探偵史 プロローグ
山本ワニ
第1話
最後の産業革命を明けた大英帝国は、繁栄の一途をたどっていた。
その栄光の頂点にあるのが、首都であるロンドンだった。
産業革命と鉄道の発展によって都市が発達し、田園風景だった国家が、工業国へと変わりつつあったヴィクトリア朝時代に、ロンドンの人口は200万人から650万人へと飛躍的に増加した。
大英帝国の領土に陽の没するところはないといわれたほど全世界に散在した広大な植民地から流れ込んだ人々も含めて、この世界最大の都は世界の政治・経済・産業の中心であるだけでなく文化の最先端でもあった。壮麗な大建築や記念碑が立ち並び、馬車や人々がひしめき合いながら大通りを流れていく。
しかし、そんな繁栄にも陰りが見え始め、ロンドンの街にも影響が出始めた。
もともと田園国家だったイギリスが、産業革命とともに都市化がすすめばどこかに歪みが出てくるのはしょうがないことだった。
そして、活気にみちたこの大都会にひそかに忍び寄っていったのは、またたくガス燈をくもらせる濃い霧ばかりではなかった。人口の集中と、中流階級の出現、貧富の差などによって新しい犯罪が増えてきたのだ。
ロンドンの人口の3分の1はパンもろくに食べられないような貧困にあえぎ、一歩裏町に足を踏み入れれば売春婦が一メートルごとに立ち並んでいるというのが現実であった。
1880年代のロンドンの人口は330万人。その3万から36万8000人が売春婦だった。一番少なく見積もっても零歳以上の女性の55人に一人は売春婦だという勘定になる。
産業革命以降、都市は急速に人口を増やしてきた。都会に甘い夢を抱き、農村から多くの人口が移動してくる。運よく下層労働者として雇い入れてもらえたり、メイドとしての職が得られれば良いが、ドロップアウトして売春に身を落とす者、犯罪に走る者も出てくる。
この犯罪が多発する状況で、難問、怪事件に強固な姿勢を見せるスコットランド・ヤードが市民の期待を買うのは仕方のないことだった。
1884年には、当時の警視総監であったエドモンド・ヘンダ―スンが警官の数を、約8500人から1万5000人に増やしてロンドンの治安維持に当たらせていたが、1877年に競馬詐欺事件という、ヤードの警官をも巻き込んだ事件が起きてからというものの、警官の職務に対してさらに徹底をさせていた。
犯罪うごめくロンドンの街の治安に当たるヤードの警官の給料は安く仕事も辛かったので、1872年、彼らは賃金引き上げなどを理由に暴動をおこしたが、それでも彼らの職業は世の中から尊敬される仕事ということで、中流階級の人間には人気のある仕事の一つだった。
1887年、ヴィクトリア女王の即位50周年式典で、国民の気持ちが高揚しているのとは正反対に、ロンドンの街では贋金づくりが蔓延し、経済を脅かしていた。
スコットランド・ヤードの懸命な捜査で、その贋金づくりには、いくつかの犯罪グループがかかわっていることが判明した。だが、そのグループを一斉摘発するために、捜査を続けていたヤードの面々は、さらに驚愕の事態を知ることになる。その贋金づくりの犯罪グループの裏では、それらグループを、まるで働きアリを整然と統率する黒幕がいたのである。
個別に存在したと思われていた贋金づくりのグループには、総元締めがいたのだ。
捜査は、慎重を要するものとなった。
犯罪グループを刺激するタイミングを間違えば、その振動は、まるで蜘蛛の糸を伝わって中心の蜘蛛に伝わるように黒幕に伝わり、たちまち、他の多くのグループを取り逃がしてしまうだろう。
犯罪グループを追い詰めるには、何か違う一手が必要だった。
捜査の陣頭指揮を任されているレスター・ランドは、あらゆる方法を使って、その手段を考えていた。
レスター・ランドは、ロンドンの新聞各紙にその捜査ぶりを称えられる名警部である。
その痩せて厳めしい顔つきで犯罪者を取り締まり、威嚇するその姿勢は、若干30歳ながらも、スコットランド・ヤード全体から熱い信頼を得ていた。彼もそのことに関しては誇りに思っていた。だからこそ愛すべき彼の街を混乱に陥れようとしている人間たちには腹がたったし、そういう連中を取り締まるヤードの刑事という仕事は、彼自身、天職と考えていた。
彼もそのことに関しては誇りに思っているし、また、周りの期待に応えたいと思っていたが彼が名警部と称賛されるひとつの理由として、ある秘密があった。
この事件については、まだその秘密を利用してはいなかったが、ヤードの捜査で事件の中核に足を踏み入れることができそうなだけあって、今回ばかりは、ランドは自分の捜査に自信を持っていたのだった。
そんな思いと自信が、ランドの思考を加速させていた。
すべてのグループに情報を共有するには、何か伝達手段があるはずだった。だとすればその手段はなにか。真っ先に考えられるのが電報だが、慎重に慎重を重ねる犯罪者集団が、記録に残るようなことをするだろうか。記録に残らず、なおかつ、いつでも処分できるものはなんだろうか。
様々な過程を経てレスターがたどり着いた結論は、残酷ではあるがひとつの真実だった。
グループは、連絡の伝達手段として、いつでも処分のできる人間を伝令係にしたのではないか?
