第二章 憂慮 3
佐々木さんは頬を膨らませて、凶器といわれた拳を宮本さんの手と共に下ろした。
佐々木さんは、将来有望の空手家らしい。
フルコンタクトという意味が私にはわからないけど、中学生時代から全国大会で名を馳せていたと、先生たちが話しているのを耳にしたことがある。
「ごめんね」
両の手を合わせた宮本さんが言う。
宮本さんに謝罪を受ける理由がないから『気にしてないから、大丈夫だよ』と言いたかった。
他人と話す怖さとホームルーム開始のチャイムに掻き消されて、言葉は塵となってしまった。
生徒が着席していく騒音が響いている中、宮本さんに小さく震えた声で伝える。
「……から」
「え……?」
「違う……から」
「うん……ごめんね」
担任教師が来て「うす」という声を出す。
五十代の白髪頭が目立つ、胴回りの膨れた男性が教壇に立つ。
生徒名簿を指で弾いて、指紋が付いた眼鏡の上を飛び出している目は、静かに教室を見渡している。
「ええと、今日も休みは……雨宮だけ……と」
いるのに……。ここに、いるのに。
声帯を振動させることもないままに、唾液が喉を通過していく。
言葉は心の奥へと隠れてしまった。
「あの……! いますよ! 今日は、みんな揃っています!」
椅子に悲鳴を上げさせて、大きな張りのある声で園山君が言った。
細いと思っていた彼の身体……その背中が随分と大きく見える。
成長期の男子だからという薄い理由じゃない。
先程の佐々木さんに掴まれていた時とは違って、逞しい姿が私の目に映る。
「ええ……? ああ……なんだ、登校してたのか。サボってばかりいないで、ちゃんと学校に来いよ。一年だからって弛んでいると進路もなにも決められない奴になるぞ。中学と違って、留年もあるんだからな」
担任教師は白髪頭の頭皮を指で傷めつけていた。
一限目から四限目まで授業は進んでいく。
私の休憩時間は、女の子の友達同士でトイレに行くこともないから、自席に戻れば落ちては消えていく雨を眺めている。
天音さん……学校に来れました。
でも……。
四限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
『食堂に行こー』
『飯、飯!』
『一緒に食べよう』
『腹減ったー』
様々な声が教室内を歩き回っている。
私は学生カバンを手に持って、廊下を急ぎ足で通過していく。
廊下にいる人は他のクラスの友達と一緒に食べるために目的地を目指していたり、パンの売店や食堂を目指している生徒もいる。
私は、昼食の時に一緒に食べる人がいない。
教室にいることが苦痛で、去っていくことでしか自身を保てなかった。
みんなが楽しそうに食事をしている中、一人ぼっちで黙々と食べれる人ではない。
学校に限らず、お祖母ちゃんが亡くなってからは一人で食事をしているから『一人の場所』で『一人で食事』をすることは慣れてしまった。
傘を広げて目指す場所は、校舎から離れた野球グラウンド。
野球グラウンドに張られたネットに隣接した土手が、入学してから昼食の定位置だった。
今日は土手で食べることが無理だから、近くにある体育倉庫のシャッター前で食べることにする。
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