ピアノを辞めて……学校にも行かなくなった」
「……学校も?」
「……うん。なんか……どうでもよくなって」
「……そうなんだ」
「――だから、出席日数も足りなくて、留年しているんだ私。あきちゃんたちより、一歳年上なの」
ハルさんは切ない表情を浮かべて、ぶどうをゆっくり咀嚼している。
私は知らなかった。
ハルさんが先輩にあたることを。
彼女の大人びた雰囲気が、それに起因するのかわからないけど。
どのような言葉を出したら、彼女は安心できるのかな。
麦茶へ視線を移すと、薄茶色の水面が私の心を表して、静かで微かに揺らいでいた。
「――ごめん、驚いた?」
「……うん、少しだけ」
「……愛衣ちゃん……園山君……留年していることを前に話した時、怖かった。態度が変わるかなって……友達じゃなくなるかなって……思ったけど。二人が変わらずに接してくれて、嬉しかったんだ」
『変わらないことはない』
一歳年上というを話されて、確かにハルさんに対する私の知りうる事実が変わった。
でも……それだけ。
今日、生まれた関係性だったり、ハルさんに対する気持ちが、そのようなことで変わることはない。
「……私も……変わらない……よ」
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