そして、おそらくその人間は、黒幕に近しい人間に違いない。さらに、どの犯罪の臭いの立ちこめる場所にいても、ヤードの人間も気にならない人物。
すると、以前から窃盗などの軽犯罪で、何度もスコットランド・ヤードの警官たちに捕らえられているアーチ・ウィンガムが捜査線上に浮上した。
窃盗などの容疑で何度も逮捕されているウィンガムは、ヤードの警官たちにとっても――もちろん、ランドにとっても、すっかり顔見知りだった。ヤードの人間とも顔見知りであり、何度も厄介になっている困り者の軽犯罪者。
まさに、灯台もと暗し、木を隠すなら森の中だった。
過去いく度にもわたる捜査で分かっていたウィンガムの家に踏み込み、ウィンガムに任意同行をかけた。この段階で贋金事件関与の容疑でひっぱることを避けたのは、この事件の陣頭指揮を任されているレスター・ランド警部の考えだった。
取調室に通されたウィンガムは、慣れたように室内の一脚のイスに腰掛けると、バーテンダーに酒を注文するかのような軽さで、ランドら警官に声をかけた。
「さて、刑事さん。今日はなんの罪でしょっぴかれたんだい?」ポケットから酒瓶を取り出し、キャップをはずして一気に酒をあおった。「身に覚えがありすぎて分からねぇや」
クククと声を立てて笑うと、小馬鹿にしたように室内をねめつけた。
「お前、まだ隠し持っていたのか」
ランドは、ウィンガムから酒瓶を取り上げると、部下のジョーンズに渡した。それからウィンガムを一睨みすると、冷たいイスに腰を落ち着けた。
「さてと……」
分厚い資料を、威圧するように机の上に置いて、とりあえずの前置きを始めた。
「お前の顔を見るのも今年で何回目かな?もうこれで最後にしたいものだね」
すると、ウィンガムは、口元をゆがめてランドの顔を見た。
「おれたちもすっかり顔見知りになっちまったな。おれもあんたの顔は見あきたからこれで最後にしたいぜ。おい、タバコはないのかい。ジョーンズ君」
自分の家のようにくつろぐウィンガムに、多少の苛立ちを込めたのか、ピーター・ジョーンズは、机をバンと叩いた。
「軽口もいい加減にしろ。お前の望み通り、今回を持ってヤードとキサマの関係を最後にしようじゃないか。おまえは……」
ランドは、感情的になっている新人の部下を手で制すといよいよ本題に入ることにした。
「ジョーンズ君の言うとおりだよ。どうやら、わたしたちの関係は今回で終わりのようだよ、アーチ」
ランドの言葉に疑問符を浮かべると、態勢を崩してけだるそうに欠伸をすると、
「だといいんですがね。どうやらわたしは根っからの悪党らしくて、頭でわかっててもつい手が出てしまうんですよ。そんな私を捕まえて今日はなんですか?私はまだ何もしちゃいませんぜ」
ランドは、だったらするつもりだったのか、という言葉を飲み込んだ。今追求すべきはそこではない。
「今、ロンドンの街では犯罪が蔓延している。それらを抑止するのが、我々スコットランド・ヤードの責務だ。しかし」
一呼吸おくことにした。ウィンガムは黙って聞いている。
「我々が日夜市民の安全と平和を守っているというのに、その包囲網をかいくぐって犯罪活動を続けている犯罪組織がおるのだ。
それも、偽札という、ロンドンの紙幣流通を麻痺させかねんほどに深刻な、だ。
我々はその組織の存在を知って以来、ずっと追い続けてきた。そしてやっと尻尾をつかんだのが……」身を乗り出して、ランドの目を正面から見据えた。「おまえさんだよ。アーチ・ウィンガム」
「へへへ。おれにはなんのことだか」
ウィンガムは、ヤニで汚くなった歯を見せながら、下卑た笑いを見せた。
「我々もまさかおまえさんがこの事件に関与しているなんて思わなかったよ。顔見知りのアーチ・ウィンガムがな」ランドは、黄色くなった歯から目をそらし、机の上の書類をアーチの前に放り投げた。
「お前が偽札作りに関与しているのはまぎれもない事実なんだ。我々の捜査の結果が、それを指示している。もう言い逃れはできんぞ」
