第二章 憂慮 7

「その目……何か言いたげだよね」と、蔑むような母の眼差しから逃れるために、私は静かにうつむいた。

表情は見えなくなったけど、黒いストッキングで守られた足先と声だけが、私に母の存在を知らせている。


「そうやって、自分に都合が悪くなったら、下を向けば話が終わると思っているの?

学校なら、それでいいんだろうけど、社会って甘くないからね」


「ごめんなさい……」


「……何に対して? 誠意のない形だけの謝罪……とりあえず謝っておけばいいなんて通用しないからね。それって、失礼なことだよ。私に何か文句があるなら言えば?」


「ないよ……文句なんて……」


「だから……さっきの目が、そう言っているんだって……普段もだけど」


「……ないよ」


「そうやって、陰気な感じで下ばっかり向いているから、学校にも行けないし、友達だってできないんでしょ?」


「……学校……行けたよ……」


「――行ったの? 高校には、お金を払っているんだから行くのは当たり前。別に偉そうに言うことでもない。普通のことなんだからね」


『当たり前』『普通』

弓に狙いを定められた私は、野生動物の俊敏さなど持ち合わせていないから、簡単に急所を貫かれてしまう。胸に突き刺さっていた矢が増えて、それは周辺の肉を抉りながら、目当ての物を探している。

痛い……。血が出ているわけでもないのに、とても痛い。矢が深く入り込むたびに、純黒で悲痛な思いが増幅していく。


「私……普通じゃないの……?」


「普通じゃないでしょ。今日だけ学校に行ったからって、偉そうにしている時点で普通じゃない」


「……偉そうになんか……してないよ」


「明夏がそう思っていても、私はそう感じているんだから。自分の言動、態度、表情が相手に伝わって会話が成り立つの。自分の真意と違うように受け取られても、正解は相手に委ねられているの。わかる?」


『正解は、相手に委ねられている』というなら、私が普段から感じていて、今も感じた気持ちの答え合わせをしたい。本当は、聞きたくもないし、言葉として出したくもなかった。真実を知ることが怖いから。

それでも、私にはわからないから、相手の答えと私の答えを確認してみるしかなかった。


「じゃあ……お母さんは……私のこと……き……嫌いなの……?」


「……そうね。学校もろくに行かない。私の苦労も知らない。呑気に生きている人間のことなんて、好きになる人がいると思う?」


 私のことだって知らないのに。

私も母の大変な部分を聞いたことはないけど、母だって私の話を聞いてくれたことはない。

何でそんなこと言うの……。

何でそんなこと言うの……?


「私は……いない……ほうがいいの?」


「………………」


 いくら待っても、返答はない。

うつむいている私には、母の下半身しか目に入っていないけど、服を着たマネキンのように微動することもなく立っていることが悲しかった。

その場から逃げるために、勢いよく走り出すことはなくて、心情と同様の緩徐な足取りでダイニングを出ていくことしかできない。

私の背中に、母からの優しい言葉が当たることはなかった。


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