第65話 決意


 井野が吹き矢のアルミパイプを持って、バリケードの隙間から蒼貂熊アオクズリを窺った。そして、振り返って言う。

「さすがにもう矢の残りが少ないぞ」

 ……そうか。さっき赤羽がどんどん吹かせたんだった。それはそれで正しい判断だったけど、困ったもんだ。


「いいや、矢を余らせて死ぬなんてことになったら、恥ずかしいと思わないと」

 とりあえず、思いついたことを口にする。これなら士気を落とさないだろう。井野は決して勇猛果敢ってタイプじゃないから、言葉には気をつけないと。で、僕はそのまま続けた。

「聞いていただろ?

 吹き矢が最大の武器になるかもしれないんだ。頼む」

「目潰しするという作戦は変わらないな。やるよ。

 で、それはそうとあの蒼貂熊、なんで動かないんだ?」

「わかれば苦労はねぇよ」

 井野の質問にそう応じ……、30秒も経たないうちに最悪の形でその疑問は氷解した。

 もう1頭の蒼貂熊が姿を現したんだ。見覚えがある個体だ。来客用玄関で、僕たちを見上げていたヤツだ。


 こいつ、仲間が来るのを待っていやがったな。連携を取ってくるってのは最悪だ。だけど、その最悪は簡単にさらなる最悪に塗り替えられた。これはマジに最悪中の最悪だ。

 現れた蒼貂熊の口には、赤羽が咥えられていたんだ。


 バリケードの内側に衝撃が走った。女子たちだけでなく、男子たちも声にならない悲鳴をあげている。もちろん、僕だって例外じゃない。誰もが視線を逸らしたくてしかたないのに、その誰もが目を離せない。

 そして、全員の頭に過ぎったであろう言葉がある。「復讐」だ。僕たちは蒼貂熊を何頭も殺した。蒼貂熊はその復讐として、僕たちの眼の前で残酷なショーを繰り広げようってことかもしれない。


 赤羽はまだ微かにうめいていた。

 蒼貂熊は、その赤羽を咥えたままじりじりと近寄ってくる。

 廊下を占めた2頭の死体を乗り越え、バリケードのすぐ近くまでだ。誰もなにも言わないし、言えない。こそとの音も出せない。パニックになっているのに、それを表に出して騒いだら赤羽はすぐに殺されてしまいかねない。

 赤羽を助けたいのは山々だけど、蒼貂熊に咥えられ、その腹に牙が食い込んでいる状態で、僕たちにできることはなにもなかった。


「で、電気を切れ」

 後ろから、鴻巣の震える声が聞こえてきた。

「赤羽が感電死してしまう」

 ああ、そのとおりだ。だけど、その判断が正しいのか僕にはわからない。バリケードの隙間から見える光景は、僕たちの判断力をことごとく奪っていた。


 近くで否応なく見せられる赤羽の表情は、もう正常の域じゃなかった。坂本が、「射殺いころしてくれ」と僕に頼んだのは、これを怖れてなんだ。

 この光景が僕たちに与えた効果は絶大すぎた。

 どうやら、僕の後ろで誰かが失禁したかもしれない。蒼貂熊の甘い獣臭と混じって臭いが鼻につく。これはもう、全員の隣に死神が立っているようなものだった。士気を保つとか、もう絶対無理。巨大で無慈悲な現実に、僕たちは打ちのめされていた。


 ……この場で僕にできること。

 僕もきっと正常の範囲から逸脱しつつあったに違いない。僕は矢をつがえ、打ち起こしから弓を引き絞る。折れた肋骨の痛みはどこかに消えていた。


 悪い、ごめん、坂本。ここで矢を使い果たしてしまったら、お前との約束は果たせない。だけど、まずは赤羽を楽にしてやらないと。そう、蒼貂熊の残酷なショーを阻止しないと、こっちの全員の正気が保たない。僕が非難されることになるのはわかっている。でも、それで残りの全員が生き延びられるかもしれないなら……、やろう。




あとがき

第66話 人間としての……

に続きます。

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