捜査報告書をめくって、ウィンガムの余罪を記した資料を読み上げていった。
その間、ウィンガムは素知らぬ顔で、数々の武勇伝を聞いていた。まるで、他人のしたことであるかのように、ランドの言葉を聞いていた。
そんなウィンガムの様子に見かねたランドは、懐から、大事そうにハンカチでくるんでいた一ポンド紙幣を取り出した。
「おまえさんが酒場で使った1ポンド紙幣。え、覚えているだろう?おまえさんが先週の土曜日に、行きつけの酒場で使った1ポンド紙幣だよ。酒場の店主を覚えているか?馴染みのマスターがいなかったもんで驚いていたそうじゃないか。
我々はずっとおまえさんを張っていたんだよ。ウィンガム、おまえさんみたいな小悪党だったなら、必ずできたての偽札を使うだろうと踏んでおったのさ」
「ど、どおりでいつもより酒がまずかったはずだぜ」
ウィンガムは強がるように言ったが、その目はランドを直視することはできていなかった。ランドはなおも、ウィンガムを見つめながら続けた。
「そうしたらおまえさん、案の定使いおった。それもマークした翌日にだ。おかげで、警官に余計な労力を使わせずにすんだよ。礼を言わんとな」
ランドのにやりとした顔をみたウィンガムは、小さく舌打ちすると、視線を壁に向けた。
ウィンガムに対して、ランドはあくまで友好的な態度を崩さなかった。
どんな小者の悪党であろうと、ランドの態度は同じだった。今、ランドたちスコットランド・ヤードの面々が追っているのは、ウィンガムのような、街にあふれているような小者ではないのだ。
このロンドンの街に蔓延しているいまいましい偽札事件の総元締めが、ウィンガムが接触をはかった人間とつながっているということが、ヤードの懸命な捜査によって明らかにされたのだった。
しかし、実際は、ウィンガムは組織の末端も末端にすぎず、事件の中核には程遠く、それを捕え、偽札偽造の組織を壊滅させるには、さらに歩を進めることが必要だったのである。そこでヤードは、ウィンガムを足がかりに、この事件の深い網の目の中に、足を踏み入れる捜査に着手したのだった。もちろん、ウィンガムを拘留している間の、組織の監視は怠っていなかった。
「へ、そんなこと言われてもしらねぇもんはしらねぇ」
ウィンガムの口調に少しの変化が出た。
もう少し詰めてみるか。
ウィンガムの様子を見て、ランドはそう思った。
「アーチ、お前さんは今までにも散々罪は犯してきているだろう?それを……」
だが、そこからが長かった。いくら罪状を積み上げ、行く先を塞いでも、のらりくらりと酔っ払いのような予測できないような動きでかわしては、ランドたちを煙に巻いていた。
このままではらちが明かないと感じたランドは、警察署長ならびに、捜査陣と相談して、いったん、ウィンガムの身柄をスコットランド・ヤード内の留置所に置くことにした。また日を改めて取り調べを行うことになったのだ。幸い、ウィンガムをヤードに引っ張ってきたのは窃盗容疑だったので、留置場に放り込んでおく理由づけもできたのだ。
その間、捜査陣はこれ以上ウィンガムが言い逃れできないように捜査の脇を固めるため、短時間の決戦に備えていた。なにせ、長く留置場に入れておくことはできない。ウィンガムの逃げ道を完全に塞ぐための詰めの一手が必要だった。
翌朝、ランドは、ウィンガムの食事を持っていくのを、自ら交代した。ジョーンズ刑事を従え、ウィンガムの待つ独房の前に立つと、ウィンガムはいつもの下卑た笑いをみせると、またも二人に皮肉を飛ばした。
「食事の時間かい?まさかパンとミルクだけだなんていうんじゃないだろうね?」
横柄にも、コールドビーフとバター突きのブレッドを要求してきたが、ランドはそれを無視して、ジョーンズ刑事にトレイを持たせ、中に入るように促した。
「扉があいているからって逃げ出そうなんて考えるなよ」
いったん屈んで檻をくぐると、ジョーンズはまけじと皮肉を飛ばした。
「そいつは無駄な算段ってやつだ。おまえみたいな悪党をやすやすと逃がすほど、ヤードの警察官は間抜けじゃない」
「へ、そいつはどうかな」
ウィンガムは、パンとミルクと、それにスープを入れた銀の皿がのったトレイを受け取った。食事メニューに熱々のスープがついているのを見て、こいつはサービスが利いていいね、とまたもや皮肉を飛ばして、スープが入った皿に口をつけた。このメニューだけでも、普段のウィンガムの食生活から考えればいい方のはずだ。
「アーチ。今日もお前さんの取り調べを行うぞ。そのメシをたいらげたらさっさと……」
ランドが言い終わるか終らないうちに、突然、カチャンと音を響かせて、ウィンガムが皿を取り落とした。
「グヴヴ……!」
ウィンガムは喉をかきむしって、苦悶の叫び声をあげると、冷たい床に倒れ、悶え始めた。痙攣は見ていられないほどにすさまじかった。ついには冷たい床から浮き上がり、頭と踵で体重を支える形で、全身を弓なりに反らせた。事の重大さに気付いたランドは、急いで部下に医者の手配をすると、ウィンガムに駆け寄った。
「しっかりしろ!もう少しで医者があくる!……おい!ブランデーか何か持ってこい!」
時間だけが過ぎていく。またしても全身が反り返る。顔面蒼白になったウィンガムが、虚空を見つめながら、苦しい息の中で叫んだ。
「アル……アル…アルヴィス!」そして、次の瞬間、ひときわ大きく体を反らせると、体がゆっくりと地面に落ちて動かなくなった。それと同時に、部下が医者を連れて取調室に入ってきた。
ランドは脈を取ると、医者の方を振り返り、首を振った。
おしゃべりなアーチ・ウィンガムの口は、永遠に閉ざされたのだった。
後の捜査会議は紛糾した。
ランド警部の責任問題はさることながら、警視庁舎内で起こった殺人事件。なにより、事件から3日経っても、犯人の特定には至ってなかったことが、捜査官の苛立ちを募らせていた。
検視の結果、アーチ・ウィンガムの死因は、致死量を超える青酸カリを摂取したことによるショック状態から至る死だった。
「直ちにウィンガムを司法解剖に回した結果、毒物は、ウィンガムが最初に口にしたスープに混入されていたことが分かりました」
捜査官の一人が立ち上がり、手帳を片手に発言した。
「それは確かかね?」
捜査の最高責任者、スコットランド・ヤードの署長が若い捜査官に質問した。警視庁内で起こった殺人事件、ましてや取り調べ中の被疑者が死んだという前代未聞の事態に、ヤードのトップ自らが捜査の会議に現れたのだ。
「はい、我々は、様々なケースを考え、やつが口にしたものをすべて調べました。やつははブレット、ミルクにも口をつけていましたが、結局、毒物と思われる反応が出たのは、スープだけでした。やつはほとんどそれを飲んでしまっていたんですが、皿にわずかに残っていたスープからそれが分かりました。ですが……」
捜査官はいったん言葉を切ると、助けを仰ぐように署長の顔を見た。
「毒物の混入経路がまったくわかりません。ウィンガムは、ランド警部も証言しているように取調室の中では何も口にしていません」
「それは私が断言できます」ランドが勢い込んで名乗りを上げた。「私はずっとやつに目を見張っていましたが、やつは何も口にしていませんし、もちろん私も何も与えてはいません。それは、相棒のジョーンズ刑事も一緒ですし、彼も同様です」
「誓って申し上げますが、ランド警部は何もしておりません。私たちはお互いにお互いを見張りあっていました。事件が事件ですので、たとえ同じヤードの仲間でも、どこで何が起こるかわかりません。彼が怪しいそぶりを見せていなかったのを私が証言できるように、ランド警部も同じことを証言してくれるはずです」
ジョーンズ刑事が熱くまくしたてると、ランド警部と目線を交わすと、お互いにそれを確認しあった。
「そうなんです」と、捜査官は報告書を見ながら続けた。「調書をとっていた担当のものも、同じように証言しています。遅効性の毒物であったとしても、それでも遅らせることの時間は、せいぜい三十分が限度です。さらに、ウィンガムがこのスコットランド・ヤードに入って取調室に入るまでの間、そして、独房の中に移送する間、やつは食べ物も飲み物も口にしていませんし、毒物が混入されていたとすると、最後にやつが口にした食事だけです。ですが、それにも可能性がないとすると、毒物がやつの体内に混入する余地はまったくないのです」
捜査官は、一度言葉を切ると、捜査員全体を見回して続けた。
「直接、ウィンガムを取り調べたお二人もそうですが、やつと接触する際には、捜査官は必ずボディチェックを行っております。したがって、――仮にですが、ランド警部やジョーンズ刑事が犯行を行ったにせよ、毒物をあの食事の中に入れることは不可能だったのです」
捜査官は、そこで一度着席した。
「自殺という線はないのか?」
署長も、すがるように発言した。
「それはありえません」別の捜査官が立ち上がると、即座にそれを否定した。「私も、ランド警部やジョーンズ刑事について捜査をしていましたから分かるのですが、ウィンガムにそのような気配はありませんでした」
「それに、ボディーチェックをしていたのは、我々だけではありません。もちろん、ウィンガムにもチェックはかけていました。やつが毒物を持っていなかった以上、自殺はないでしょう」
ランドが、――この場合にはそうならないが、助け船を出した。
「ウィンガムが、絶命寸前で言った名前も気になります」
「アルヴィス……か」
署長は、その名を口に出したくないといったような感じで言った。
「えぇ。やつが死ぬ間際に絞りだした言葉ですから、おそらくなにか事件に関わっているでしょう。もしかすると、贋金事件にも関わっているかもしれません。その場合は、慎重な捜査が必要となってきますが……」
ランドも、なるべくなら、アルヴィスという名を口にしたくなかった。その理由を言うのですらはばかれるが、誰もがそうだった。毒物の混入経路が分からず、まるで魔術のようにウィンガムを死に至らしめた方法が分からなかった。誰か賢人にすがるように、皆の目線がさ迷っていた。
「まったくもって理解し難い状況だな」
やっとのことで、署長が深いため息をつくと、捜査員の誰もが陰鬱とした表情になった。頼るべき指針を失った室内には重苦しい空気が流れ、発言することを誰もがためらった。
ランドにしても、冗談ではない事態だった。自分が捜査指揮を任されている事件で、自分の目の前で、よりにもよって容疑の渦中の人間が殺された。これは、輝かしいランドの経歴の中でも最大の汚点、大失態だった。なにより、周りの刑事たちが証言してくれているとはいえ、実質的な第一有力容疑者は、当のランド本人だった。ジョーンズ刑事にしたってそうだ。あの食事を運んだのが彼である以上、彼も疑われて当然だ。市民がこの状況を見たら、確実にランドら二人を叩きだすだろう。いや、容疑がかからなくても同じことかもしれない。みすみす目の前で殺人事件を起こされた間抜けな警官というレッテルを貼られ、叩かれる。そうなると、自分の問題だけでは済まなくなる。由緒あるスコットランド・ヤードの威信にも関わる問題だ。それだけは絶対に避けたかった。間抜けにも殺人が起きるのを見抜けなかった間抜けな自分のせいで、ヤードの看板に泥をつけてしまうのは我慢できなかった。自分はどうすればいい?混乱の中にいるランドの頭に思い浮かんだのは、昔から仲のいい悪友だった。あぁ、どうして今の今まで気づかなかったのだろう。救いの神はすぐ近くにいるではないか。
ランドは、おもむろに立ち上がって言った。
「署長」
突然、場の空気を断ち切ったランドに、署長だけでなく、皆の視線が集まる。
「彼に事件の解明を依頼すべきではないでしょうか―――」
探偵史 プロローグ 山本ワニ @holock19
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